こここ文庫
違国日記 ヤマシタトモコ
本を入り口に「個と個で一緒にできること」のヒントをたずねる「こここ文庫」。今回は文筆家のヒラギノ游ゴ(ヒラノ遊)さんに『違国日記』を紹介いただきました。(こここ編集部 垣花つや子)
親が不気味だった。
親が友達と遊ぶのを見たことがなかったから。
そもそも友達がいるんだろうか? そもそも「遊ぶ」ってことをするんだろうか?
彼女と彼にも自分の人生というものがあるのか? 極端な言い方をすれば、本当に人間なのか?
少なくとも私からは、子供である私の生活を支えるためだけに、家事と仕事をするためだけに存在しているように見えた。好きでそうしているのかというとそうですらない。いつでも時間に追われるように苛立ちながら、そこまでする必要ないのにというほど家事や仕事をこなして、「ちゃんとして」いた。
ビデオゲームの言葉でNPC(ノンプレイヤーキャラクター)というものがあると知ったとき、親はこれだと思った。
「この森を抜けると次の街があるよ」
話しかければ導いてはくれる。けれどいつ何度話しかけても同じことしか言わない。会話が成立しない、人ならざる存在。導きに沿わなければ梯子を外される。子供の私は何度もコミュニケーションを試みた。
森の中を抜ける道は険しいよね。
「この森を抜けると次の街があるよ」
次の街には行きたくない。ずっとここにいたいな。
「この森を抜けると次の街があるよ」
ほどなく私は会話を諦めた。
子供のためにしていたことがいつしか目的化して、とか、愛情表現が不器用で、とか、そういうふうに受けとることもできる。
ただ、振り返って今言葉にできるのは、そんな柔らかな話ではない。
両親の人生は両親自身という容れ物の外殻から染み出し、境界線を越え、私の人生に浸食していたのだということ。あれは投影や期待や支配欲による侵略だったのだという実感。そういうことが愛情の名のもとにおこなわれていた。
『違国日記』を読んでまず想起したのはこの、もう腰を下ろす予定のないリビングの光景でした。徹頭徹尾、真摯にバウンダリー(境界線)の話をし続けた作品だと感じます。
交通事故で両親を失った田汲朝(たくみ あさ)、その母方の叔母に当たる小説家の高代槙生(こうだい まきお)。槙生は姉とその夫(朝にとっての両親)の葬式で、朝が親戚間でたらい回しにされているのを目の当たりにし、その事態を「醜悪」だと断じ、引き取って共同生活を始めると宣言します。ここまではそう目新しいプロットというわけではないかもしれません。
この作品の稀有なところは、この2人の共同生活を通して描かれるものが、優しさや思いやりではなく、人権意識や個人の尊厳に立脚していること。通俗道徳的なぬくもりに逃げず、知性による打開を信じている。それが通り一遍の作品とはまったく違った読後感に繋がっています。
槙生は引きこもるように仕事机に向かい、一人の時間を大切にする、社交的とは言い難いパーソナリティ。亡くなった姉との禍根を断てないままで、その子供である朝にも苦手意識が及んでいます。
朝は幼く、周りの大人たちをはっとさせるほど無防備で、まだ両親の死を悲しむ準備が整っていません。
こうした関係性もそう珍しくはない組み合わせでしょう。ただ、槙生は<あなたを愛せるかどうかわからない><でもわたしは決してあなたを踏みにじらない>と明言します。
バウンダリーというものの原則として、2人の人間がいるとき、2人の間にある境界線は1本ではなく2本である、というのがあります。
片方の人が5cmまで近づいて大丈夫だとしても、もう片方が2m空けておきたいならば、2人にとって5cmという距離は「大丈夫」ではない、ということ。
特に家族の間ではこういった認識がおざなりにされ、侵略が起こりやすいといえます。もっとも、槙生と朝の関係が何であるか、「家族」なのかどうかは明示されないまま物語が進みます。
1つ言えるのは、槙生が学び取ってきた人間関係の手立てに照らし合わせ、ルールを取り決め、合意形成をして、2人が個人と個人として尊重しあっているということです。
他にもこの作品には名付けようのない関係性がいくつか登場します。必ずしも名前のある関係性の形をとらなくても人は尊重しあえるのだ、という作家からの表明ととることもできるかもしれません。
