福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

こここ文庫

障害者の傷、介助者の痛み 渡邉 琢(著)

本を入り口に「個と個で一緒にできること」のヒントをたずねる「こここ文庫」。今回は、九州大学で障害のある人など多様な背景を持つ人々の表現活動に着目した研究をされている長津結一郎さんに選書をお願いしました。テーマは「異なりに向き合う一冊」。

取り上げるのは、現役の介助者・渡邉琢さんによる『障害者の傷、介助者の痛み』です。本書の帯にある言葉は「関係性にとまどいながら、つながり続けるために」。多様性を認め合うとはどういうことか。関係を築くプロセスではどのようなことが起きるのか。共生社会の本質について問う、長津さんの言葉をお届けします。

【画像】障害者の傷、介助者の痛み 書籍表紙
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私たち一人ひとりの「痛み」をめぐって

意思疎通の成否は本人だけでなく対話相手にもかかっている。つまり、話す人のまわりに話を聞いてくれる人がいるのか、その人に配慮し、その人の意向をくみとってくれる人がいるのか、ということが言わば隠れた前提である。意思疎通は決して個人で完結する行為ではない。「意思疎通がとれない」とは、対話相手の不在を指す場合もあるかもしれないのだ。

渡邉琢『障害者の傷、介助者の痛み』「言葉を失うとき−相模原障害者殺傷事件から二年目に考えること」P.369-370


本書は現役の介助者による、介助者の「痛み」について考える一冊である。これまでの障害者運動の文脈では、自立生活を目指す障害者にとって介助者は障害者の手足であり、障害当事者こそが介助者を育てるという観点で語られてきた。

しかし、介助が福祉サービスとして行われ制度化されるにつれ、「障害者」はどのような存在で、「介助者」がどのような存在であるか、ということが一枚岩では語りにくくなっている。障害者の持つ「傷」と、それに相対することにより介助者の心に「痛み」が生まれる。こうした問題に対して筆者は、相模原障害者殺傷事件を傍線に入れながら論を展開している。本書は筆者が2010年から2018年の間に散発的に執筆されたテキストをまとめているため、読者が興味をひかれる章から読み始めることができる。

時は東京オリンピック・パラリンピックである。新型コロナウイルス感染症とともに行われるオリンピック・パラリンピックへの開催の是非を巡った議論が続く中、パラリンピックを無観客開催することになったにも関わらず、国や東京都は「特に次の時代を生きる子どもたちに人間の持つ可能性について自分の意識を高め、そしてまた多様性を認めあえる心をはぐくんでもらいたい」(丸川珠代五輪相による2021年8月27日の定例会見での発言)「極めて教育的価値が高い」(小池百合子都知事による2021年8月20日の定例会見での発言)として、学校ぐるみでの観戦プログラムを推奨してきた。

このことから、パラリンピックという障害のある人の身体が躍動する場に居合わせることは、単なるスポーツ観戦としての意義だけではない「価値」がある、と政治家たちは考えていると推察できる。

しかし、本当にそうだろうか。スポーツ選手が目の前の目標に向かって努力しそれを達成する姿を、間近に見られる体験は確かに稀有なものだろう。しかしその、個人の中で生まれる感動と、「多様性を認めあえる心」の醸成や「教育的価値」の提供といった大きな目標のあいだには大きな距離がある。

マイノリティの立場におかれている人のことをマジョリティが想像し、時にマジョリティ側の常識や固定観念を打ち破る必要がある。そのことなしに、マジョリティが自らの安住する立場を譲ろうともしないで行われる「理解」は、ただの権力の行使だ。

本当に多様性を認めあえる心を育てるためには、さまざまな当事者と出会い、語り合ったり時間を共にすることで、お互いの異なりに気づき、時にはその異なりに怯んだり、恐れたりしながら、それでも一緒になんとかやっていく、というようなプロセスが必要なのではないか。

本書で語られる「痛み」は、そうしたプロセスを踏む上での苦しさを現している。この「痛み」は、決して「介助者」という立場に限られたものではなく、共生社会を生きる私たち一人ひとりの「痛み」でもあるはずだ。


※誤解が生まれうる表現を避けるため、本文6段落目の文章を訂正しました。(2021年9月3日 こここ編集部)

訂正前: 「多様性を認めあえる関係になるためには、マイノリティがマジョリティに歩み寄るだけでは不十分だ。マイノリティの立場におかれている人のことをマジョリティが想像し、時にマジョリティ側の常識や固定観念を打ち破る必要がある。そのことなしに、マジョリティが自らの安住する立場を譲ろうともしないで行われる「理解」は、ただの権力の行使だ。」

訂正後: 「マイノリティの立場におかれている人のことをマジョリティが想像し、時にマジョリティ側の常識や固定観念を打ち破る必要がある。そのことなしに、マジョリティが自らの安住する立場を譲ろうともしないで行われる「理解」は、ただの権力の行使だ。」