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【イラスト】さまざまな形の生き物たちが、歩いたり、浮いたりしながら移動している【イラスト】さまざまな形の生き物たちが、歩いたり、浮いたりしながら移動している

家の前のまっすぐな道|三好愛 あらゆるものが、はやすぎる|エッセイ連載 vol.04

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ああ、どれもこれも、はやすぎる。「あらゆるものが、はやすぎる」をテーマにさまざまな方にエッセイを寄稿いただく連載です。今回は、イラストレーターの三好愛さんに綴っていただきました。(こここ編集部 垣花)


あつー、と保育園の帰り道を歩いていたら電動自転車がさーっと脇を走り去っていって、いーなー、と心から思いました。電動自転車、はやすぎる。かたや私は炎天下、3歳半ばの子どもと道端にいるてんとう虫をGoogle レンズで検索していました。

この街に越してきて、この保育園に転園したら、ほぼ全員の保護者が電動自転車をこいでいて、私は圧倒されました。みんなはやい。颯爽と登園し、颯爽と帰宅していきます。(少なくともそう見えます。)

自宅から園までの距離はまっすぐな道600mほどで、600mなんて子どもと一緒でも徒歩で10分くらいだろうとはじめはたかをくくっていました。けれど、抱っこしてほしい、たんぽぽをつみたい、あの草はなんていう名前だ、やっぱり違う靴下がよかった、など、子どもにはさまざまな要望があり、抱き上げたり、立ち止まったり、靴下をかえに家へ戻ったり、ということをしていると、場合によっては登園まで30分くらい、かかります。自転車のうしろにポンとのせてそのまま保育園までノンストップで行けたらどんなにか楽なことだろう、と行きも帰りも、あらゆる保護者に抜かされるたび、電動自転車への憧れはつのりました。

とは言え、全装備を揃えると30万近くする乗り物を気軽に買うことはできず、しかも電動自転車のうしろに子どもを乗せるのはせいぜい小学校に入るくらいまで、という情報をお店で教わり、今買ってもあと3年とかなのか…と思ってしまうと一層、手を出せませんでした。私もパートナーもフリーランスゆえ、何時までに出社、という縛りもなく、登園に時間がかかったら仕事開始をやむなく遅らせれば解決できる、という状況も、私たちの電動自転車を買いたい気持ちを鈍らせていました。

そして、こんなに思っているのに手を出せない原因というのはもちろん値段だけではなくて、やっぱり、私が本当にほしいものは電動自転車じゃないんだ!というところでした。私は、電動自転車じゃなくて、電動自転車に乗ることで生まれる余裕がほしいだけなのでした。電動自転車自体が、四六時中愛でていたいような、玄関に置いといて見るたびにむしゃぶりつきたくなるような対象であれば、迷わず買える気がするのですが、子どもの安全を優先した親子づかいの電動自転車というのはメーカーがかなり限定されていて、園の駐輪場にもズラッと同じものが並んでおり、そうなってくると自分の中で物としての電動自転車は透明化されてしまい、私が本当に欲しいのは、移動がはやくなり、楽になり、時間や体力を他のことに使えるという余裕、なのでした。

そのもの自体を心から欲するのではなくて、これを手に入れることで発生するいくばくかの余裕を30万で買おうとしているだけなのか〜〜と思ってしまうと、そうやってためらうこともまた、まだ見ぬ私の電動自転車はあんまり良く思わないかもな、という配慮まで発生しまい、私は二の足を踏み続けました。

そうしているあいだにも日々はすぎ、子どもをうしろに乗せられるリミットがより近づいてきて欲しい気持ちが下降気味になり、それに反して子どもは成長し、肉をつけ重たくなって抱っこが大変になり、でも、一歳ごろに買っておけばきっと長く使えたはずだ、という後悔もあいまって、今日も私は休み休み、まっすぐな道を保育園まで、家まで、子どもと一緒に歩いています。

