福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【イラスト】ある部屋で、椅子にひとりの人物が座っている。半袖短パンを着ており、窓の外を眺めている。窓の外には、おそらく高齢の男性が歩いている。部屋にいる人物の前にはテーブルが置いてある、そこにコーヒーやタバコが置かれている。床には、来ていたであろう洋服が脱ぎ捨てられている。【イラスト】ある部屋で、椅子にひとりの人物が座っている。半袖短パンを着ており、窓の外を眺めている。窓の外には、おそらく高齢の男性が歩いている。部屋にいる人物の前にはテーブルが置いてある、そこにコーヒーやタバコが置かれている。床には、来ていたであろう洋服が脱ぎ捨てられている。

かなりの時間が流れてしまった|金川晋吾 あらゆるものが、はやすぎる|エッセイ連載 vol.01

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ああ、どれもこれも、はやすぎる。「あらゆるものが、はやすぎる」をテーマにさまざまな方にエッセイを寄稿いただく連載です。今回は、写真家の金川晋吾さんに綴っていただきました。(こここ編集部 垣花)


私がはやすぎると感じているもの、それは時間の流れそのもの、つまり自分の人生です。

いきなりものすごく大きな話になってしまいましたが、最近の私は何かにつけて「かなりの時間がもうすでに流れてしまった」と感じています。流れた時間の取り返しのつかなさに意識が向かうようになっていて、その取り返しのつかなさを嘆き、何かに急き立てられるような気持ちになります(最近ネットなどで目にする「ばかでか感情」という言葉は、こういうどうしようもなく大きい問題に対するどうしようもない感情をあらわしていると勝手に思っていたのですが、調べてみるとそうではなくて、ある対象へのもてあましてしまうぐらい大きな愛情を指すみたいですね。ただ、個人的には、今自分が感じていることをあらわす言葉として「ばかでか感情」はしっくり来ます)。

自分がこんなふうになったのはここ数年のことで、昔はこうではなかったと思います。私は今年の4月で44歳になりました。「私は44歳です」と自分の年齢を口にしたとき、単なる事実を口にしているだけにも関わらず、なんだかちょっと信じられないような気持ちが湧いてきます。それだけの積み重ねをうまく実感できないということなんだと思います。

そして、この実感のできなさは、これから年を重ねるごとにさらに強くなっていくんじゃないかと思っていて、というのも、時間というのは目に見えるかたちで残ってくれるわけではないので、年を重ねれば重ねるほど、自分の年齢に対する実感の伴わなさは強まっていくのではないかという気がしています。

なんで私は44歳の今、「かなりの時間が流れてしまった」と感じ、流れてしまった時間を恨めしく思い、自分の年齢のことをやたらと意識するようになっているのでしょうか。

加齢による衰えを実際に感じているからなのかと考えると、それはちょっとちがうような気がしています。たしかに私も40歳を過ぎてからのここ数年は、本当にしょっちゅう胃の調子が悪くなるし、立ちくらみがひどかったりめまいのようなものを感じることもあるし、眠りが浅いせいなのかなんだかずっと体がだるいということもよくあって、体調が芳しくないということが常態化しつつあります。ただ、自分の体調が芳しくないということは30代のころからしょっちゅうあったことなので、加齢が問題だとはあまり思えません。

私は30代のころからほぼ毎年胃カメラを飲んでいました。自分と同じぐらいの年齢の人から、「若いころは徹夜も全然平気だったけど、最近は無理が効かない」みたいな話を聞くことがありますが、私は若いと言われるころから寝ずに働いたり遊んだりというようなことはできなかったので、「最近はもう無理が効かない」みたいな話にも実感がありません。

私は40歳を過ぎてしばらく経つまでは、自分の年齢というものに対してあまり意識を向けていませんでした。意識を向けずに生きて来れたと言ってもいいでしょう。40歳を過ぎてから、自分はもう20代でも30代でもないんだということに、はたと気がつきました。

なんだかものすごく当たり前のことを言っている気がしますが、でも実際にそうなのです。その渦中にいるときには、今自分が若いと言われている時間を生きているなんていう自覚は持っていませんでした。その時間が終わり、その時間の外に出て振り返ってみたときに、はじめてかつて自分が生きていた時間を何か特別なものだと思うようになったのでした。

30歳になるときには、もう自分は20代ではないんだなんてことは思っていなかったし、20代が終わることにたいした意味を感じていませんでした。私は「40」という数字にこれまでは感じていなかった区切りのようなものを感じ、この数字が突きつけてくる事実に圧倒されているのだと思います。いわば、この「40」という数字に翻弄されてしまっているということだと思います。

結局のところ、私は若さをいいもの、価値があるもの、羨ましいものだと思っていて、その若さがもう失われてしまったと思って嘆いているのでしょう。しかも、自分が実際に若いと言われる時間のなかを生きているときにはそんなことはたいして思っていなかったのに、です。

私は20代のころよりも、今の自分のほうがいけていると思っています。それは人として成熟したとか内面的なことを加味しての話ではなくて、単純に自分の見た目やあらわれが20代や30代のときよりもずっと魅力的になっていると思っています。

ここ数年、私は髪の毛をのばしてみたり、女性ものとされる服を着てみたり、自分なりの装いを楽しむことができるようになっていて、その結果、いろんな人が私の装いを褒めてくれるようになりました。褒められることで自信がついたのでしょう。

であるにも関わらず、私は心のどこかでは「もっと若いときに今みたいにいけてる状態になりたかった」という、本当にどうしようもない後悔を感じてもいます。いい状態になっているにもかかわらず、「もっと若ければ」みたいなことを思っているのです。

