こここ文庫
優しい地獄 イリナ・グリゴレ
本を入り口に「個と個で一緒にできること」のヒントをたずねる「こここ文庫」。
今回は福祉社会学、社会福祉学を専門とする兵庫県立大学環境人間学部准教授の竹端寛さんに選書をお願いしました。テーマは「人間の尊厳とは何かをリアルに感じられる一冊」です。
「人間の尊厳」とは何か、じわりと問いかけてくる
著者は1984年、社会主義国時代のルーマニアに生まれ、祖父母の住む美しい田舎の村をこよなく愛していた。だがチェルノブイリ原発事故の放射能汚染で腫瘍を抱えて生きることになり、資本主義への移行期にブカレストの絶望的な団地で青春時代を過ごす。『雪国』のルーマニア語版を読み出したら止まらなくなり、日本語を学び、獅子舞を踊り研究する文化人類学者として青森でフィールドワークをしながら2人の子どもを育てている。そして、美しいエッセイを日本語で書く。
こうやって概要を書くだけでは、何の本かさっぱりわからないと思う。わからなくてもいいので、とにかく読み進めてほしい。映画監督を目指し、転じて映像人類学を専門にしている彼女の書く文体は、実にカラフルで、シーンが鮮やかに切り替わり、歌うように、踊るように話が展開していく。それが瑞々しく、美しく、時に切なく悲しい。読み進めるうちに、彼女の世界観にスーッと入り込んでいく。こんな素敵な文章は、僕には到底書けない。
牛や馬の乾いた糞を土塀の修理に使い、葡萄を足で踏んでワインにするお手伝いをしていたルーマニアの子ども時代と、スマホで映画を見て、ルーマニアの家族とビデオ会話をする青森の今。全く異なる国・時代・文化を重ねながら、その根本を貫く、人間への温かい眼差しは、イリナさんの中で全く揺るがない。だからこそ、祖父母を愛し、子どもたちとの日々を豊かに過ごし、そんな思い出や目の前の出来事、夢と交錯させながら、辛くて好きになれなかった自分の10代20代を少しずつ許していく。
今の世は「優しい地獄」だけれど、そう覚悟して、それなりに生きていくしかない。その覚悟は、他者の他者性への気づきだけでなく、己の唯一無二性を引き受ける覚悟にも溢れていると思う。人と関わり、その関わりから自らの存在を確かめ直す。彼女が生き延びるなかで抱いたその実感や、心の襞が丁寧に綴られていて、人間の尊厳とは何か、をじわりと問いかける。そんな読後だった。