福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【画像】木のテーブルの上に彫刻刀やパレットナイフ、顔料などの道具が並んでいる。中央には三角形の木の板。こどもや鳥の絵が彫られている。【画像】木のテーブルの上に彫刻刀やパレットナイフ、顔料などの道具が並んでいる。中央には三角形の木の板。こどもや鳥の絵が彫られている。

展覧会が人の命に触れてしまった たとえ答えが出なくとも|インディペンデントキュレーター・青木彬 vol.01

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「アートは“よりよく生きるための術(すべ)”になると思うんです」と話すのは、インディペンデント・キュレーターの青木彬さん。青木さんは、全国各地の展覧会やアートプロジェクトの企画・運営を手がけながら、福祉に関連するさまざまな人や場所とも関わり、現在、社会福祉士(ソーシャルワーカー)の国家資格取得を目指して勉強をされています。

「よりよく生きること」とアートがつながるとはどういうことでしょうか。そもそも「アート」とは本質的にどのようなもので、「よりよく生きる」とはどんなことを指すのでしょうか。この連載では、アートプロジェクトの現場や日常の風景を起点に、答えの出ない状況や世界に向き合う青木さんが今考えていること・実践していることを綴ります。

第1回は、ある人の命に関わる煩悶と、展覧会の作品がたまたま邂逅し、青木さん自身がどうしたらいいかわからなくなったという出来事について記していただきました。(こここ編集部)

ほんの数分の会話から「答えのでない」世界へ

はじめまして。インディペンデント・キュレーターの青木彬です。

大学で芸術学を専攻していた4年間を含めると、アートに携わって約15年になります。元を辿れば両親の影響で幼少期から美術館や劇場に行くことが多く、文化的経験には恵まれた環境でした。そんなわけで将来の進路も中学時代から義肢装具士、空間デザイナー、グラフィックデザイナーなど物を作る職種への関心があれこれ移り変わったあげく辿り着いたのが、アートマネジメントという分野でした。大学を卒業して劇場で企画制作として勤務をした後、紆余曲折を経てインディペンデント・キュレーターとして活動を始めてもうすぐ8年です。

「インディペンデント・キュレーター」とは美術館などに所属するキュレーター(学芸員)と異なり、どこにも所属せずに活動するキュレーターを指す肩書です。特に僕の場合は美術館やギャラリーで展覧会を開催するよりも、行政や企業、まちづくり団体など、アートを専門にしていない方々と協働してアートプロジェクトを企画運営することが主な活動になっています。

たった8年のキュレーター歴の中でも、アートと関わり続けようと思えるような決定的な出会いがあるもので、そしてそれはまったくもって答えの出ない世界への入口となってしまったのでした。

その出来事とは、2019年に京都芸術センターで企画した展覧会「逡巡のための風景」の設営中、ボランティアをしていたFさんとのほんの数分の会話でした。

「安楽死」と「とにかく生きよう」

Fさんは、この展覧会の会場である京都芸術センターでボランティアとして長年活動されていた男性です。初めて会ったのは2018年の冬。この展示への出展を依頼したアーティストの一人であるイシワタマリさんが、京都芸術センターのボランティアさん達と一緒に作品を協働制作をしたいということになり、興味を持って集まってくださった方の元へご挨拶に行った時でした。Fさんは当時80歳くらいで、コンテンポラリーダンスをされていて、読書家で聡明な印象の優しい方でした。

その後2019年2月、いよいよ展覧会がオープンする時のこと。設営も概ね終わり、アーティストの作品が展示空間に設置されているのを確認しながら館内をゆっくりと歩いていると、ある部屋の中でイシワタマリさんとFさんが、少し神妙な面持ちで話をしているのが見えました。

設営の確認とFさんへの挨拶を兼ねて部屋に入ると、そこに座っていたFさんは以前よりも痩せていてどことなく力無い様子です。話を伺うと僕らが初めて会った後にALS(※注)が見つかり、体調が一変。続けて、症状によって変わっていく自分が受け止めきれず、現在は「安楽死」について考えていると言います。

突然の話に僕は返す言葉が無くなってしまいました。言葉を返すどころか、しっかりと受け止めることさえできていませんでした。Fさんは「安楽死」について考えているけど、今の日本ではできないとわかっていること、そしてFさん自身も安楽死が最適な道かわからないこと、それでも変わっていく自分を許容できないことを淡々と静かに語っていくのでした。そして最後にこうつぶやきました。

「そんなことを考えて芸術センターに来てみたら、庭に『とにかく生きよう』って描いてある……」

Fさんが芸術センターで見つけたこの言葉は校庭に設置されたイシワタマリさんの作品に描かれていた「アートだろうがなかろうが、とにかく生きよう」という言葉でした。これはイシワタマリさんが当時取り組まれていたプロジェクトの標語のような言葉でもあり、同時に僕が企画した展覧会のコンセプトに強く共鳴するものでもありました。

部屋の真ん中でぽつりとそうつぶやいたFさんの目はこちらを向いていたけど、視線は僕らを突き抜けてどこか遠くを見ているようだったこと、その声はしんしんと降り積もる雪のように僕の心にずっしりと積もっていくように感じたことを今でも思い出します。

※注 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気のこと。人口10万人当たり平均2.2人が発症されるという指定難病の一つ(参照:公益財団法人難病医学研究財団「難病情報センター」

展覧会が人の命に触れてしまった

「庭に『とにかく生きよう』って描いてある……」の先に明確な言葉は無かったように記憶しています。

励まされたと感嘆するわけでも、自分に対する当てつけかと憤慨するでもなく、かと言って乾いた朗読でもなく、「アートだろうがなかろうが、とにかく生きよう」という言葉がFさんの心にジーンと沈んでいってしまうのがありありとわかりました。

