

かけがえのない「風景」の中で暮らすということ たとえ答えが出なくとも|インディペンデントキュレーター・青木彬 vol.03
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「アートは“よりよく生きるための術”になると思うんです」と話す、インディペンデント・キュレーターの青木彬さん。全国各地の展覧会やアートプロジェクトの企画・運営を手がけながら、福祉に関わるさまざまな人や場所とも関わり、この春、社会福祉士(ソーシャルワーカー)の国家資格も取得されました。この連載では、青木さんが今考えていること・実践していることを綴ります。(こここ編集部)
風景のような展覧会がつくりたい
もう10年近く前、「眺めていても飽きない、風景のような展覧会を企画したいな」と思う瞬間がありました。
それは自分が企画した展覧会の会場で時間を過ごしていたときのこと。閑静な住宅街にあるギャラリーの軒先の椅子に座って、当時はまだやめていなかった煙草を吸いながら目の前のお寺から伸びた木に小雨が滴る様子をしばらく眺めていた時のことでした。
眺めていて飽きないと感じたのはお客さんが来なくて暇だったからなのか、煙草を吸ってリラックスしていたからなのか、それとも雨を受けて不規則に揺れる枝葉が面白かっただけなのか。特別に美しい風景だったわけでもなく、何か見応えのある物が置かれているわけでもないのに、その時の自分にとってはなぜかとても心地良い時間だったことを覚えています。
そして僕は、こんな風にリラックスしてのんびりと作品の前に佇むことができる展覧会がつくりたいなと思ったのでした。しかし、「いや、風景と展覧会は別物だ」と、ささやかな妄想をすぐに否定したことも合わせて覚えています。
まちはいつの間に変わっていく
最近、東京の実家に帰った時に最寄り駅がとても綺麗になっていたことに驚きました。駅は高架化され、開かずの踏切は無くなりました。リニューアルした駅ビルにはお馴染みのチェーン店がずらりと軒を連ねています。
東京にいると、いつのまにか家やビルが取り壊され、建て替わり、以前あったお店を思い出せなくなることが当たり前で、気に留めることもありません。渋谷なんてここ数年でまちが丸々様変わりしています。そうやって風景が変わっていくことが当たり前だし、スクラップ&ビルドは東京生まれの自分にとってありふれた日常でした。むしろそんな変化が東京の面白さだとも思っていました。
一方で変わってほしくない風景というものもあります。
そのひとつが半年ほど前に移住したまちの風景です。
移住したのは京都の山間部。電車は通ってないし、公共交通機関もあまり頼りにならず、車が無いと生活が難しいような地域です。不便だと思われるかもしれませんが、スーパーもあるし、京都駅までだって車で1時間ちょっと。周りは山に囲まれていて、澄んだ川が流れていて、3階建以上の建物なんて見当たらない。おかげで空がひらけていてこの上なく気持ちの良い場所です。
幸い決まった場所に毎日通勤するような職業でもありません。自分が住む場所は比較的自由に選ぶことができるが自営業者の良いところ。
2年前の冬に仕事でこのまちを訪れた時、滞在先の家から近くの神社まで早朝に散歩をしながら突然「ここで暮らせたらいいな」という思いが湧き上がってきました。一緒に来ていたパートナーも同じことを考えていたそうで、そこから色々なタイミングが重なり、とんとん拍子に移住が実現したのでした。
関東圏での仕事も多く移住後も頻繁に東京へ出張しているのですが、このまちに帰ってくると知らず知らずのうちに気持ちがリセットされます。だってどんなに急いでたって駅までは時間がかかるし、夜になったら辺りは真っ暗。人よりも鹿や狸を見ることのほうが多い日もあります。「仕事をしなくちゃ」「もっと頑張らなきゃ」と焦る気持ちがあっても、違う時間軸で物事を考えさせてくれるようなまちなのです。
風景も「文化」だ
移住先の家は築100年を超える古民家で、広々とした庭もあります。都心じゃ味わえない贅沢な環境ですが、広い庭に付き物なのは「草刈り」です。
これはきっと“地方移住あるある”なんでしょうが、庭の手入れは良好なご近所付き合いのためにも欠かせない仕事。ほったらかしにはできません。引っ越してすぐ、夏場はあっという間にボーボーになってしまう庭の草を毎週のように刈っていました。
確かに周囲のどの家を見渡してみても、庭や畑が綺麗に手入れされています。夏には週末になると必ず草刈り機の音が聞こえてきました。
「草刈りしなきゃ!」というプレッシャーが全く無いと言えば嘘になります。
今までの生活には無かった「草刈り」という時間を、仕事や休日の合間をぬって捻出しなくてはいけないのですから、そりゃあ多少は億劫な気持ちもあります。
でも、ふと思ったのです。
僕が移住したいなと思ったこの美しい風景は、ここに住む人達が捻出している草刈りの時間によって維持されているんだと。
そんなこと改まって言うなんてシティーボーイぶってるわけではないのですが、遠くに広がっていて眺める対象だった「風景」が、急に手元に引き寄せられた気がしたのです。
目まぐるしく変化する東京のまちのように、草刈りを怠っていたらいつのまにか古民家がファーストフード店に変わってしまうことはありませんが、この山間部の風景も日々変化しています。その変化の中に一人ひとりの生活があり、その生活の中で僕が美しいと思った「風景」が作られ続けているのです。
つまり風景とは人々の営みがかたちになって共有されたものなのではないでしょうか。だからこそ、その風景に触発されてアーティストが作品を創作することだってありえます。そういえば、この連載の一回目に書いたエピソードも『逡巡のための風景』という自分が企画した展覧会での出来事でした。展覧会のタイトルを決めたのも、ちょうど京都の山々をアーティストと眺めている時でした。
風景はきっと様々な文化を育んできたものであり、風景それ自体も大切な文化です。
失われる風景、変化する風景
