福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

こここ文庫

くるまの娘 宇佐見りん

本を入り口に「個と個で一緒にできること」のヒントをたずねる「こここ文庫」。

今回は公認心理師・臨床心理士 信田さよ子さんに選書をお願いしました。テーマは「自分自身の加害性について、立ち止まって考える」です。

くるまのむすめ
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私が毒親という言葉を使わないわけがここに書かれている

本書は母と娘について書かれた最上の文学だ。

AC(アダルト・チルドレン)が1996年に流行語になり、2008年には私が書いた『母が重くてたまらない』(春秋社)が話題になった。前者は「親の被害を受けて育った」ことのカムアウトだったし、後者は、そこにジェンダーの視点を投入して、娘がどれほど母に苦しんでいるかを書いたものだ。出版当初からメディアで働く女性たちに共感する人が多かったと記憶している。

しかし東日本大震災を経て、自分の体験記を著す女性たちが登場した。それと軌を一にするように「毒親」「毒母」という言葉が広がっていった。

母のことを「重いと感じる自分」から出発するのと、「母が毒なんだから重いと感じる」「毒母だから批判してもいい」とは違う。「自分の感じ方」「自認する私」を正当化するために、母を「毒母」と名付けているのではないか。そこから他者を「名付ける」権力を感じてしまう私は、毒などと言わずに、正々堂々と「母が重い!」と主張すべきだと思う。「毒」という決定的表現を使うほど追いつめられているとしても、本書のような表現だってあることを知ってほしい。

『くるまの娘』で描かれた家族の情景は、一筋縄ではいかない。暴力的でありながら誰よりも子どもっぽい父、かわいそうでありながら無神経な母のあいだで暮らす主人公の姿は、切実でありながら、なぜか悲惨ではない。どこか希望さえ感じさせるのだ。

「毒」という言葉を使わなくても、親との関係をもっと深く閉塞的に、しかも豊かに描くことができる。この世に文学の存在価値があることを知らしめる一冊だ。