福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

こここ文庫

ポリティカル・コレクトネスからどこへ 「正しさ」をなぜ問題にするのか? 清水 晶子 /ハン トンヒョン /飯野 由里子(著)

本を入り口に「個と個で一緒にできること」のヒントをたずねる「こここ文庫」。今回は社会学・国際社会学を専門とする下地ローレンス吉孝さんに選書をお願いしました。テーマは「他者の経験を聴くときの姿勢を問い直す」です。

紹介してくださったのは『ポリティカル・コレクトネスからどこへ 「正しさ」をなぜ問題にするのか?』。下地さんは、「コミュニケーションの複雑さについて考えるきっかけとして紹介したい本の一つ」だと言います。(こここ編集部 垣花つや子)

ポリティカルコネクトネスからどこへ
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他者の経験を聴くときの姿勢ってどんなものだろう? 「正しい姿勢」「正解の姿勢」といったものがあるのだろうか?

私はこれまでいわゆる「ハーフ」や「ミックス」と呼ばれる人々へのインタビュー調査を続けてきた。そこで聞き取った経験を、社会の構造との関連性から捉え直し、考察する。そうやって得られたアイディアを学生向けの講義で、あるいは一般の方向けのイベントなどで話してきた。

こういった講義やイベントの際、必ずといっていいほど、決まって聞かれる質問があった。それは、「ハーフの人と接するとき、どんな話し方や聞き方が正しいですか?」といったようなものだ。

私はなんと答えたら良いか、その返答に迷ってしばらく考えた。

そこで、一度、自分自身の経験を振り返ってみた。

すると、そもそも私にとっての一番身近で長い付き合いのある「ハーフ」は自分の母親であるのだが、その母親に対して、「正しい接し方」なんて、そんなものはこれまで一度だってできたことがないと思った。

そのため、講義やイベントでこのような質問がきた際には必ず、「ハーフとの正しい接し方みたいな、正解、正攻法というものは、ないと思います。ハーフの研究者である私自身もわかりません」と答えている(もちろん、避けるべきテーマや傷つけてしまう可能性がある表現を伝えることはできる)。

いくらマイノリティのルーツがあったとしても、自分の身近な存在でさえも、コミュニケーションにおける完璧な所作など存在しないのではないだろうか、と私なりに考えている。

もしそうであるならば、相手がどんな社会的立場であるのか、その立場性についてどういった認識が必要か、その立場性について社会構造にはどのような問題があるか、そして、その上で目の前の人とは一人の人間としてどのように対峙するのか、それを、その場その場で考え続けていくしかないのかもしれない。私としては、ハウツーよりも、むしろそういったあり方こそが、コミュニケーションの難しさであり、同時に喜びなのではないかと思ったりする。

前置きが長くなったが、こういった他者との関係性について考えるとき、そして相手に対してどういった言葉を使えば良いか、またどのように話を聞けば良いのか、と考えるとき、思いつくキーワードの一つは「ポリティカル・コレクトネス」だ。

ポリティカル・コレクトネス(PC、政治的に正しい表現)とは、特定の歴史的・社会的文脈の中で、特定の人々に対して使用する言葉や表現の正しさを求める考え方を指す時に使われる概念だ。「個人的なことは政治的なこと」という有名な言葉を念頭におけば、個人と個人の間におけるコミュニケーションの場面においても、ほんとにささいな、何気ない一言の中にも、政治的な磁場が発生しうるのだ。

私の専門テーマに関して言えば、戦中戦後から1990年代ごろまでずっと一般的に使用されてきた「混血児」という言葉の事例がある。90年代に社会運動団体や当事者の親世代から、「差別」や「いじめ」や「戦争」などといったイメージに結びつくためこの言葉を使用しないようメディアに求める運動が起きた。その結果、「混血児」ではなく「国際児」などの表現が使われるようになったが、このような動きもポリティカル・コレクトネスの一つといえるだろう。