その様子を見た途端、僕はなにかとんでもないことをしてしまったような気になったのでした。自分が企画した展覧会が誰かの一生に確かに関わってしまった、その重大さを全身で感じて気が遠くなるようでした。一人の命の話がアートセンターの中で、展覧会をきっかけに、ひとつの作品を通じて3人の間に起きてしまったなんて……。

しかし、Fさんの口からそうした言葉が出てきたのも、僕たちがFさんの命に触れてしまう事も、もしかしたらアートセンターの中だからこそ、展覧会がきっかけとなったからこそ、作品を介したからこそ生まれた状況かもしれないとも思うのです。

例えば病院の診察室で患者と医師という関係であれば戸惑う間もなく何かしらの回答がなされたかもしれません。一方で医学的な知識も対人援助のいろはも知らない僕は、Fさんが「安楽死」について考えることも、「とにかく生きよう」という言葉を飲み込むことも、それはFさんの精一杯の表現として受け止めるしかありませんでした。

それは作品ではなくFさんの表現です。優劣を付け、評価の対象となる美術作品とは異なる次元にあるものです。だからその表現に良いも悪いもなく、ただただその大きな戸惑いを含んだ表現を僕たち3人は眺めるだけだったのです。

Fさんに気持ちを伝えられなかった後悔

本来であれば展覧会終了後すぐに振り返りの原稿を書き、展覧会の記録集を制作する予定でした。しかし、僕はFさんの一言を聞いてしまった後で、この展示をアートという分野の中で消化することにどうしても戸惑いがありました。だからずっとテキストを書きだすことができませんでした。

Fさんの言葉に偽りなく応えることができるのか、いやそんなことを気にするのはただの思い上がりなのか、いくら考えても答えが出ません。そして記録集が完成していないことが、いつもどこか心に引っ掛かりながら過ごしているなかで、自分の身体にも大きな変化が訪れます。

それは2019年11月29日に右足を切断したことです。ここで詳述はしませんが、12歳の時に骨肉腫の治療に伴い右足に入れていた人工関節が感染症を起こしたことが原因でした。医師からの提案もあり、今後のために切断して義足を付けることにしたのです。

手術を終えて退院し、夜中に自室で本を読んでいた時にふと今なら展覧会の記録集のテキストが書ける気がしました。当時Fさんが書いていたブログの中でこの展覧会について触れてくれていたのを思い出したので検索してみると、そのブログの更新が止まっていた代わりにその後入院された病院でご友人と往復書簡をされているという記事を見つけました。そしてその最新の記事で、Fさんが亡くなったことが綴られていました。

Fさんに記録集を読んでもらうことは叶わなかった、間に合わなかったという後悔が頭を駆け巡り、オロオロと涙が出てきました。僕とFさんとは長い時間を共にしていたわけではありませんし、Fさんにとって僕らの展覧会がそれほど思い出があるものかもわかりません。

だからこの時流した涙や後悔は、ただの思い上がりなのかもしれません。でも、「安楽死」を考えている人の口から「とにかく生きよう」とつぶやかせてしまったこと、それを受け取ってしまったこと、それがアートに携わる中で起きたこと。

それは自分の中のアートに対する価値観を変えていくには十分過ぎる出来事であり、記録集のテキストにしろ別の形にしろその気持ちをFさんに伝えることができなったことが悔しかったんだと思います。

逡巡し続けるためのアート

この一連の出来事が起こっていた展覧会で僕がコンセプトとして掲げていたことは、アートとは美術の制度の中だけでなく、人が生きるために必要な様々な事象のなかに存在するものではないか、そしてアートとはあらゆる矛盾の中でも切実に思考するための技術となるのではないかということでした。そのような想いが「逡巡のための風景」という展覧会タイトルに込められています。

図らずもFさんとの出会いを通してこの展覧会で逡巡し続けてしまったのは僕自身だったように思っています。しかし、Fさんの命に触れてしまった経験や自分が右足切断という状況と安心して向き合うことができたのは、まさに答えが出にくい状況の中でも切実に思考を続けることができたからでした。幼少期から触れることができたアートという存在が、安心して逡巡するためのヒントを与えてくれたのです。

このような経験はあくまで個人的なものであり、アートの歴史を前に対置させるには心もとない気もするのですが、それでもやはり自分がアートに携わり続ける指針はこうした実感を伴った経験に置かずにはいられなくなってしまいました。同時に、個々人の心身に影響を与えることを意識していたアートの実践もあることを歴史から学んでいます。

ここでいう個人的なものとは、つまりは「安楽死」や右足の切断という出来事は医療と呼ばれる分野の話でもありますし、そうした状況下を生きていく人を取り巻く福祉の領域のことでもあります。こうして僕のなかでは福祉もアートも一体のものとして捉える手がかりは得たのですが、それを言語化したり、展覧会をキュレーションしてみてもまだしっくりこないのも正直なところ。そうやって試してみては修正や反省を繰り返し、粘り強く考え続けなくてはいけないことなんだと思います。なぜならそれは人の命に触れてしまうことだから。

これはそんな逡巡の只中にいる僕がアートを「よりよく生きるための術」として考えていくための随想集であり、一人で抱えきれるか分からない問いを読者の皆さんへひらいていく試みでもあります。


「逡巡のための風景」展の様子(京都芸術センター、2019年、撮影:前谷開)
「逡巡のための風景」展の様子(京都芸術センター、2019年、撮影:前谷開)
京都芸術センターの庭に設置されたイシワタマリさんの作品の一部。「アートだろうがなかろうが、とにかく生きよう」と描かれた看板。