きっと現実でも「こういうこと」は成立する、ただ具体例があまり目につかない時代だから、フィクションを通じて「パイロット版」を提供してくれている。読者はそれを参考事例として現実に向かう。そんなコミュニケーションが、作家と読者の間に生まれているように思う、というのはどうでしょう、踏み入りすぎた私見かもしれません。
槙生はよく「フェア」という言葉を口にします。
朝の同級生の母親との会話では<…親にはなれないしなるつもりもないので 保護者ではあるけど…>という発言がありました。
相手はこう応答します。<…なれないっていうことはないわよ! 愛情があれば…>
これは「フォロー」として口を挟んでいるのでしょう。ただ、槙生は謙遜や悲観として言ったのではありません。フェアであるために思考した結果「こう」だと結論した。こういった「愛情」や「思いやり」での突破を許さないのがこの作品の真摯さです。
この国は初等教育過程において、人権教育ではなく通俗道徳に根ざした価値観の醸成を長きに渡って続けてきました。
そうした素朴な「思いやり」を信じられる人にとっては、槙生のあり方はドライとか薄情とか人間味がないとか、そういうふうに映るんだろうと想像します。ただ、本当に大人からしてほしかったのは槙生のような関わりの持ち方だった、という人は少なくないでしょう。保護者以外にこんな「オルタナティヴな大人」が近くにいてくれたら救われたかもしれない。そういった読者たちの過去への願いの正体を突き止める手立て、言語化の助けとしても槙生は機能します。
また、槙生は朝の前であからさまに動揺した姿を見せ、「傷ついた」と言葉にします。
槙生は片付けが苦手で、重要な事務作業を後回しにするなど、ある種の発達特性があると読み解けるキャラクターで、作者の過去のインタビューにもそうした描写が意識的にされているものだという示唆があります。
そんな槙生に対して、「ちゃんとした」母親に育てられた朝は<なんでこんなこともできないの!?>と詰問します。母親がそうしたように。それを受けてまた傷ついた様子の槙生に朝は<こんなことで傷つくほうがおかしくない?>と困惑すると、槙生は<――わ わたしが何に傷つくかはわたしが決めることだ あなたが断ずることじゃない!>と返します。
この点もバウンダリーの考え方に則ったものといえます。価値観を押しつけあわず、個々の感じ方を否定しない。
また別の場面で、朝が声を荒らげたことに「傷ついた」槙生を見て、朝は動揺します。<…大人も傷つくのかと思って……>。朝と同じことを感じた読者もいるでしょう。
まず大人が子供に「傷ついた」とさらけ出すこと自体が稀有といえます。
そして槙生は<15歳みたいな柔らかい年頃 きっとわたしのうかつな一言で 人生が変えられてしまう>と、傷つける側としての自分にも目を向けます。
子供も大人も等しく傷つきうる、尊厳を持った人間であると提示することを経て、お互いにしてほしくないことを確認しあう、いわば「線を引く」作業。この作品は「わかりあう」ことを目指すよりも、「わかりあえない」ことを大前提として受け入れ、さあ、じゃあどうしようか、という側に重心のある物語といえます。
最後に塔野というキャラクターの言葉に触れます。
遺産などの手続きで朝・槙生と関わることになる弁護士で、空気が読めない、共感性が低いといった自身の特性を自覚しています。槙生とはまた違った特性のスペクトラムに位置すると捉えることもできます。
<――根本的に共感に欠ける私が他者に関わりたいと望むこと自体 とんでもなく傲慢なのでは と>彼はこうこぼします。それに対する槙生の言葉は、本作の核心と捉えることができるものです。
<でも 「それでも」 「それでも」 「それでも」 「それでも」と そう思います>
線を飛び越えて2人が触れあうのは目的ではない。それこそが愛や理解や豊かな関係性だと思い込まされてきたけど、別の道が用意されているはず。違国日記で描かれているのは、その別の道を選ぶ人たちが迷ったり立ち止まったりしながら歩を進める姿なのかもしれません。