「ルッキズム」ってなんだろう? 社会学者 西倉実季さんをたずねて 「ルッキズム」に立ち止まる|NPO法人マイフェイス・マイスタイル vol.01
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人を見た目で差別してはいけない。その通りだと思う。
しかし、なにが差別にあたるのか、どのような構造において差別が起こってしまうのか説明できるかと言われると難しい。
人を見た目で差別してはいけない。この言葉が、個人の「思いやり」や「やさしさ」のみに託されてしまうと、本質的な問題が隠されてしまう場合もある。
この連載では、「見た目問題」の解決を目指すNPO法人マイフェイスマイスタイル代表 外川浩子さんと、口唇口蓋裂の当事者支援を行うNPO法人笑みだち会代表 小林えみかさんと共に「ルッキズム」という言葉が何を指すのか、社会において「美しさ」の基準はどのようにつくられているのかなど、さまざまな専門家をたずねながら考えます。
第一回は、外見を理由にした差別についての研究者、社会学者、『顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学』の著者である西倉実季さんを訪ねました。
※以前こここで西倉さんに話を伺った記事はこちら「人を見た目で判断することって全部『差別』になるの? 社会学者 西倉実季さんと、“ルッキズム”について考える」
ルッキズムって、何ですか?
外川浩子さん(以下、外川):最近「ルッキズム」という言葉を目にすることが増えました。一方で、言葉がひとり歩きしていて、多くの人がよくわからないまま使っているようにも見えます。
あらためてルッキズムについて整理したいのですが、西倉さんが「ルッキズムって何ですか?」と聞かれたら、どう説明していますか?
西倉実季さん(以下、西倉):「外見に基づく差別」とか「外見を理由にした差別」と言っています。
外川:“差別”なんですか?
西倉:はい。学術研究としてはそうですね。
外川:一般的にはもっと広い意味で使われてますよね。「人を外見で判断すること」とか「外見が良い人ほど優遇される状況」を指しているように思います。
西倉:そうですね。自分の外見を一方的にジャッジされることへの理不尽さを多くの人が感じていて、そのモヤモヤに輪郭を与える言葉として「ルッキズム」が使われているのではないでしょうか。
外川:その感覚、わかります。長い間ずっと外見が大事と言われ続けてきて、息苦しさを感じてた人たちが「この苦しさは何なんだ?!」と思っていたときに、ルッキズムという言葉に出会って「これだ!」となった感じがしていました。
外川:広い意味でルッキズムという言葉が使われているがゆえに、人によって指したい内容が異なってすれ違いが生まれている部分もあるように思います。
ルッキズムが何を指すのか、定義づけしたほうがいいのでしょうか。
西倉:学術的な議論としてはそれが必要ですが、一方で私は、ルッキズムという言葉で、どのような問題が語られようとしているのかというところにも関心があります。ルッキズムに託された切実な思いみたいなものを丁寧に見ていく必要があると思うんです。
外川:ルッキズムという言葉を見つけたからこそ言えることができた、と。
西倉:例えば、麻生太郎さんの上川陽子さんへの発言がありましたよね(※注1)。あれなんかは、以前だったら女性差別という文脈で語られたと思うんですけど、ルッキズムとして切り取られていたように思います。女性差別という言葉では何かが足りなかったのか、フィットしなかったのか。なぜ「ルッキズム」である必要があったのかということに関心があります。
※注1:2024年1月28日、麻生太郎自由民主党副総裁が福岡県内で講演した際、上川陽子外務大臣に関して、「俺たちから見てても、このおばさんやるねえ」「そんなに美しい方とは言わんけど」などと発言。後日、「上川大臣の功績を紹介する趣旨であったとはいえ、容姿に言及したことなど表現に不適切な点があったことは否めず、各位からの指摘を真摯に受け止めたい」として発言を撤回した。
「外見の良さ」に差別が潜んでいる?
