こここ編集部より

記事の写真選びにおいて悩んだこと
編集後記

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【写真】机の上に一台のカメラが置かれている、そのカメラの液晶にねずみの人形がうつっている

スマホで記事を読むとき、電車移動中に中吊り広告がふと目に入ったとき、美容院で雑誌を手に取ったとき、そこで使われている写真やイラストは、誰が、どのような意図をもって掲載しているものなのでしょうか?

〈こここ〉でも、掲載記事内のすべてに写真あるいはイラストが入っています。

今回はある連載で「写真選びにおいて悩んだこと」を記します。(垣花つや子)

きっかけは新連載「ルッキズムに立ち止まる」

そもそも写真選びについて、あらためて悩む機会を得たのは、7月にはじまった新連載「ルッキズムに立ち止まる」を進めていたからでした。

この連載は、「見た目問題」の解決を目指すNPO法人マイフェイス・マイスタイル代表 外川浩子さんと、口唇口蓋裂の当事者支援を行うNPO法人笑みだち会代表 小林えみかさんと「ルッキズム」という言葉が何を指すのか、社会において「美しさ」の基準はどのようにつくられているのかなど、さまざまな専門家をたずねながら共に考えるものです。

連載のきっかけは、以前お話を伺った西倉実季さんの記事。その記事を読んだ外川さんがこここに関心をもってくださり、ご連絡をくださいました。そこから外川さんとじっくり相談を進め、連載企画につながっています。

外川さんがこここを知るきっかけになった取材記事で、西倉さんは次のようなことをお話しています。

西倉:やっぱり、さきほどお伝えしたように「私たちの美醜観には偏りがある」という点を認識していないと、その偏りがさまざまなコミュニケーションの場面で出てしまうのではないでしょうか。繰り返しになりますが、外見の問題を個人ではなく、社会的な問題として把握しようとする視点が大切だと思います。

自分自身の体験を振り返って考えてみると、思春期に、雑誌やテレビに出ている芸能人と自分の外見を比べて「こんなに綺麗な人がいるのに、自分は……」とコンプレックスを感じていました。その一因には、メディアを通して伝えられるイメージが「つくられたもの」であるという視点が抜け落ちていたことが挙げられると思うんです。

商業雑誌やメディアが追い求めている美はある種のファンタジーであって必ずしも現実の反映ではないし、そこに登場する人たちの美のありかたにも偏りがある。そういうことを批判的に見られるリテラシーがあったほうがよさそうですよね。

(「人を見た目で判断することって全部「差別」になるの? 社会学者 西倉実季さんと、“ルッキズム”について考える」より引用)

企画者として、取材中にドキッとしたことを覚えています。業務委託という形ではあれど、ウェブメディアの編集部に関わり、記事づくりに携わるひとりとして、偏ったイメージを無自覚に発信し続けていないか、企画者の意図を起点に、「複数の人の手が入り、整え、つくられた記事であること」を消しすぎていないか。これまでの振る舞いを省みたのでした。

この記事では、取材前の時点で、写真撮影はしないことを決め、イラストを使用しています。その背景については「イラスト制作過程で悩んだこと」をご覧ください。

繊細なテーマをひとりの人に背負わせてしまわないように

では今回の連載ではどうしたのか。結果的に写真“も”使用する選択をしました。

“も”と書いたように、連載全体のページはナミサトリさんにイラスト制作をお願いしています。「ルッキズム」をテーマにし、複数人の専門家をたずねる連載全体のTOPとして、専門家や連載担当者の写真単体を使用することは、そのテーマにまつわる代表としてのイメージをつくってしまい、結果的にひとりの人に背負わせてしまう形になり得ることを懸念したからです。

ちなみにナミサトリさんには以下のようなことをお伝えし、ラフ案をいただき、最終的なイメージをつくっていただきました。すばらしいイラスト……。

イラストで読者に伝えたいこと(想起してほしいこと):知らず知らず社会的に決められている「画一的な美醜観」による呪いを解こうとする連載であること

この連載で垣花が特に大切にしたい視点は以下です。

・現状の美というものがかなり偏っていて、それがよいとされるときに誰かが不利な状況に置かれ、自分の身体に対して羞恥心を覚えてしまったり、直接的ないし間接的に否定された気分になってしまうこと

