新年あけましておめでとうございます。〈こここ〉編集長の中田一会です。
寒さの厳しい日が続いていますが、あたたかな年を迎えられているでしょうか。2022年がみなさま一人ひとりにとって、よい一年になることを心よりお祈りいたします。そして本年も〈こここ〉を、どうぞよろしくお願いいたします。
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こうして新年の挨拶からはじめてみて感じたのですが、どんなときでも暦が1月1日を迎えれば、祝福の言葉が交わされるってすごいことですね。創刊準備をしていた昨年1月に比べ、世の中の状況がよくなったとはいいがたいものの、それでも月日は進み「おめでとうございます」がやってくる。淡々と進む季節や暦に、ときどき救われる気がします。
私は今、四国のとある中山間部のまちで過ごしています。
昨秋、少し働きすぎたようで体調を崩しました。もともと体力がないのと、一つのことに集中するとバランスを欠く癖があり、生活そのものを見直さないといけないなと痛感しました。そこで「まずは環境を変えてみよう」と思い切って移動してきたのです(幸いにも当時は変異株が広がる前の時期でした)。このまちには父方の古い家があり、現在は祖母と両親が生活しています。
山々に囲まれた、谷間の小さなまち。豊かな川が流れ、川沿いの平野部を中心に人がぎゅっと集まり暮らしています。私は期間限定で居候させてもらいつつ、企画や編集の仕事をリモートで続けています。
家族と対面で会ったのは3年ぶり、両親と一緒に生活をするのは実に17年ぶりです。体調不良の大本を遡れば、新型コロナウイルス蔓延による環境変化に行き当たるのですが、一方でリモートワークという選択肢がとれるのも生活様式の変化によるもの。いいも悪いもなく、「いろいろ変わった」という事実が眼前に広がっている感覚があります。
さて、こちらに来て毎日何をしているかというと、仕事以外はだいたい散歩をしています。ときどき農作業や家事を手伝ってみたり、動物の世話をしたりはするものの、経験はないし技術は低いし車には乗れないし体調はまだぼちぼちだしで、できることといったら散歩ぐらいなのです。
子どもの頃から夏休みや年末年始になれば訪れていた地域でしたが、こんなに歩き廻ったことはありませんでした。おかげで発見もあります。
「どこを見渡しても山」という環境を散歩するうちに、ある一つの山に心惹かれました。その山の名前を知りたくなったり、登りたくなったり、撮りたくなったり、違う山から眺めたくなったりしています。突然やってきた「近所の山ブーム」に家族を巻き込み、登山道を一緒に登ってみたり、その山についてのエピソードや植生、歴史を聞いたりも。
そうしてひとつ取っ掛かりができると、他の物事にも興味が湧いてきます。知ろうとすることで、ぼんやりとしたイメージで捉えていた山々が具体的な存在になります。「自然」と呼んでいた場所のほとんどは人が手入れをしてきた「里山」で、このまちならどこにでもあるみかん畑にも手入れの行き届いた農園から、主(あるじ)不在の荒廃した土地まで様々な状況があることを知りました。みかんの箱詰めを手伝いながら、都会のスーパーでぴかぴか光って並ぶ「粒ぞろいの傷なしみかん」の裏には、不揃いで傷だらけで、でも味は劣らないたくさんの規格外の果実があることも知りました。
そうして、まちの成り立ちや農業や高齢化について、少しずつ出会っています。それ以前も知識だけなら持っていたことかもしれません。でもこの場合の「知る」はもう一歩深いというか身体に滲みるというか、その後目にする景色まで変わるような「知る」でした。
私自身、ぼんやりと生きてきたんだと思います。地域のことも、そこでの仕事についても、衣食住にまつわるさまざまな知恵や工夫も、家族のことも知らなかったし、知ろうとしてこなかった。それは、“「知る」という経験そのもの”についても、言えることかもしれません。「知る」ことは面白いし、恐ろしい。ただとにかく大事なことだと感じています。
そんな四国生活の雑感から〈こここ〉に話を戻すと、私たちが掲げている「福祉」や「クリエイティブ」もどこまで「知る」ことができるのかな、今「知っている」と言えることは何だろうな、ということを考えたりもします。いや、「すべて知っている」なんて状態には絶対にたどり着けない、大きなテーマに踏み込んでしまったことを実はよくわかっていて、その途方もなさにたびたび呆然としています。
それでも、私という滞在者にとって、とある魅力的な山が(そう、とても魅力的な山なのです。大きくも有名でもないのに、なんとも気になる存在感を放っています)まちのことを「知る」入口になり、「何も知らない」自分に出会うきかっけになったように、〈こここ〉も「個と個で一緒にできること」の入口をつくる存在でありたい。福祉とは何だろう、創造性とは何だろうと考えるきっかけの場所でありたい。「福祉をたずねる」という余所者(よそもの)の立場に葛藤はあるものの、そこからできることを探してみたい。
創刊時、「こここについて」というページで、このウェブマガジンがやっていくことは「旅」であり、道中で出会うのは「問い」だと書きました。2022年の〈こここ〉も旅を続けたいと思います。人間の真ん中にあるはずの「福祉」のことも「創造性」のことも、私たちはきっとまだ全然知りません。だからこそ知りたいし、知ることで得る喜びと畏れの両方を分かち合いたいなと思います。
そうして〈こここ〉がどんな場になっていくかを楽しみにしたい。「旅」と喩えたからには、そんな偶然の出会いを信じる力を携えて、一歩一歩進んでいこうと思います。2022年も〈こここ〉をどうぞよろしくお願いいたします。
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最後に。四国で居候生活をはじめるとき、ある人に教えてもらった詩に勇気づけられたのでご紹介します。今回の記事タイトルもこの詩から引用させていただきました。咲いたら花だった、吹いたら風だった。私の「知る」はこんなイメージかもしれません。
“なにもさうかたをつけたがらなくてもいいではないか
なにか得態の知れないものがあり
なんといふことなしにひとりでにさうなってしまふといふのでいいではないか
咲いたら花だつた 吹いたら風だつた
それでいいではないか”
(高橋元吉詩集『草裡I』より)
(編集長・中田一会)
Information
こここ編集部からのご案内
〈こここ〉の2021年公開記事を振り返る企画を公開しています。約150本の記事のなかから編集部メンバーによる「印象に残った企画・取材」をピックアップ。福祉をたずねながら感じたこと、考えたことを話し合いました。ぜひご覧ください。