自転車に乗って走りさるかわりに、子どもと豊かな散歩の時間を過ごしているんだ、と考えることもできましたが、登園時間の30分中、豊かだなあ、なんて思うのはせいぜい1分くらいのことで、1分ぶんの感情を使ってでも自分を納得させようと試みましたが、それもすごく姑息でした。このアリがなんのアリか調べてほしい!と子どもに言われて、スマホのカメラでアリに焦点をあわせ、Google レンズで検索する瞬間は、ちょっと今豊かな時間かもしれないな、なんてことも思いました。でも、小さなアリにいくら焦点を合わせようとしてもGoogleが認識するのはアリが歩いているアスファルトの地面だけで、アスファルトの類似画像がたくさんあがってきてしまい、このアリはなんていう名前か知りたすぎる子どもに対して、Googleはこの画面をアスファルトとしか思っていない、アリのことは小さすぎて認識できず検索してくれないのだ、私たちはこのアリの名前を知ることはできない、と説得する時間は、さっきとは一転、不毛な思いに満ちていて、もし電動自転車があったなら、この時間を一息に通り過ぎることができるのに、と思いました。

いよいよ買うかも、やっぱ買わないかも、を全力で何回も行き来した結果、私はついに、電動自転車を買うか買わないかが、どうでもよくなってしまいました。今は、買うか買わないかの真ん中にいて、そのままだらだらとやり過ごしながら生きています。

自転車に乗りながらリコーダーを吹く学生を見たときくらいに、そのきっかけはありました。自転車に乗りながらリコーダーを吹く学生は、私たちが毎日通っているまっすぐな道に、登下校時と思われる時間帯、あらわれました。両手をつかってリコーダーを持ち、何かの曲を吹きながら姿勢良く自転車をこいでいました。時間を惜しんで練習したい様子でもなさそうで、吹きたいから吹いている様子でもなさそうで、リコーダーが手元にあるから仕方なく吹いている、という顔つきをしていました。

私は最初彼を見たとき、心底うらやましくなりました。私はどうにか移動を効率よくすませ、体力や時間に余裕をひねり出そうとしていましたが、気だるげに音楽を響かせながら自転車にのる学生は、安全面では問題がありつつも、移動そのものに余裕があふれていて、そのことに衝撃を受けました。

学生を見てから、あらためてあたりをみまわしてみると、私たちが通っているまっすぐな道には実にたくさんの、移動している人やものがありました。ベビーカーをゆっくりと押しているおかあさんがいました。理由はわからないけれどけわしい顔で歩いているおじいさんがいました。ポータブルラジオを持ちながら何往復もジョギングしているおじさんがいました。凝ったデザインのTシャツで犬を散歩しているおばあさんがいました。歩行者を優先してのろのろ走る車がありました。道の横の高架には中央線が走っていました。たんぽぽの季節が終わったあとも、何かの綿毛がその辺をふよふよとんでいました。みんな、それぞれのはやさで、おのおのの時間を移動していました。

まっすぐな道というひとつの場で、人もものもお互いには干渉せずに、みんな自分の向きで、それぞれのはやさで進んでいくのは、とてもすごいことなんじゃないか、と思いました。

家の前のまっすぐな道を俯瞰してみたときに、そこではいろんな人やものが移動をしていて、移動をすることで、みんなの時間は進んでいきます。毎日同じ時間帯にあらわれる人やものでも、毎日見ていると服とか顔つきとか日差しとか、少しずつ様子が違います。そこには、手をつないで歩く私と子どももいて、電動自転車にのっている私と子どももいて、歩くはやさで時間が過ぎようが、電動自転車のはやさで時間が過ぎようが、お互いの時間は損ね合うことなく、ただまっすぐな道を進んでいきます。そういうふうにまっすぐ進むことを積み重ねて、それぞれの立場にとっての繰り返しじゃない毎日が、生まれていくのがやっぱりいいな、と思います。

【イラスト】さまざまな形の生き物たちが、歩いたり、浮いたりしながら移動している

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連載:あらゆるものが、はやすぎる|エッセイ連載