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レポート「子どもたちに聞いたメディアのかたち」から考えた2つのこと
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レポート「メディアと暮らすわたしたちの声 子どもたちに聞いたメディアのかたち」表紙画像
発行:NPO法人PIECES

「テレビやYouTubeで汚い言葉や下品なことを言わないでほしい。」(小学5年)
「一つの情報にとらわれて、偏ったことばっかり書くみたいな、そういうことはやめてほしい。」(高校1年)
「広告の時間が長くなったし、いかがわしいヤツも多い。」(中学1年)

「メディア」という存在について小中高生の声を聞いたレポートが先日、子どもの孤立の解消に取り組む〈NPO法人PIECES〉さんから発表されました。

上に載せたのは、その中の『メディアを作っているオトナに言いたいこと』と題されたページにある言葉です。ストレートで何とも真っ当な訴えが並んでいます。

実はこの調査発表については、〈こここ〉のニュースコーナーでの紹介も検討していました。ただ、自分たちもメディアの一端を担う立場であることを思うと、単に情報として紹介するだけでいいのか……という悩みもありました。むしろこうした声から、〈こここ〉で働く編集者がどう受けとったかが大事じゃない?と。

そこで今回は、いち編集者として考えたことを、編集部ブログという場に記してみたいと思います。(編集部:佐々木将史)

「メディアと暮らすわたしたちの声」(NPO法人PIECES)

2025年3月、〈PIECES〉さんが、日本に暮らす子どもたちがメディアについてどのように感じているのかなどの内容を調査し、まとめたレポートを発行しました。

・何をメディアと捉えているか
・メディアをどのように使っているか
・メディアを使う理由
・メディアからどのような影響を受けているか
・メディアに望むことは何か

デジタル環境を中心として、時に積極的に、時に受動的にメディアにアクセスしている小中高生の、リアルな姿が浮かびあがる貴重な調査資料になっています。

「メディアと暮らすわたしたちの声 子どもたちに聞いたメディアのかたち」
https://www.pieces.tokyo/s/web_media-interview24.pdf

本文の見開き画像。左上に「メディアを利用して心地いいことは?」

いわゆるマスコミや、〈こここ〉のようなWeb媒体に限らず、SNSやゲームまで幅広く対象になっていて、それらを回答者たちがポジティブに捉えている側面も見えてきます。もちろん、本人の気づかぬ影響(情報の偏りのリスクなど)を感じさせる言葉もあって注意が必要だなと思いつつ、それは年齢に限らず全ての人が、同じリスクを今抱えて生きているともいえます。

もう30年も前のことを思い返して、自分も思ってたなぁ……ここは変わってないなぁ……という部分もありますが、SNSの存在感はやはり大きいことも改めて突きつけられます。

自分では解決のできない「イヤ」への憤り

このレポートには途中から、メディアに出てくる人や広告の内容、情報が掲載される場やしくみについて、回答者にとってのたくさんの「イヤ」が出てきます。

本文の見開き画像。左上に「メディアに触れていてイヤなことは?」

読んで率直に思ったのは、アンケートに回答した子どもたちは、それぞれのメディアの良いところ、危ないところを敏感に感じ取りながら付き合っているということ。僕自身ですら、「うんうんめっちゃわかる、そういうコンテンツ嫌やし、広告の内容にも配信システムにも言いたいことたくさんある」そんなふうに思う違和感に対し、「なんでこうなん!?」という苛立ちが言葉の端々ににじみ出ているように僕は感じました。

背景には、オトナに比べ選択肢を多く持たない子どもたちにとって、たとえ違和感のある環境であっても一方的に受け入れざるをえないことが多い……という構造もあると思います。

川上康則さんが著書『教室「安全基地」化計画』で「学校」という身近な場所で明らかにしたように、そもそもオトナと子どもの間には権威勾配があり、それを感じるのは権力を持たない側です。逆に権力を有する側は、なかなかその事実に気づけません。

子どもの権利条約から30年が経った今も、子どもが能動的に社会に関われる場所は、まだまだ圧倒的に少ない状況が続いています。実際このレポートで子どもたちが指摘している「イヤ」なことの多くは、オトナが一方的に子どもに提供しているものでしかありません。