・「どんな外見を魅力的だと感じるか」には通常考えられているほどの多様性はなく、知らず知らずのうちに社会的に決められている部分も大きいこと

・私たちの思う「よい外見」は、ジェンダー規範に当てはまり、若さや非アジア人的な外見を理想としているという偏りがあり、「外見のよさは個人の努力の結果なのだから、それを評価するのは何ら問題ではない」というときに、背景にそういったジェンダーや年齢、人種などの問題が絡んでいないかどうかも考える必要があること

・外見がよいという評価の前提には「健常」な身体が想定されているケースも多いこと
(垣花からナミサトリさんへのメール抜粋)

そして現在公開している連載1本目の記事は、インタビュー中の様子を撮った写真を記事内に使用しています。記事の冒頭には、西倉さんの写真も入れているのですが、普段とはすこし違う試みもしています。

SNSへの記事のシェアボタンを押してもらうとわかるのですが、SNSなど、こここではないページにシェア、配信されるときは、西倉さんの写真ではなく、連載全体のイラストであるナミサトリさんのイラストが表示されるようにしました。

【画像】Xで「ルッキズムに立ち止まる」記事がシェアされている
Xで記事が共有されるときのイメージ

SNSで、記事がシェアされるとき、その特性上、記事の一部を切り取った形で紹介されたり、感想をつぶやいてくださったりします。記事を読んで、大切な話だから、もう少し考えてみたいから、あるいはモヤッとしたから、危ういと思ったからなどさまざまな理由で、シェアいただけること自体はありがたいことです。

ただ記事がより多くの人に届いているとき、本文は読まず、タイトルや設定された画像、引用された一部の情報だけをもとに言葉が重なっていきます。他者の人権を侵害していなければ、多様な解釈が生まれることも承知していますが、記事に登場いただいた方の意図から、かなり離れた形で、ときに歪曲された形で誤解を生み、誹謗中傷が起こる可能性はゼロではありません。

コントロールできない範囲や広がりが大きいSNSの特性を踏まえると、さまざまな議論の最中にある「ルッキズム」というテーマにおいて、ひとりの人物を代表させてしまう(ように見える)形にならないようにしました。

そこまでするのであれば、写真ではなく、今回の連載もすべてイラストにすればいいのでは? そんな考えもよぎりました。しかし、写真がすべて駄目でイラストにすればなんでもOKという話ではありません。写真にしても、イラストにしても、何が危ういのか、具体的に考えず避けたままでは、問題点を遠ざけることにしかならないと思いました。

誰がどのように写真を選んでいったのか

そして、連載を通して、撮影をお願いしたのが、鈴木竜一朗さんでした。鈴木さんとは、〈クリエイティブサポートレッツ〉久保田翠さんの取材ではじめてご一緒しました。取材テーマや考えたい問いを、一緒に悩んで考えてくださる方だと感じ「一緒に悩み考えたいです」という言葉と共に今回の連載の撮影を依頼しました。

取材前には、事前に伝えていた連載テーマやお話を聞く方の情報、日程、謝礼などにプラスして、外川さんが作成してくださった想定質問案と共に「撮影してほしいカット」を共有しています。

撮影いただきたいカット:

・記事TOP用のカット、誰が登場する記事なのか、どんなトーンの記事内容なのかが予感できるもの
– 例:西倉さん単体カット、西倉さん、外川さん、小林さん3人一緒に写ったもの

・記事内テキストだけでは伝わらない取材中の話者、聞き手の様子が伝わるカット
– 話し手、聞き手の取材中の単体と引き

上記おさえていただきつつ、この記事内で使用している写真が「メディアを通してつくられたものである」「ある一瞬を切り取ったものである」と想起できたりするカットがあるといいのかもしれないと考えたり悩んだりしております。

(垣花が鈴木さんに送付したテキスト抜粋)

※はじめてご一緒する方には、そもそも入稿用の写真サイズなど前提をお伝えしていたり、違う媒体の仕事や依頼する人によっては、そのときの記事イメージに近しいトーンの写真を具体的にピックアップして送付する場合もあります