若さというのは相対的なものです。44歳なんていうのは、55歳、66歳、77歳、88歳の人からすればどうしたって若いわけです。44歳の分際で「かなりの時間が流れてしまった」とか言って大騒ぎするのは、バカげたことだというのはわかっています。わかってはいながらも、自分がもう20代や30代ではないということを恨めしく思い、もうあまり時間がないと自分を急き立ててしまっているのです。

なぜそんなことをしてしまうのか。その理由のひとつには、私が性愛的なことに価値を置き、それを(いまだに)求めていることが関係しているのではないかと思います。

というのも、少し落ち着いて考えてみて気づいたことなのですが、自分のなかには「性愛的なことは若い人のもの」という考えが刷り込まれています。「私は性愛的なことを求めてはいる、けれどもそれは若い人のためのものだ、なので20代でも30代でもない自分にはもうあまり時間が残されていない(あるいはもうその埒外に置かれているかもしれない)」そんなふうに感じているのだと思います。

「性愛的なことは若い人のもの」なんて決まりがあるわけではないですよね。それは「結婚が恋愛のゴール」とか「子は親を敬わないといけない」とか、そういう類の思い込みだと思います。ただ、こういう社会に広く流布している思い込みはそう思わせる条件を備えてもいるので、他人に対しては「そんなこと思わなくていい」と自信をもって言い切れても、いざ自分のことになるとそこから脱することはそれほど容易ではなかったりもします。

40歳を過ぎてあたりを見渡すと、性愛のことで大騒ぎしている人というのはあまりいなくなっています。まわりの人の多くは結婚をしたり、ある特定のパートナーを見つけたりしていますし、そして、なにより親になっている人たちがけっこういます。私が44歳の今、何か妙に急き立てられるような気持ちになるのは、まわりで親になっている人たちがけっこういて、しかもその人たちの子どもがもうけっこうな年齢になっていたりすることもかなり影響していると思います。

「この人たちが子どもをここまで育てているあいだ、私は一体何をしていたのだろうか。自分は『いまだに』自分の性愛のことを問題にしているのに」そんなふうに私は思ってしまうことがあります。「いまだに」なんて思うのは完全にまちがっていると思います。でも、思ってしまうのです。

あとは、かつてはずっと元気だった両親にも、ここ数年で老いなるものが顕著にあらわれてきたということも関係していると思います。父も母も髪の毛は真っ白になり、肌にはしわやシミがたくさんあらわれています。母は物忘れしやすくなっていて、父はひざの調子が悪くて立っていることにも負担を感じるようになっています。今年で母は76歳、父は73歳になります。年齢は今後も増えていく一方で減ることはないのです。この普遍的な事実に、やっぱり私は圧倒されてしまいます。この事実を私は心のどこかでは受け止めきれていない気がします。

年齢というのはその他の数字であらわされるもの、例えば体重や血圧とかとはちがって、減ることはありません。にも関わらず、私たちは年齢というものを体重や血圧と同じように数字で考えています。そうやって年齢というものを数字で考えてしまっているがゆえに、私たちは無意識の底のほうで、年齢も減ることがあるんじゃないかという錯覚を起こしているような気がします(それは必ずしも悪いことではなくて、そのことに救われている部分もあると思いますが)。

私は時間の不可逆性に圧倒されていて、年を取ることを若さや時間を失っていく恐ろしくて嫌なものとしか見れなくなってきています。他の人たちはこのどうしようもない問題をどう受けとめているのか、とても気になります。

自分が時間の取り返しのつかなさにあたふたするのは、何か人生なるものを大層に考えていて、生きている間に何か「意味」のあることをしたい(しかもできればたくさんしたい、やりつくしたい)と思っているからなのかもしれない。でも、私とはちがって人生なるものをそんな大層に考えていない人たちもいて、そういう人たちはこの問題の受けとめ方も少しちがうのではないか。そんなふうに思ったことが先日ありました。

ある仕事のために電車で山梨に向かおうとしていた日のことです。私は八王子駅で乗る予定だった電車に一本乗り遅れてしまい、1時間ほど時間ができたので近くのコーヒーショップに入りました。店内には一人でコーヒーを飲みに来ている初老の男性がちらほらいて、そのうちの何人かは何をするでもなくただじっと窓の外を見ていました。時間は朝の10時過ぎです。

私はこの1時間を有効に活用しようと、メールを返したり本を読んだりしていたのですが、窓の外を見ていた人たちは私がお店を出るときも変わらぬ姿勢で窓の外を見ていました。私は、「この人たちはもしかしたら毎日ずっとこうしているのかもしれない」と思いました。そして、「よくこんなふうに時間をつぶせるな」と思いました。私には「この人たちは何もしていない」というふうに見えて、「自分だったらもっと何か『意味』のあることをせずにはいられない」と思ったのです。

でも、その人たちからすれば窓の外を見ることが「意味」のあることだったのかもしれませんし、そもそもそうやって「意味」のあることをしないといけないと感じていないのかもしれません。窓の外をただじっと見ている人たちの姿を通して、人生を「意味」で満たしたいという焦燥に駆られてじたばたしている今の自分の姿が浮かびあがってきました。

【イラスト】ある部屋で、椅子にひとりの人物が座っている。半袖短パンを着ており、窓の外を眺めている。窓の外には、おそらく高齢の男性が歩いている。部屋にいる人物の前にはテーブルが置いてある、そこにコーヒーやタバコが置かれている。床には、来ていたであろう洋服が脱ぎ捨てられている。