こここ文庫
みんなの「わがまま」入門 富永京子(著)
本を入り口に「個と個で一緒にできること」のヒントをたずねる「こここ文庫」。今回は、グラフィックデザイナー/イラストレーターの惣田紗希さんに選書をお願いしました。テーマは「声をあげたいときに背中を押してくれる本」です。
グラフィック表現にとどまらず、社会で生きる一人として覚えた“違和感”を時に言葉に、時に人を巻き込むプロジェクトにしてきた惣田さん。しかし、声をあげるごとに、息苦しさも感じるようになったといいます。
どうすれば、誰もが気軽に意見を伝えあえる社会になるのか。『みんなの「わがまま」入門』には、そのヒントがあるかもしれません。(こここ編集部 佐々木将史)
「おかしい」と言えるハードルは低い社会のほうがいい
「わがまま」というと、「自己中」とか「自分勝手」と同じようなイメージがある人も多いかもしれません。ただ、その「わがまま」が生まれた背景や経緯をひもといてみると、「わがまま」は自分のみならず、同じように「ふつう」に縛られて、その底に隠れていた人々を救う力にもなるはずです。
『みんなの「わがまま」入門』P.30
声をあげることは、わがままなのだろうか。
「自分はこんなことに困っている」と声をあげる人。「これはおかしい」「変わってほしい」と声をあげる人。時間を経て、話すための言葉を得て、自分の経験について声をあげる人。遠い国のひどい現状のために声をあげる人。身のまわりの人に向けて、一緒に問題を考えてほしいと声をあげる人。
この本では、“「わがまま」を「自分あるいは他の人がよりよく生きるために、その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動」として定義”(P.13)し、個人的なこと、社会のこと、それらに結びつく政治を日常的なものにする「社会運動」の役割を考えていく。そして、人それぞれの違いや、背景にある事情、構造的な問題を考えながら、「わがまま」を言うことや「社会運動」に対しての抵抗感を解きほぐしていく。
誰かの声を否定することは、自分が困った時に困ったと言うハードルも上がっていくこと。好きなものを好きと言い、自分が関心あることを言葉にするのも、声をあげる土台づくりになること。中高生向けに書かれているので分かりやすく、自分も声をあげるにはどうすればいいのか、また声をあげた人に対して何ができるのか、どう受け取ればいいのかと悩む大人にとっても読みやすい。
自分が声をあげるのは社会運動のためではない、と思う人もいるだろうし、自分の行動が社会運動と定義されることに抵抗がある人もいるだろう。私も少し前までそうだった。ニュースで見て「これはおかしいのではないか」ということをSNSに投稿したり、選挙について話すきっかけをつくるための投票ポスターを制作したり、鳥取県にある本屋、汽水空港さんが始めた、身のまわりの人の困りごとをカタログにして届ける企画『Whole Crisis Catalogをつくる。』を読んで自分の地元でもやってみたり。最近では、イスラエルのジェノサイドを止めるための請願署名を地元で集めた。当初は社会運動の自覚はなかったけど、バリバリの社会運動である。
「こうすれば、いろいろな問題を身近に感じてもらえたり、声をあげやすくなるのかな」と考えて実践してきたことだけれど、重ねるうちに、完璧な結果まで求められる息苦しさを感じるようになってきた。勝手に期待されて勝手に失望されて、他人からのハードルが上がるのも、「意識が高い人」「行動できる人」とカテゴライズされるのも嫌だった。そういうストレスを抱えるなかでこの本を読んで、社会運動の役割を自分の中で定義し直すことができた。そして、自分の実践で人が集まらなくても、届かなくても、たったひとりに伝わったならそれでいいと、自分へのハードルを下げることもできた。
それは、自分以上に行動している人、自分以上に声をあげている人への否定になってしまうだろうか。著者も同様に苦い経験を「おわりに」で綴っている。しかし同時にこの本は、声をあげることが今の社会でなぜ難しいのか、どうすれば「わがまま」に向けられるまなざしが変化していくのかも明らかにしようとしている。なので、すでに声をあげている人が、自分の声がどう受け取られているのか悩む人にもおすすめしたい。
私は私で、グラフィックデザインの仕事と同様に、情報を整理し、これこれこういうわけでこれをやっていると伝えて、共にできることを考えてくれる人を少しずつ増やしている。ただ、そう言っているとまた自分や周囲へのハードルが上がるので、「増えたらうれぴ~」くらいの淡いレベルまで期待値を下げる。一度土台に上がってきてくれた人に、「では土台があるのであとはお願いします」と頼ったり頼らなかったりしながら、人からの期待に疲れたら休む。そんな「わがまま」を私は繰り返している。