その上で「メディアを通してつくられたものである」ことが想起されるカットとはどういうことか?など少しやりとりして取材当日を迎えました。

当日も「取材される方にもカメラを渡して、取材する側(フォトグラファー、企画者含め)を撮ってもらうことも考えたけれど」「そもそも撮影中だけの工夫では限界があるね」と話をし、「小手先でどうにかするのではなく、このインタビュー記事に必要なカットとは何かを考えながら撮りましょう」とすりわせをして取材を行いました。

ちなみに取材を行う場所に到着後、すぐにインタビューや撮影がはじまるわけではありません。媒体概要や取材趣旨、取材中に録音・撮影することなどをお伝えしてからはじまります。また部屋の照明や太陽光の入り具合、背景にあるもの、奥行きなどを踏まえて、誰がどこに座るか位置を相談したりもしています。その他に、記事TOPの写真をどこで撮るとよさそうか、早めに現地に入って想定しておくこともありますが、そこについて今回は割愛します。

取材が終って少し経つと、鈴木さんより写真のアタリデータが届きました。アタリデータとは、実際に記事を入稿するときに使っているものではなく、低解像度で軽いデータです。そこから写真を選び、記事内で使用したいものをお伝えして、本番環境で使うデータをもらいます。

記事内に挿入する写真を選ぶのは誰なのか。記事内容やご一緒するライター、寄稿者によって都度変わります。今回は、外川さんが執筆した原稿をわたしが編集する段階で写真を入れています。

記事のクレジットには「撮影:鈴木竜一朗」と入っており、人によっては、写真を選んだのも撮影担当者?となるかもしれません。今回は「編集:垣花つや子」が記事内に使用する写真を選んでいます。

垣花の写真の選び方

どのように私が写真を選んでいるのか、企画、記事ごとにも違うので、一概のこうとは言えないのですが、今回の記事においてはざっくり次のように進めました。

手順1 アタリ写真で感覚的にいいと思ったものを事前にマークしておく
手順2 原稿を読みながら、写真が必要だと思う箇所をピックアップ
手順3 該当箇所にあう写真をアタリデータから探し、選ぶ
手順4 写真を入れた状態の原稿をPCビューとスマホビューで読み直し、文章を読み進めたときに文意やリズムを邪魔していないか確認

※手順1でマークアップしたものが、その後の手順で直接関わってこないのは、挿入位置など目的を一旦置いた状態で、感覚的にいいと思ったという過程を通過しておきたいからです

記事の冒頭に挿入する写真は、1枚だけではなく、5枚ほど候補を挙げて、今回の連載企画を担当いただいている外川さんにも確認いただき、進めていきました。写真の候補は「たずねた先(今回は西倉さん)単体」「たずねた人(外川さん、小林さん)とたずねた先(西倉さん)の目線あり」「3名の関係性が見える、会話中の様子」などでした。

一方で記事内では、「テキストとして記されているものがどんなトーンで語っているのか、そのニュアンスが想像できるもの」や「取材中の位置関係や構成、環境がどのようなものだったのか見えるもの」をベースに写真を挿入しました。

【写真】2枚の写真が並んでいる。1枚目は取材中の3名話者の様子、2枚目は、4名の話者の様子
「ルッキズムに立ち止まる」連載記事内より引用

上に引用した写真は、西倉さんが「ある人の外見が良いとか悪いとかというところから、外見の良し悪しを決める評価基準がどういうふうに作られてきたのかというところへ。その基準がじつはすごく偏っていることに気づくことが大事だと思います」と語った直後の部分です。

取材中の環境がすこし引きで見えることで、この記事がどう作られているのか想起できるといいなと思って入れました。また1枚目は西倉さん、外川さん、西倉さんの3名ですが、その後に、編集担当である垣花も入った写真を挿入することで、取材を構成する人が3名かと思いきや、「違う人もいる」という事実を消さないことを目指しました。(だとするならば、垣花もしっかり登場させればいいとも思ったのですが、今回の取材に関しては、垣花という登場人物がさらに増えることは伝えたい情報以外の部分が増えてしまうと考えました。)

こうして記事内に写真を挿入し、執筆者と編集担当原稿を作成した後に、デスクチェック(編集長チェック)を経て、取材先確認を行います。原稿内容はもちろん、そこで使用してほしくない写真があれば教えていただき最終調整、撮影を担当いただいた方に使用写真をお伝えして、本番用のデータをいただきます。

