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「知らずに誰かを傷つけていたかもしれない」から、家庭のケア、プロのケアを考える。新著『傷つきやすさと傷つけやすさ』発売、村上靖彦さんのトークも
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【画像】書影。帯に、管理と効率からケアを解放する、の文言
2025年5月に発売された『傷つきやすさと傷つけやすさ――ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』(KADOKAWA)

「知らずに誰かを傷つけていたかもしれない」から、ケアを考える

「人を傷つけてはいけない」とは、よく言われる言葉です。けれど実際には、何の気なしに言った言葉が相手を深く傷つけていたり、気づかないうちに誰かを追い詰めてしまっていたり……。

「傷つけたい」と思っているわけではないのに、人はなぜ他者を傷つけてしまうのでしょうか。

その理由を、「想像力が足りなかった」「気遣いが足りなかった」といった個人の問題として片づけてしまうことは簡単です。でもその言葉を発した背景には、優劣をつける競争主義や、過度な効率を求める社会構造、生きてきた環境の違いなど、本人も知らないうちに影響を受けた要因が潜んでいる可能性もあります。

本書『傷つきやすさと傷つけやすさ――ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』では、そうした「無自覚な加害性」に向き合うことこそ、ケアを考える上で欠かせないと語られます。ケアに内在する暴力の可能性とはどのようなものか、誰もが「傷つき」「傷つける」ことの痛みから目をそらさず生きていくことはできるか。問いかけるのは、哲学者の村上靖彦さんです。

誰かが傷ついているときには、傷つける人がいる。人が本質的に傷つきやすい存在であるとき、同じように傷つけやすい存在でもあるということだ。ケアは、傷つけることも構成要素として含む。

(「序章 傷つきやすさから傷つけることへ」 p32より)

哲学からケアの現場へ。「ケアとは何か」を問い続けてきた

著者の村上さんは、大阪大学大学院 人間科学研究科の教授として看護の現象学を専門としています。もともとはフランス哲学の研究をしていましたが、約20年前に小児科の友人をきっかけにして医療や福祉の現場に足を運ぶようになりました。以来、医療や福祉現場に研究のフィールドを移し、看護師やソーシャルワーカー、ヤングケアラーといった人々との出会いを重ねてきました。

【写真】
村上靖彦さん

ケアをする人・される人たちの語りに耳を傾けながら、「ケアとは何か」という問いに真摯に向き合ってきた村上さん。これまでに『ケアとは何か——看護・福祉で大事なこと』(中公新書)をはじめ、多くの著作でケアの現場に光を当ててきました。今回の新刊は、『ケアとは何か』と地続きでありながらも、少し異なる立ち位置から書かれた一冊となっています。

その背景には、これまでに出会ってきたヤングケアラーの子どもたちや、アイヌや沖縄、被差別部落などの出自をもつマイノリティの人々との対話があったといいます。自分がどれだけ無自覚に「加害する側」にいたのかを見つめ直すなかで、自らはケアする側になりきれていなかったことや、気づかぬうちに誰かを傷つけていた可能性に本書で向き合います。また、ケアという行為に潜む暴力性や、傷つきをどう受け止めるかを問いかけていきます。

本書では一人称単数形を「僕」と表記する。幼稚かもしれないが、日常生活での僕は、自分を「僕」もしくは「オレ」と呼ぶ。今までの著書では日常で使わない「私」を用いていたのだが、そうしてしまうと、僕自身の経験から切り離されてしまうことに気がついた。「私」「私たち」と書いているときには、僕自身が生活のなかで感じたことや戸惑いを切り落としており、記述している事態に対して責任を負っていない。なので、今回は実験的に「僕」と書いてみる。

(「はじめに 傷つきやすさと傷つけやすさー僕の負い目ー」p8より)

「私」ではなくあえて「僕」という一人称を選び、自分自身の立場や過去と向き合いながら綴られた言葉には、ケアという営みを語るうえで欠かせない当事者性が込められています。

「ケアのなかにある暴力」から、どうすれば生きやすい社会をつくれるのか?

