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成果主義から「ケア」への変容を綴る、竹端寛さんのエッセイ集『能力主義をケアでほぐす』
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【画像】能力主義をケアでほぐすの表紙

子育てから「生産性至上主義」を再考した、8年の歩みをたどる一冊

この社会では、「できること」を積み重ねて結果を出した分だけ、給与や名誉といった「成果」が得られる。そうした価値観を信じて、“良い大学”や“良い会社”を目指して努力を重ねてきた人も多いのではないでしょうか。

そのような人たちも、例えば子育てや介護が身近になると、これまでのような努力や成果では語れない出来事に直面することが増えます。

例えば旅行を計画していても、子どもが急に風邪をひいてキャンセルせざるを得なくなったり、どれだけ時間をかけても介護する相手の症状が必ずしも良くなるとは限らなかったりします。そしてそれでも、相手の健やかな日々を願ったりするのは、そこに長年培ってきた生産性至上主義や能力主義とは異なる、“何か”があるからかもしれません。

2025年2月に発行した『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)は、長らく成果主義と自己責任論の呪縛に苦しんできた竹端寛さんが、8年間にわたり書き続けたブログを再編集した一冊です。本や人との出会い、そして自らの子育て体験を通じて、その時々に直面した課題に向き合いながら「ケア」の重要性に気づいていく過程が描かれています。

研究者・父親・社会の一員の3つの視点からケアを見つめ直す

本書の著者である竹端さんは、大阪大学で人間科学の博士課程を修了後、山梨学院大学法学部政治行政学科の教授を務め、2018年4月からは兵庫県立大学環境人間学部の准教授を担当しています。

【写真】木漏れ日の中に佇む竹端さん

福祉社会学や社会福祉学を専門に、論文執筆や講演などで精力的に活動してきた竹端さんですが、子どもが生まれたことをきっかけに、ケアに対する考え方が変わったといいます。

僕自身が「仕事中毒」だったときには、生産性至上主義の塊で、業績を出すことに強迫観念的に縛られていた。そのことに自覚的になったのも、家事育児に明け暮れた一日が終わって、「今日は何も出来ていない!」とため息をついている自分に気づいた時期からでした。

(「はじめに」p.5)

『能力主義をケアでほぐす』では、そんな竹端さんが「研究者」「父親」「社会の一員」といった3つの視点を行き来しながら、指導する学生や家庭での子どもへのケア、さらには自身の研究を通じて向き合ってきた社会構造について綴ります。

その思考の道標となっていくのが、過去に竹端さんが出会った、さまざまな書籍や人の言葉です。

例えば、第1章「能力主義の何が問題なのか?」では、教育学者の中村高康さんや哲学者のマイケル・サンデルさん、組織開発コンサルタントの勅使川原真衣さんらの著書に言及。桜井智恵子さんの『教育は社会をどう変えたのか』(明石書店)に触れる回では、昨今の「個人で生き延びろ」という価値観の問題に重ねて、竹端さん自身の接する学生たちが内面化した能力主義と、それを強化させる構造について指摘しています。

貧困家庭から抜け出すために、「努力すればなんとかなる」のだから、「学習支援」を受けて、高い学歴をつけて、脱出せよ。その価値前提には、『個人で生き延びろ』(個人化)がある。学力を身につけることが貧困家庭から抜け出す前提になっている。一見するともっともらしい言説が、この言説の背後には「努力しても学力が身につかなければ、それはその人の自己責任」という問題の個人化が見え隠れしている。

(第1章「能力主義の何が問題なのか?」p.37)

能力主義が前提となった制度や社会構造をときほぐす

竹端さんは以前に〈こここ〉でも、能力主義にも通じる「ちゃんとする」という価値観がどう形成されるのか、それをどう解きほぐしていくかについて、僧侶の松本紹圭さんと対談してもらいました。

長く自身を縛ってきた価値観を変えた「ケア」とは、一体どのようなものなのか。第2章「ケアについて考える」では、幼い娘との暮らしの中で突如発生したトラブルを通じて、計画やコストパフォーマンスといった生産性至上主義が全く役に立たない様子が描かれています。

子育てに関しては、これからもモヤモヤするし、より主体性を発揮し始める娘とぶつかることも出てくるだろう。そのたびに、何度もなんども、僕自身は「無力さ」を味わうだろう。でも、そのたびに、先輩や仲間の子育て経験当事者と語り合えばよいのだ。唯一の正しい「正解」はないからこそ、モヤモヤ対話を続け、お互いの悪循環からの脱し方を学びながら、僕自身も娘や妻とよりよい関係を築くための模索をし続けていけばよいのだ。

(第2章「ケアについて考える」p.90)

ケアをしていると、自己と他者の境界が曖昧になることがあります。例えば、子どもの風邪やぐずりに突如対応せざるを得なくなる。

そうした「ままならぬものに巻かれる」ケアの中にある、深い喜びに竹端さんは触れつつ、一方で後半の章では、それを取り巻く制度や社会構造にも視点を移します。例えば中村佑子さん著書の『わたしが誰かわからない──ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)を引用した回では、ケア機能が家族に依存している日本の社会制度について指摘しています。

「何かあったら家族がケアしてくれる」という家族のケア機能は実質的に崩壊しているのに、法や制度は家族をアテにしている。これは高齢者や障害者支援だけに限らない。子育てにおいても、「家族丸抱え」は「すでに崩壊している」。にもかかわらず、この国の制度設計やシステムは「崩壊していない前提で、国も厚労省もケアを家族に返す」のだ。

(第3章「家族がチームであること」p.124)
【画像】能力主義をケアでほぐすのオビ付き表紙。

ケアを通じて、自分を捉え直すには

竹端さんは本書の中で、ケアされる人だけでなく、ケアをする人にも孤独や悲しみが宿ることにも目を向けます。

精神科医の斎藤環さんの実践からは、「オープンダイアローグ(※注)」に出会ったことで、看護師や臨床心理士と協力する必要があると気づき、孤独を乗り越えていった過程を紹介。同時に、精神科医の森川すいめいさんが『感じるオープンダイアローグ』(講談社現代新書)の中で明かした、治らない患者を「治そう」と知識や技法を身につける限界にも触れながら、現状のシステムやケアのプロセスを問い直す必要性を語っていきます。

※注:1984年にフィンランドのケロプダス病院で生まれた、開かれた対話を基盤とする精神医療の総称。患者のニーズに耳を傾け、それに応じた包括的なケアを提供する

閉塞感を乗り越えるために必要なことはなにか。それは知識や技術をアップデートすること、だけではない。そうではなくて、「自分が何を大切にしていて、どうして働いているのか」「これまで何にどのように傷つき、いかなる不安や心配ごとを抱えているか」という、自分自身の実存的課題と直面し、そのことに自覚的になることである。

(「学校・制度・資本主義」p.188)

「こうすべき」「あれをすべき」という他者の声が入ってきやすい社会ゆえに、自分自身と向き合うのが難しくなってきています。そして、気づけば家族や自分自身さえも「できることの総量」、つまり「能力主義のモノサシ」で評価してしまっているかもしれません。

本書には、制度や社会構造によって刷り込まれた能力主義を解きほぐすヒントが散りばめられています。ぜひ手に取って読んでみてください。