今、京都では北陸新幹線の延伸計画というものがあります。これは福井県小浜市から京都駅に向かって南下する北陸新幹線のルートを新設する工事のことで、2031年着工、2046年開業を想定して進められていた計画です。
そして、そのルート上にあるのが僕が移住したエリアでした。
新幹線延伸については移住前から聞いており、僕が出会った地域の人達はみんな延伸について強い懸念を示していました。延伸の必要性や計画の決定プロセスへの懐疑だけではなく、大規模なトンネル工事による自然環境への影響を心配する声も聞きます。
この計画が本当に進められるとしたら、移住を決めるきっかけにもなった「風景」が失われてしまいます。
風景の変化、つまり環境の変化は個人の身体にも影響を与えるものだという実感が僕にはあります。
2019年に右足を切断した際、失った四肢に痛みを感じる「幻肢痛」という症状に興味を持ち、自身を観察するなかで、「幻肢」は身体の体勢など周囲の環境によって感じ方が変化することに気が付きました※1。他の患者さんも同様かはわかりませんが、少なくとも僕はそのような変化を確かに感じたのです。
周囲の環境にある物や事象が人間に行動を促しているということを提唱した認知心理学における「アフォーダンス理論」のように、見えない幻肢は周囲の状況に反応を示したのでした。意図的には動かせないけど環境を設定することによって幻肢を動かすことができる(変化を促すことができる)という経験は、キュレーションの技術においても大きなヒントを与えてくれるような出来事でした※2。
もし僕が経験した幻肢のように、環境と身体が相互に作用しているのだとしたら、まちの風景が変わることでそこに暮らす僕たちの身体や心もいつしか変わっていくのでしょうか。
※2ジェームズ・J・ギブソン『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』
「喪失」なのか、「相対的な変化」なのか
そういえば、社会福祉士養成コースの授業中に見たあるドキュメンタリー番組で、車椅子を使う認知症のある高齢者の方が、入所している老人ホームから外泊で自宅に戻った瞬間、自分の足で立ち上がり、テキパキと動き出したシーンがあったことを思い出しました。まるで目をつむっていてもどこに何があるか分かると言わんばかりに自宅を使いこなす姿が印象に残っています。
長年住み慣れた自宅という環境が、その方にこれまでのような日常の所作を思い起こさせたのでしょうか。よく「家が一番いい」なんて言いますが、その真髄を見たような気がしました。
スクーリングでは抜粋された一部のシーンしか見れなかったので、その方にとっての住む場所における選択の良し悪しは僕には分かりません。住み慣れた環境を離れると人は何かを失ってしまうのか、それともそれは喪失ではなく環境と人の相対的な変化が起こっているだけなのか、どこでどんな風に生きていくことが幸せなのか考えずにはいられませんでした。
草刈りという生活の中のわずかな行為が愛着のある風景を作っていたように、家も山々も、自分を取り巻くその環境に特別な意味付けがなされたとき、どんなにありふれた風景でもそれがその人にとって生きていく上で欠かせない文化になるんだと思います。
刻々と変化する東京のまちと、美しい自然に囲まれた山間部。車椅子で過ごす施設と、住み慣れた自宅。
きっとそのどれもが誰かにとってのかけがえのない「風景」になり得るのかもしれません。

これまでのエッセイ
Information
書籍『幻肢痛日記』(著・青木彬)発売中
『幻肢痛日記 無くなった右足と不確かさを生きる』
切断したはずなのに、足のあった場所が痛む…。世にも奇妙な現象〈幻肢痛〉とつきあいながら、視界の外に広がる世界を思索する4年間の記録。
- 著者:青木彬
- 出版社:河出書房新社
- ISBN:978-4-309-23162-4
- 発売日:2024.10.25
- 定価:2,090円(本体1,900円)
>詳細は公式ページよりご覧ください
Profile
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青木彬
インディペンデント・キュレーター
1989年生まれ。東京都出身。一般社団法人藝とディレクター。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートを「よりよく生きるための術」と捉え、アーティストや企業、自治体と協同して様々なアートプロジェクトを企画している。近年は社会福祉とアートの接点を模索しながら実践を重ねるほか、社会福祉士の資格取得を目指して勉強中。
これまでの主な企画に、まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター(2018〜)。都市と農村を繋ぐ文化交流プロジェクト「喫茶野ざらし」共同ディレクター(2020〜)。などがある。2019年からは、自身が右足を切断したことで体験した「幻肢痛」をきっかけに身体のこと、アートのことを綴る日記「無いものの存在」をnoteで発信。[ポートレート撮影:コムラマイ]
Profile
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蓮沼昌宏
アーティスト、写真家
1981年東京生まれ。千葉育ち。2010年東京藝術大学大学院美術研究科博士課程修了(美術解剖学)。2016–17年文化庁新進芸術家海外研修員(ドイツ・フランクフルト)。 近年の活動に、2023年「公開制作vol.3 蓮沼昌宏 制作、テーブル、道」(長野県立美術館、長野)、「BankART Under35 / Over35 2023」(BankART KAIKO、神奈川)。2021年「特別的にできない、ファンタジー」(神戸アートビレッ ジセンター、兵庫)、「奥能登国際芸術祭2020+」(木ノ浦ビレッジ、石川)、2020年「物語の、準備に、備える。」(富山県美術館、富山)などがある。2022年に自作集『床が傾いていて、ボールがそこをひとりでにころころ転がって、階段に落ちて跳ねて、窓の隙間から外へポーンと飛び出てしまう。蓮沼昌宏』を刊行。現在、長野県を拠点に活動中。