ああ、どれもこれも、はやすぎる。 「あらゆるものが、はやすぎる」をテーマにさまざまな方にエッセイを寄稿いただく連載です。 今回は、作家のくどうれいんさんに、綴っていただきました。(こここ編集部 垣花)
油揚げの賞味期限ってはやすぎる。と、油揚げを買うたびにそう思う。お豆腐の賞味期限が短いことは、まあなんとなく理解できる。水に浸かっているし、白くて柔らかいし。しかし油揚げ。おまえは揚げられているではないか。完全に火が通っているではないか。そして、スポンジのように軽く、茶色く、いかにも日持ちがしますよという顔をしているではないか。
最近、よく豆腐を食べている。腹持ちもよくなにより味が好きなのだけれど、毎日のように冷奴を食べているうちにスーパーのものに飽きて、いちばん安い絹豆腐から、たまたま値引きされていたよい豆腐を買ってからと言うもの、おいしい豆腐がおいしい、ということに気が付いてしまった。素材そのものを食べるものだからこそ、豆の味がする豆腐っておいしい。
ある日、気に入っている魚屋の隅のめかぶやわかめやすき昆布やもずくの売り場の更に奥に、ひっそりと豆腐のコーナーがあることを発見した。そこに普段のスーパーでは見かけないパッケージがあった。善五郎という田沢湖の豆腐メーカーらしい。いかにもおいしそうな佇まいなので結構値が張るだろうと思ったら、思ったよりも安い。はたして、と買って帰ってみると、とろけるようなおいしさに虜になってしまった。
絹豆腐なのに寄せ豆腐のようにたゆんたゆんとやわらかく、舌で押すだけでとろりととろけてしまう。それからと言うもの、その魚屋に行くときの半分はその豆腐商品が目当てになった。決まって絹豆腐を買い、たまに寄せ豆腐を買い、卯の花を買ったこともある。絹豆腐は大抵今日明日中に食べきらないといけないから、買おうとして手に取った瞬間に翌日のランチのスケジュールが「絹豆腐」と埋まる。
その日も絹豆腐目当てに魚屋へ行った。早くも「瓶うに」が並んでいて、夏が来たなあとそわそわする。ご飯の進みそうな塩鮭、子持ちのかれい、「天ぷらフライに」と書かれたメヒカリに目を奪われつつ、豆腐のある隅まで歩き進める。すると、なかったのだ。豆腐がひとつ残らず売り切れていた。
ぬかった。このうまさを知ってしまった人はきっとわたしの他にもいるだろう。すっかり豆腐を買うつもりで持った青いかごが空っぽのまま軽い。手持無沙汰になって、そこで善五郎の油揚げも売られていることに気が付いたのだ。どう見てもおいしい油揚げだった。すこし茶色めで、ぶわぶわと歪んでいるところがまたおいしそうではないか。その横にいつもスーパーで買ういちばん安い油揚げが置いてあったのだけれど、並んでいるのを見ると黄色でぺたっとしたその油揚げがやけにひ弱に見える。わたしは迷わず油揚げを手に取った。
ごきげんになって、レジまでの道で分厚いたらの切り身が安いのでそれもかごに入れた。きょうは新玉ねぎと一緒にバター醤油で酒蒸しにしよう。油揚げはお味噌汁に、ううん、菜の花と和えようか、いや、トースターで焼くだけで十分にごちそうかもしれない。しかしここはあまく煮つけてうどんにのせるのもいい……こんなにも夢を抱いて持ち帰ったはずなのに、油揚げは冷蔵庫の中でほったらかしになった。
きょうの主役はとりあえず鱈だもの。おいしそうだからこそ、たらが主役の献立の日にこんなに立派な油揚げを使うのはもったいないと思ってしまったのだ。油揚げがあると冷蔵庫を開くたびにこころ強い。何でも作れるぞお、と思う。だからこそ今日の献立でなくても、まあ、明日使おうというのを繰り返して二日経ち、明日使おうと手に取って確認してみると、賞味期限がきょうだった。三日しか持たないのか! ごめん、油揚げ! わたしは冷蔵庫の前で陳謝した。分厚い油揚げが三枚。これを今日中にすべて食べるのは無理だ。致し方ない、と思いつつ三角に切って冷凍した。
わたしは賞味期限を結構気にする方だと思う。一日過ぎるだけでも結構はらはらする。冷蔵庫を開けるとそれぞれの食材の上にデジタル数字で残り日数が書かれているような心地がしてしまう。たまご四日、ソーセージ十日、キムチ十一日、牛乳二日。賞味期限前に冷凍すれば一旦そのカウントダウンが止まるのだけれど、それでも一か月以内には使い切りたいし、絶対に冷凍しないほうがおいしいと信じているので、味が落ちると思うと申し訳ない気持ちになる。
キッチンでわたしは常にカウントダウンに追われている。夫が帰ってくるまでに夕飯が出来たてになっている状態にしたい。となるとこれとこれを食べきらないといけないから……そうやって考えているとき、妙にいきいきとする。自ら選んで買ったカウントダウンに苦しめられているはずなのに、どうにも楽しいのだ。賞味期限。わたしはよくその言葉を「締切」と言い間違えてしまう。「きょう豆腐が締切なんだ」「賞味期限ね」と訂正する度に夫はおもしろがる。おいしいうちに食べられる期間のことなのに、豆腐が頭にはちまきを撒いてペンを握っているような気がしてかわいい。あらゆる賞味期限がわたしを追い立てる。うっかり予定外の外食をしてしまったり、誰かから今日食べなければいけないものを貰ったりして、どれだけ予定を立てていても献立は崩れる。
しかし、崩されてなお、まったくもうと言いながらわたしはとても楽しそうにしている気がする。そもそも、小さい頃からなにかとはちゃはちゃしていた。「んもう!」と言いながら困った顔で焦っている方が性に合っているのかもしれない。忙しい現代だからこそ、ゆったりとした時の流れに身を任せるこころの余裕が必要なのだということはよくわかる。
しかし、ゆったりとする、というのがわたしは苦手なのだ。たまに、風に揺れる木々や海の波のひかりなどを見ていると一時間など平気で経ってしまう、という人がいるが、わたしは耐えられない。絶対に、ぎーっ! と頭を掻きむしりたくなってしまうと思う。もちろんその景色を前にすれば(すてきだなあ)とこころから思うのだが、気が付いたらこんなに時間が経っていた、という経験は執筆以外にはない。海をただぼんやりと眺めているのも苦手で、五分後にはこのあたりのおいしい鮮魚を出す定食屋などを調べ始めてしまうと思う。
おいしいものほど足が速い。けれど、わたしだって生きている期限がある。生きているわたしが食べるものなのだから、永遠に賞味期限が来ないものを食べるほうが怖い気もする。
わたし自身、いつも作った料理はなるべく出来たてで食べてほしいと思う。ということは、すべての賞味期限は仕方なく設定しているだけで、本当は今すぐパックから出して食べてほしいはずだ。春はわたしにいますぐたらの芽を食べてほしいと思っているはずだし、夏は今すぐすももを齧ってほしいと思っているだろう。来年も食べられるものだとしても、今年のわたしがそれを食べられるのは今しかない。おいしいものをおいしいときに食べていると、わたし自身がずっと旬であり続けられるような気がする。
たしかに、この世の中であらゆるものははやすぎる。けれど、だからこそわたしはそれよりもっともっと速度を上げていたい。いつだって茶碗を空にして、さあ次来い! と言っていたい。わたしが世界よりずっとはやく平らげ続けていれば、世の中のほうがわたしよりもちょっと遅く見えるときだってある。