外川:ルッキズムについての議論を見ていると、「美しいものは美しい。理屈じゃなくて、人間は本能的に美しいと感じるんだ」みたいな主張が必ず出てきます。
西倉:「外見の良さ」が社会の価値観や規範と結びついているという視点があまりないように思います。例えば障害がない、病気ではないこととか、わかりやすく男女が二分していて、女性らしさ・男性らしさに沿っていることとか、そういうマジョリティ中心の「外見の良さ」というのが評価されている。その意味で「外見の良さ」には偏りがあるのに、この点がそっくり抜け落ちてしまっています。そのせいか、外見の良し悪しと差別の問題とのつながりが見えにくくなっているんだと思うんです。
外川:美しいと感じるのは、じつは価値観の刷り込みだ、ということですね。
小林えみか(以下、小林):たしかに、今まで、美しいと感じることに疑問をもつことはなかったです。たとえば映画を見たりして美しいなあと純粋に惹かれてたというか。だから、外見を魅力的だと判断することも差別につながるとか言われると、美しいと思う感情を否定されてるような気がしてました。
西倉:理屈抜きにある人の外見に「惹かれる」ということはあるとは思いますが、ルッキズムの問題を考えるときには、そこから私たちの視点をシフトさせる必要があると思うんです。ある人の外見が良いとか悪いとかというところから、外見の良し悪しを決める評価基準がどういうふうに作られてきたのかというところへ。その基準がじつはすごく偏っていることに気づくことが大事だと思います。
「見た目問題」とルッキズム
西倉:私がルッキズムという言葉に出会ったのは、アメリカで裁判にまでなった事例でした。顔に生まれつき赤アザがある人が飲食店に勤務していて、お客さんにアザが見えるからという理由でホールの仕事をさせてもらえなかった。でも、その店は、ホールもキッチンも事務仕事も全部経験しないと昇進できない仕組みで、その人は実質昇進の道が閉ざされてしまっている。それが「外見に基づく差別(ルッキズム)」だという訴えだったんです。
外川:私はずっと「見た目問題」に関わってきました。顔や体に生まれつきアザがあったり、事故や病気による傷痕、変形、欠損、麻痺、脱毛など見た目の症状がある人たちが、見た目を理由とする差別や偏見のせいでぶつかる困難のことです。
そんな私からすると、そのアメリカの出来事は「見た目問題」の話だと思いました。
外川:赤アザという症状があるからこその差別で、それは一般的な使われ方としての「ルッキズム」とは違うものではないかと思っています。
そこがごちゃごちゃになって、一般的に使われている意味での言葉に取り込まれてしまうと、「見た目問題」が持ってる深刻さがうやむやになってしまうような気がしています。
小林:私も外川さんに近しい捉え方をしていました。日本社会において「ルッキズム」というのはマジョリティ性を多く持つ人が使っている言葉で、マイノリティ性を多く持つ人が直面していることを指すのが「見た目問題」なのかなと。たとえば見た目の症状をもっている人がマイノリティで。
西倉:区別して考えたいという気持ちはわかります。ただ、ルッキズムの問題の本質は、ひとつは、外見が関係しないはずの場面で外見が評価されて、不利益を被る人がいるということです。
もうひとつは、先ほども話に出た、社会で評価されている外見にはマジョリティに有利な偏りがあって、特定の人たちが不利になるということです。こうした問題は、「見た目問題」においても共通しているのではないでしょうか。とすると、「見た目問題」とそれ以外の外見の問題は必ずしも明確に分かれるわけではないように思うんですよね。
外川:たしかに、ルッキズムを「外見に基づく差別」と考えれば、「見た目問題」と線を引く必要はないかもしれません。ただ、一般的な意味で使われる「ルッキズム」はもっと広い意味で使われているので、そこは整理して考えていこうと思います。
「個性」という言葉が差別を隠す?
小林:私は、症状があることを他者から「個性」と表現されることに違和感があります。自分で変えられるもの、例えば、髪型とかファッションとか、そういう自分で変化をつけられるものを個性と呼びたくて。病気によってできた症状を誰かに個性と言われると、自分が望んで表現したものではないと思うんです。
外川:「障害は個性」と言われることに違和感をもつ人や拒絶する人もいますよね。自分発信でこれが個性ですとていうのはいいのだけど、「あなたのそれは個性だね」と勝手に決めつけられるのはすごく嫌だ、と。
西倉:個性と言った途端に、何の配慮もいらないと捉えられてしまう危うさがあると思うんですよね。「だって、それはあなたの個性なんだから」で済まされるというか。差別や偏見があるにもかかわらず、個性って言えば差別に対しての対策も要らないことになってしまう。
外川:同じような感じで、「多様性」という言葉に私は引っかかってしまうことがあります。
「いろんな見た目の人がいるよね、多様性だよね」とひと言で済まされちゃうと、なんかモヤッとする。「見た目問題」に関わってきた私からすると、生まれつきのアザや大きな傷跡もない、変形したり麻痺したりしているわけでもない、いわゆる「普通の顔」をしている人がそれを言うのって、なんかちょっと傲慢かなって。
西倉:多様性という言葉も、現状まだある差別を見えなくしてしまう使われ方をするときがありますよね。例えば、異性愛者と同性愛者とか、男性と女性もそうですけど、今の社会の中で置かれている状況が違うのに、多様性と言った途端なんかみんながフラットにこの社会に存在しているみたいに聞こえてしまう。
そういう意味ではすごく違和感があります。外川さんが言われたように、現状の社会で優位な立場にある、差別にあわないで生活できている側が、現状の社会構造を無視して言っちゃうのはおかしいと私も思います。
外川:個性とか多様性といった言葉によって、今ある差別がサクッとなかったことにされる危険性。差別って、すぐ、無いことにされてしまいますよね
西倉:その向き合えなさって、何でしょうね。「それは差別では?」と指摘されて、逆にむちゃくちゃ言ってくる人とかいますよね。
外川:ものすごい敵意を感じるぐらいの反発を受けるときがあります。
西倉:そもそもどれだけ善良な人であっても差別をしてしまうことはあると思います。
社会が偏って作られていて、私たちはそれに従って行動しているわだから、結果的に自分が差別に加担していることはいくらでもあると思うんですよね。
でもまだまだ「差別は悪意を持った人だけがやるもの」というイメージが強い。だから、自分が差別していると認めると、自分が悪人であるとを認めることになってしまって、ゆえに認めづらい感覚も生まれている気がします。
外川:悪意はないから、自分が差別することも、そこに加担するはずもない、と。ある意味、そこに集約しているかも。差別をはらんでいる社会構造に乗っかっていれば、差別に加担してることになるのに。
自分をネタにするのも、ダメですか?