どういった表現がより良いのか、どういった言葉選びをするのが大切なのだろうか? 相手がどのような社会的立場にあるのか想像するしかないコミュニケーションの現場において、こういったポリティカル・コレクトネスについて知ることはとても大切な一歩だと言える。

このようなコミュニケーションの複雑さについて考えるきっかけとして紹介したい本の一つが、『ポリティカル・コレクトネスからどこへ 「正しさ」をなぜ問題にするのか?』(清水晶子、ハン・トンヒョン、飯野由里子、有斐閣、2022年)である。

本書は、ジェンダー・クィアの専門家である清水晶子さん、エスニシティや人種の専門家であるハン・トンヒョンさん、障害の専門家である飯野由里子さんのお三方によるいくつかの鼎談と、それぞれの各領域におけるポリティカル・コレクトネスに関する論考から成り立っている。

ジェンダーや障害、民族や人種といったさまざまな背景の人々が暮らすこの社会において、他者の話を聴く姿勢を問い直すために、まさに必須の一冊と言えるのではないだろうか。

議論の前提として本書ではまず、日本において「差別」が道徳的に捉えられてしまい、「差別=悪者がするもの」という認識が広がり、さらには「日本には差別はない」とまで言われてしまっている現状が指摘されている。しかし大切なのは、「差別は誰もがし得るものである」という認識を持つこと、そして差別の状況が生み出されていく社会の構造に目をむける必要があるという点が強調されている。

日本では、そもそもポリティカル・コレクトネスが十分に徹底される段階に至っていないにもかかわらず、「ポリコレ棒」といった表現に象徴されるように、それに対する反動がより大きく盛り上がるという屈折した状況にある。

ポリティカル・コレクトネスについて、三名の意見は決して一致しているわけではない。その可能性を見出す意見もあれば、注意が必要であるという意見もある。

特に、清水さんは、ポリティカル・コレクトネスに人々の注意が向けられることで、内実が伴わない形で表面だけが「正しく」コーティングされ、その結果として議論が停止されてしまう危険性について鋭く指摘している。

一方、ハンさんは差別が深刻な現代社会において役割を果たすポリティカル・コレクトネスの有用性を認めつつ、それが本当の意味で価値を発揮するのは、包括的差別禁止法や国内人権機関などしっかりと制度の面で差別を食い止める仕組みができることが大前提であるとする。

飯野さんは、障害者運動の中でとくに重視されてきた「社会モデル」という考え方を強調し、マジョリティに必要なことは「共感」や「思いやり」といった気持ちではなく、社会構造・権力関係へのアプローチであると的確に述べている。

そして、お三方の共通した意見の一つとして出てくるのは、コミュニケーションにおいてポリティカル・コレクトネスを意識しながらも、「正しさ」を求めるのではなく、それをきっかけとして議論をある時は休み、そして再開していく。そのプロセスを続けていこうとする姿勢こそが大切なのではないか、という点である。

コミュニケーションにおいて正攻法は存在しない。しかし、より良いコミュニケーションへと近づけていこうともがくことはいくらでもできる。

他者が、自分自身の日常でモヤモヤする経験や差別にかかわるテーマについて話した時、それに対してたとえ励ます意味であったとしても、「気にしすぎだよ」あるいは「そんなの大したことない」と一蹴してしまうのではなく、まずは相手との「差異」や「距離」、「決して同じではないもの」について思いを巡らせてほしい。

共通点を探すだけではなく、違いについても考えてほしい。

差別と不平等の社会的現実の中で、あなたと私の社会的立場性は横並びではない。その不均衡な社会構造の中で私たちは生きている。

かくいう私も、コミュニケーションが得意というわけではなく、どちらかといえば苦手な方だ。仲良くなろうとした一言で相手を傷つけてしまうこともあるし、逆に頭の中で考えすぎていざ話そうとするほど言葉が何も出てこないこともある。

何が正しいのか、何がより良いのかをめぐって、立ち止まる。本書の表現を借りれば、「栞をはさみ」ながら、それでも話を続けていこうとすること。

本書はそういったコミュニケーションのあり方そのものも問い直している。