実はここも悩ましい。自分が原稿を確認する側の立場で考えたとき、原稿内にある自分の写真をどう捉えればいいのか、作成者の意図もあるだろうし、なんとなく抵抗があるけれど、理由もうまく伝えられなさそうだし「しょうがないものなのかな」と泣き寝入りしてしまうこともありそうです。逆に、「うわ、めっちゃいい写真、さすがプロ」となることもあるでしょう。

いち編集者としては、なんか気になるな、嫌だなと思ったときは、まとまらずとも遠慮なくお伝えいただきたいです。それを踏まえて、他の候補写真を提案したり、使用を避けたり、相談して進めたいです。納得できない形で記事が公開されて、残ってしまうのは、誰にとってもよろしくないと思っています。

本番データをいただいた後は、入稿し、プレビュー画面を確認、公開、公開後に各所に連絡という流れになります。入稿時には画像の代替テキスト「alt」の設定など、音声読み上げで記事にふれてくださる方を想定した作業もあります。アクセシリビティまわりの話で、別で記した方がいい気がするので割愛しますが、こここでヒントになる記事があるので記載しておきます。

縦スクロールで読む形式について

〈こここ〉は、ウェブマガジンで、縦スクロールで読む形式になっています。そうすると、画面内に表示されている部分以外を見ることができません。紙媒体だと、どこのページから読むこともできますし、クローズアップして見た後に、全体をざっと眺めることもできるでしょう。そう考えると、読み手が能動的に視線を動かして読める幅が少ない形式でもあるのですが、だからこそ写真の位置や連続してどう見せるかは工夫のしどころだと感じています。たとえば 長野県上田市にある「リベルテ」をたずねた記事ではまた異なる写真の入れ方をしています。

【写真】リベルテ取材記事内の写真2枚が表示されている。1枚目は、ある建物の前で複数人が集まっている様子、2枚目は、その人たちが歩き出した様子
『「何気ない自由」が尊重し合える社会をつくるには? 長野県上田市にある「リベルテ」をたずねて』記事(撮影:加藤甫)より

ここまで写真選びにまつわる過程を記してきました。気づいたのは、これまで自分のなんとなく感覚で写真を選んでいることも多かったということでした。

あらためて冒頭に記したことを振り返ってみます。

「スマホで記事を読むとき、電車移動中に中吊り広告がふと目に入ったとき、美容院で雑誌を手に取ったとき、そこで使われている写真やイラストは、誰が、どのような意図をもって作られたものなのでしょうか?」

「記事づくりに携わるひとりとして、偏ったイメージを無自覚に発信し続けていないか、企画者の意図を起点に、複数の人の手が入り、整え『つくられた』記事であることを消しすぎていないか」

記事内に使用する写真表現だけでどうにかするのではなく、この記事において、誰がどのように写真を選んでいったのか。そのプロセスをこの記事では記載してきました。そうすることで、ある種「つくられた記事」であることがもう少し見えやすくなるのではと思ったからです。

著名な編集者でもない私のプロセス、視点を書いても、多くの人に届くのは難しいと思います。このブログを気にしてくださった時点で、「つくり方」に関心があり、「つくられているもの」であることに自覚的である方が読んでくださっているのでしょう。華やかで派手な「つくり方」を記しているわけでもないですし、わかりやすいハウツーでもないですし、こここ編集部のメンバーでも大切にしている点ややり方は人それぞれなので、「こここのやり方」でもありません。しかし、あくまで今回の連載における垣花のプロセスですが、記す意義はあると思って綴っています。

さまざまな表情や所作の写真があるなかで、なぜそれを選んだのか、一見説明したように見えたその奥に潜む、自分がよいと思う美醜の価値観。その視点に偏りがあり、そのプロセスが外からは見えづらいこと。

それらをどう自覚し、偏った美の基準を再生産しないでいられるのか。記事づくりに携わるひとりとして引き続き考え続けたいです。でもひとりで考えても、堂々巡りしてしまったり、気づけなかったりすることの方が多い気がするので、一緒に考えてくださる方、どこかで出会えた際にはお話させてください。

垣花つや子でした。