小林:見た目にまつわる内容で、お笑いのネタとして使われることがありますが、西倉さんはどういうふうに感じていらっしゃいますか?
西倉:前提として、お笑いは別に聖域ではないと思うんですよね。お笑いだけは人権を無視していいみたいな、そういうことはないと思うんです。小林さんは、どんなところが気になりますか?
小林:私、アインシュタインの稲田さん(※注2)のファンなんです。トークがすごく面白くて何回もお笑いライブに足を運ぶほど!それで稲田さんがご自分の容姿をネタにされてて。
私もあごの病気で手術とかしたことがあるんですが、稲田さんが堂々と自分の容姿を、あごが出ていることを笑いに変換されている姿を見て、すごいなって思う反面、引っかかるところもあって。
西倉:引っかかるっていうのは、見た目をネタにしてるという意味でですか?
小林:はい。私もそういうネタを見て面白いと思うんですけど、お客さんもガハハっと笑ってることに対して、なんか自分を笑われてるっていうふうに思ってしまうことがあって。おもしろいのは稲田さんの実力であり、全然無関係な話なんだってわかっているんですけど、そう思ってしまう自分も嫌になって。なんとか割り切りたいなと思ってるんですけど。
西倉:難しいですね。自虐と、他者の外見をあげつらう的なものって、そこに線を引くほうがいいのかどうか、私自身も悩ましいところなんですけど。ただ、自分のことを笑いに変える力ってあるのかなとは思っていて。
以前、小豆だるまさん(※注3)のことを論文に書いたことあるんですけど、小豆さんは、脱毛症という症状があるのですが、自身の外見そのものを笑ってるんじゃなくて、脱毛症であたふたしてる自分を笑ってるんだと言われていて。ただ、他の当事者が見たらどう思うか、すごく葛藤があったそうなんですが。
外川:賛否はありますよね、それは当事者たちからも出るし、一般の人からも。
西倉:小豆さんは、脱毛症、とくに女性の脱毛に対する暗いイメージを変えていきたいし、「この程度のことだったんだ」って自分自身が思いたいから笑いに変えたんだというようなことをおっしゃっていて。
今まで散々、世の中とか、他者に自分の外見に対して一方的に意味づけされてきた人たちが、その意味を自分で作り直すって結構大事なんじゃないかと思うんです。
西倉:自分の意思とは関係なく、その症状に対して否定的なコメントをされてきた人が、自分もそれを内面化して苦しむわけですけど、自分としては症状をどう捉えているのか、別の表現をしていくことの意味はあると思います。外見のことに触れてるとか、笑いに変えてるとかっていうことだけではなく。小豆さんは実際に、「笑いに変えないと生きていけなかった」と言っていました。
外川:自分を創作作品に例えることができるっていうのは、本人が、その経験や葛藤を経てたどり着けるものというか。
西倉:その文脈がわからず、「本人が言っているんだからいいじゃない」と受け手が都合よく切り取ってしまうのは、どうなのだろうとは思います。
そうすると、小豆さんのようなパフォーマンスの意味って全然通じない。だから見ている人へリテラシーが要求されることでもありますね。
外川:お笑いだとダメだけど、ドラマで扱うのはいいのかとか、自分がやるのはいいけど他人が指摘するのはダメなのかとか、どこまでが良くてどこまでがダメとかっていう問題もある気がしますね。
※注2 アインシュタインの稲田さん。お笑いコンビ「アインシュタイン」の稲田直樹さん。稲田さんはしゃくれている顎をネタとして披露することも多く、明石家さんまさんから「俺が稲ちゃんの顔だったら世界を狙うけどな」と言われたというエピソードを語っている。
※注3 小豆だるまさん。30代半ばで脱毛症を発症。自身の闘病記をギャグマンガにして発表。髪が抜けていく現実が受け入れられない様子をリアルに、面白おかしく描いている。著書に『打倒!円形脱毛症 私、ピカピカの1年生』(角川書店)、『日々ズレズレ』(小学館)ほか
社会に埋め込まれたデザインを変えていくこと
外川:西倉さんが思う、こういう世の中になったらいいなという社会って、どんな感じですか?