レポートの「イヤ」は、ただそれが「イヤ」であることはもちろん、その「イヤ」を自ら解消するすべがない子どもたちの訴えであるようにも思います。

メディアをつくる一人として

冒頭にも紹介した、レポート終盤にある『メディアを作っているオトナに言いたいこと』を、そうした背景も頭に置きながら読んで、改めて2つのことを考えました。

1つは、メディアをつくる側として、子どもたちの「イヤ」をどう減らしていくかということ。(もし身近な子どもたちに「こういうのイヤなんだけど」と直接言われたら、指摘にまず同意したうえで、加担しないように自分としては仕事しててね……ってアピール(言い訳)したくなるなぁと正直思います。が、そこで立ち止まってはいけないわけで……。)

ここで指摘される「オトナ」とは、第一義的には、該当するコンテンツ(たとえば「不倫報道」「詐欺」などの言葉がレポートに出てきます)の制作や発信、しくみづくりに関わっている職業人を指すでしょう。そして〈こここ〉というメディアに関わっている自分も、その立場を免れるものではありません。

僕自身も〈こここ〉では当然、子どもたちが不快に思うコンテンツは作りなくないと考えているし、それに向けて一言一句に気を配り発信するようにしています。それでも、至らないことはあるかもしれません。

〈こここ〉では記事をより多く届けるために、広告配信のしくみも利用しています。何かを煽ったり、捻じ曲げたりする発信はしないよう心がけていますが、それがいつどこで、誰に、どのように表示されるかはコントロールができていません。

つくり手の立場にある人で、同じ課題感を感じている人は少なくないのではとも思います。具体的なアクション案がすぐ浮かぶわけではないですが、コンテンツ表現における適切な配慮のラインをどう設定するか、それをどうコントロールして届けるか、ぜひいろんな人と一緒に考えたい問題です。

子どもの傍にいるオトナの一人として

もう1つは、回答者の頭にある「オトナ」像には、一人ひとりにとって身近な誰かがイメージされているのかも?ということ。これはメディアで活動する自分というより、子を持つ親として考えたことかもしれません。

日々ままならない構造の中に身を置いている子どもたちにとって、少なくとも自分よりも多くの選択肢を持つオトナには、「なんでこうなん!?」な状況を変えていく責任がある。そう考える子どもは、きっと少なくないはずです。そういう時、どこか遠くの誰か(コンテンツ制作者とかプラットフォーム運営者)に気持ちを向けるよりも、もっと身近なオトナ(親や先生など子どもに直接関わる人)へ「社会を変えられる立場にあるんでしょう。そういうものを作る人をなんとかしてよ」「人を傷つけるものを放置しないでくれ」と思うことは、かつての自分を振り返っても、ごくごく自然な感情な気がします。一歩間違えると1つ目の責任放棄のようになるので、ちょっと書き方が難しいですが……。

かつて不快だったものも、年齢とともに何とかやり過ごせたり、見て見ぬふりをできたりすることってあります(それはそれで生きるすべではあるはずです)。でもそれができない存在がいることを、こういったレポートからちゃんと受け止める。すぐに変えられなくても、何を感じているかを教えてもらう。そして、変えることを諦めずに行動し続ける……。それもまた、より選択肢の多い立場にいる人ができることではないかと今思っています。簡単ではないにしろ。

そう考えたとき、先日“家庭”をテーマに京都北部の児童養護施設「てらす峰夢」をたずねた取材を思い出しました。

「ここに来る子どもたちは『どうせ大人が決めるんやろ』が口癖になっている。その度に『あなたの選択次第で可能性が広がるんだよ』と話します」という、施設長の櫛田啓さんの言葉が今も頭に残っています。そして同じことが、しばしば無力感に囚われがちな僕らオトナにも言える気がします。

「どうせ誰か(偉い人)が決めるんやろ」。そんな思考にならないために、何ができるでしょう。僕らはもっと自分の考えを真剣に話し、聞き合う場が必要なのかもしれません。