タイトルにもあるとおり、「傷つくこと」「傷つけること」の両方を見つめながら、ケアし合う社会と生きやすい空間「生きるスペース」をどのようにつくっていくのかが本書のテーマになります。

【画像】見開き目次ページ。第1章、家族ケアに忍び込む暴力、第2章、プロのケアのなかのネガティブな出来事、の文字が目立つ

序章では、全体の骨組みとなる「傷」の2つの側面を示します。また、「ケアすること」と「ケアを受け取ること」、そして、誰もが知らず知らず受け取っている「広い意味でのケア」と生存がケアに依存する「強い意味でのケア」、それぞれの対を提示しながら、ケアをめぐる考え方を整理します。

第1章は家族のなかで行われるケアに忍び込む「暴力」に触れます。その一つが、近代以降の資本主義社会において広がった性別による役割分担です。

村上さんは、家父長制と資本主義が結びつくなかで、家族のケアが主婦の役割として当然視され、見えにくく、評価されにくいものになっていったと指摘します。家庭で無償のケアを担う女性がいたからこそ、男性は外で働くことができた、つまりケアという見えない支えの上に、経済や社会が成り立ってきた。そのような「ゆがんだ社会構造」は、続く第2章、専門職によるケアでも傷つけが起きる可能性につながっていきます。

【画像】見開き目次ページ。第3章、ケアを管理から解放する、第4章、孤立とかすかなSOSへのアンテナ、の文字が目立つ

第3章では、そもそも「ケアとは何か?」を改めて問い直し、前章で語られた管理や競争、効率といった社会構造からケアを解放する方法を模索。誰もがケアを受け取る存在でありケアする存在でもあることを踏まえて、家族や施設の中にケアを閉じ込めないかたちで、「生きるスペース」をどう確保していくか探ります。

そして第4章は、ケアから排除され、ケアを受け取れない「すき間」に陥った場面において、プロの支援者たちが孤立した状況にある人たちの「かすかなSOS」を時に敏感に、時にさりげなくキャッチするさまが描かれます。

子どもは(あるいは大人も)困っているときにはかすかなシグナルを出す。暴れる、リストカットする、万引きする、家出するといった「問題行動」と言われるものでもあるかもしれない。しかしそれを〈かすかなSOS〉としてキャッチするアンテナこそがすき間へとおいやられた子どもを発見する営みとなる。

(「第4章 孤立と〈かすかなSOSへのアンテナ〉」p172より)
【画像】見開き目次ページ。第5章、生きのびるためのミクロな実践、の文字が目立つ

結論となる第5章は、著者自身の立ち位置から、社会の中で「逃れる」「試みる」ことを通して、どうすれば生きやすさを確保できるのかついて考えていきます。これまで無自覚にケアを受け取ってきた環境、いつでも誰かを傷つけ差別しうることを出発点とし、「生きるスペース」をつくるための具体的な実践が紹介されます。

構造的な暴力や理不尽な規範を前提とした社会のなかで、私たちは誰かを「傷つける」可能性からも自由ではいられません。本書は「それでもどうやって生きていくか」を、ケアを軸に問い直しています。

7月17日(木)代官山 蔦屋書店にて、勅使川原真衣さんと「ケアからつくる社会」を語るトークイベントを開催

『傷つきやすさと傷つけやすさ』と、同時期に発刊された村上さんの著書『鍵をあけはなつ』(中央法規出版)のダブル刊行記念イベントが、2025年7月17日(木)代官山 蔦屋書店にて開催されます。「傷から学び、考える――ケアからつくる社会とは」をテーマに、組織開発専門家である勅使川原真衣さんをゲストに迎えての対談イベントです。

【画像】トークイベントのサムネイル。19時スタートであることがわかる

勅使川原さんは、自身のがん闘病をきっかけに「能力主義」に疑問を持ち、『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)、『働くということ』(集英社新書)、『職場で傷つく』(大和書房)などの著作で、評価や競争が当たり前になっている社会のあり方を問い続けてきた方。今回、村上さんが『働くということ』に寄せた推薦文をきっかけに、待望の対談イベントの開催が決定しました。

2人が実体験やフィールドワークで感じたこと、ケアへのまなざしを語り合います。会場だけでなくオンラインでの視聴も可能なため、気になる方はぜひ参加してみてください。