福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

こここ文庫

だまされ屋さん 星野 智幸

本を入り口に「個と個で一緒にできること」のヒントをたずねる「こここ文庫」。今回は、イラストレーターの三好愛さんに選書をお願いしました。テーマは「他者の世界をおもしろがる」です。

星野智幸さんの小説『だまされ屋さん』を紹介いただきました。三好さんは「『思いやり』とか『やさしさ』とか、そんなものを差し出す前に、他者の世界をおもしろがること、を教えてくれる本です」と言います。(こここ編集部 垣花)

【書影画像】だまされやさん
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ゴールとして「思いやり」が設定されているうえで通過してしまう「人の気持ち」

子どものころに、なにを考えて生きていたかということを思い返すたび、なんだかすごく「人の気持ちをわかる」ことを大事にしようとしていたなあ……という感覚にたどりつきます。

それは、生きていく中で自発的にそう思った、とかではなく、たぶんきっかけとしては、小学校での道徳の授業やホームルーム的な場で、「思いやりを持つこと」というのをしつこく教わったからだと思います。人の気持ちをわかってあげて、思いやりを持たなきゃいけないんだなあ、ということを、その頃の私はとても真剣に信じていて、言われたとおりせっせと友達の気持ちを想像し、思いやりを持つことにせいを出していました。人の気持ちというのは、気合いをいれれば想像できる簡単なものなのだと思っていました。

今振り返ると、ゴールとして「思いやり」が設定されているうえで通過する「人の気持ち」なんて、「思いやり」に早くたどり着きたいあまりないがしろにしてしまいがちで、誰かの気持ちについて、わかるわかる寄り添わないと、などと思っても、たいていの場合そのあと発動しなければならない「思いやり」や「やさしさ」に気をとられて、ちゃんとわかってはいなかった気がします。

そこにあったのは、他の人の気持ちをパッと見で一方向から捉え、自分の中の5種類くらいしかない箱にぼんぼんと分類して、しまいこんでしまうような雑さです。この雑さは、小さいころからの積み重ねでクセになってしまっていて、箱の数はいささか増えはしましたけれど、分類の箱を撤去する方法を、私はずっと探しています。

星野智幸さんの『だまされ屋さん』は、「思いやり」とか「やさしさ」とか、そんなものを差し出す前に、他者の世界をおもしろがること、を教えてくれる本です。

問題がたくさんある一組の家族に赤の他人が家族のふりをし、ぬるりと入り込んできて、という、一見サスペンスかと思う導入ですが、特に大きな事件は起きず、会話劇と回想がひたすら重ねられます。家族の人それぞれの人間性が、あらゆる角度から語られます。(その緻密さは、物語が終わったあとに巻末の主要参考資料のラインナップと量を見ると、納得……!です。)

興味深いのが、入り込んできた他人の夕海(ゆうみ)が発する「だよね。だからここでは、そういう力関係なしで、分類もなしで、ぼんやり輪郭のないまま、おしゃべりしようよ」というセリフです。母と長男、次男と嫁、長男と長女、さまざまな関係性の中で、悪意や失望が錯綜しているため、問題を話し合っていくならば、この先解決か破滅かしかないように読み手は思うのですが(小説だし)、「ぼんやり輪郭のないまま」それぞれの登場人物がたくさんの気持ちを放出していくので、個々の人間性が家族の枠を越えて混じり合っていき、この人のこの気持ち、私も感じたことあるかもな、などと読み手側も思ったりして、急いでページをめくるのではなく、感情でできたお風呂にでもゆったりとつかっているような心持ちになります。

また、会話の途中で、長女の巴(ともえ)が「そりゃそうだ。私たちだって、突然言葉が出てきて、しばらくしてからその意味がじわじわ沁みてきたんだから。」ということを言っており、それぞれが発した言葉も、最初から持っていた感情にもとづいているのではなくて、お互いしゃべる中で醸成されてきたものだということがわかります。臨場感のある会話の中で、ゆらゆらとうつりかわるそれぞれの登場人物の心情に合わせて、私たちもいっしょくたにその世界にまじりあっていくような読書体験です。

なんというか、人間というのは全然固定されてなくて、時間の中でうつりかわったりとか、人との関係の中でどんどん変わっていくものなので、「人の気持ちをわかる」なんてことは到底むつかしいことなのだというのを、私はこの本を読む中で心地よく理解しました。わかる~と思って無理やり他人の気持ちを自分の気持ちの型にはめようとするのではなくて、一歩さがっておもしろいなあ、などとお互いの世界を眺めるくらいが、人と人との関係性において、ちょうど良いところなのかもしれません。