西倉:そうですね、本来その場面で関係ないところで、外見の評価が入ってこないような社会であってほしいです。自分が望まない、一方的な外見のジャッジに傷ついたり、それはおかしいと思っている人は少なくないのではないでしょうか。
こういうことを言うと、人はどうしても他人の外見を評価してしまうので難しいと反論されそうですが、でも、だからこそ、社会の側のデザインを変えていくことは重要になってきますよね。例えば、履歴書の写真は本当に必要なのかとか。そういうデザインの変化に連動して、人の意識が変わることは十分ありえると思います。
外川:一人ひとりの気持ちとか気づきっていうのも大事だけど、仕組みが意識を変えていくきっかけになる、たしかにそうですね。ルッキズムという言葉がこれほど広まった背景には、多くの人がこのままではよくないと思っているからだとは思うんですが、かといって、どうすればいいのかよくわからない。仕組みから変えていくっていうのは、1つの方法としてありですね。
西倉:あとは、よくルッキズムを解決するにはどうすればいいですかってよく聞かれるんですけど、そもそも何が問題なのかをわかっていない状態で、どうすべきかは組み立てられないと思うんです。今どんな問題が起きているのか、誰にしわ寄せがいってるのか、ということをていねいに描いた上で、ではどうすべきかを考えていけたらいいんじゃないでしょうか。
取材後記
長い間、人の見た目についておおっぴらに語ることはタブーとされてきました。誰もが触れにくく、メディアも取り上げにくいテーマのため、問題の核心に迫ることもなく、理解も広まらない。そう感じていた私にとって、今こうして活発に議論されるようになったのはいいことだと受け止めています。
一方で、私自身、ルッキズムとどう向き合えばいいのか、一言でズバッと言い切れるような答えを持ち合わせておらず、どこかザラザラする感じがあるのも確かです。人を見た目だけで判断することはよくないけれど、どうしても見た目にとらわれてしまう部分もある。それなのに、まったく見た目を考慮しないなんてあり得ないのではないか。それに、美しいものに憧れたり、目指したりすることも悪いとは思いません。
ただ、なぜ、その見た目を美しいと感じるのか、その根拠となる価値観は何に紐づいているのか、そこを突き詰めていくことがルッキズムと向き合うための鍵となる。今回、西倉さんの話をうかがって、そんなことを考えました。
ルッキズムとどう向き合えばいいのか、わずかながらも道筋が見えてきたような気がします。
とはいえ、私たちはテレビやネットなどでルッキズムに関する情報を毎日のように目にします。SNSでも本当にたくさんの人がポジティブに、またはネガティブに、自分や他人の見た目についていろんな思いを発信しています。そのような日々接している膨大な情報が偏っているものなのかどうか、どうすれば気がつくことができるのでしょう。これからも探し続けていきたいと思います。
Profile
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外川浩子
NPO法人マイフェイス・マイスタイル(MFMS)代表
東京都墨田区生まれ。20代の頃につきあった男性の顔に大きな火傷の痕があったことがきっかけで、見た目の問題に関心をもつようになる。一緒に街を歩いているときも、電車に乗っているときも、たくさんの人たちの視線を感じ、「人って、こんなに無遠慮に見てくるんだ!?」という驚きと、見られ続けるストレスにショックを受ける。2006年、実弟の外川正行とマイフェイス・マイスタイルを設立。見た目に目立つ症状をもつ人たちがぶつかる困難を「見た目問題」と名づけ、交流会や講演などを通して問題解決をめざし、「人生は、見た目ではなく、人と人のつながりで決まる」と伝え続けている。著書『人は見た目!と言うけれど――私の顔で、自分らしく』(岩波ジュニア新書、2020年)。作家水野敬也さんとともに『顔ニモマケズ』刊行(文響社、2017年)