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【写真】高い岩場の上から眺め。澄んだ海の景色が広がっている【写真】高い岩場の上から眺め。澄んだ海の景色が広がっている

「もしおじいさんに復讐ができるのなら」沖縄にきて思わぬ形で出会ったもの そのときの私が語りたいこと、誰かと考えたいこと。なみちえさん×下地ローレンス吉孝さん 往復書簡 vol.6

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人の複雑さや多面性、そして流動性を、私たちはどうすれば尊重できるのだろうか?

以前、そんな問いをもとに、アーティストのなみちえさんと社会学・国際社会学を専門とする下地ローレンス吉孝さんに対談いただいた。その対談をきっかけに実現した、おふたりによる往復書簡連載。

前回なみちえさんからの便りには「この往復書簡はローレンスさんにとってどんな経験になったでしょうか?」と記されていました。今回は2024年12月に届いた、下地ローレンス吉孝さんからのお便りです。(こここ編集部 垣花)


またまた素敵なお手紙をありがとうございます!!

前回の手紙は、「本当お金がなくて苦しい……食べ物がない……!」という悲痛さもあって手紙を書いていたこともあり、なみちえさんのガーナでの経験が、めちゃくちゃ衝撃として印象に残りました。「金を掘り起こさずにその恵みの土地の上で裸足で踊る。それがどんなに豊かなことか」という一文も本当にインパクトがデカくて。

自分の脳みそにダウンロードされた「植民地至上主義以降の世界の物差し」で、「豊かさ」「貧困」を考えていた私の価値観を発見した瞬間になりました。資本主義によって形作られた価値、それを知りながら掘り起こさずに、その上で裸足で踊ることの豊かさ。

私が苦しんでいるのは、「貧困」が原因なのではなく、資本主義が生み出した終わりのない競争社会という地獄なのかもしれない。

食事が一番困らなかったという話も、自分の中に埋め込まれた価値観を180度見直すような、そんな感覚で手紙を読みました。

「ルーツであるはずなのに知らない」という場所から始めた旅

私はいま、アメリカから引っ越し、2024年8月末から沖縄に住んでいます。元々の研究目的が、沖縄について調べること、沖縄の「ハーフ」や「ミックス」について調べることだったのです。

そして母の生まれた土地である沖縄。

私は自分自身のルーツであるアメリカについてもほとんど知らなかったのですが、もう一つのルーツである沖縄についてもほとんど知りませんでした。

知っているのは、テレビでみる美しい海と空の光景。

母からたまに聞く、「あぎじゃびよー」「ちびらーしい(※1)」といった沖縄のことばたち。

東京のデパ地下の沖縄物産展で食べたそば(沖縄そば)。

お母さんが作る、私が好きじゃなかった、卵とゴーヤーだけのチャンプルー。

たったそれだけ。たったそれだけが、私にとっての「沖縄」でした。

私をわずかに繋ぎ止めていたこれらの経験。その意味を理解しようとする日々が、新しく生活が始まった沖縄で始まろうとしているところです。

なぜ母の言葉を、子どもである私は理解できなかったのか。
なぜ祖母や母は沖縄を後にして、もう戻ろうとしないのか。
母はなぜ、「日本」のことを、「内地」といっていたのか。
なぜ祖父は、おばあちゃんとお母さんを置いて米国に戻ったのか。
なぜ戦後の米軍人の悲劇が今もまだ続いているのか。
なぜ私の中で続く戦争は終わらないのか。

もちろん、植民地化された脳みその部位を引き剥がすように思考をつなぎながらこういった疑問を少しずつ消化していくだけではなく、ポークたまごのおにぎりや沖縄そばなど、おいしいものも食べながら、少しずつ消化していく日々が続いています。

【写真】じゅーしーがテーブルに並んでいる。一パック2個入りで、213円。

おそらく引越しのストレスで全身蕁麻疹になったり、アメリカから日本に帰ってきた立ち居振る舞いや文化的側面のギャップがすごかったり、車の単独事故を起こしたり、社会調査の講師を始めたり……。沖縄に来てまだ3ヶ月ぐらいしか経っていないのにいろんなことが目一杯起こりすぎて手一杯になり(加齢により言葉遊びも加速)、手紙に書きたいことがたくさんありすぎる中で、なみちえさんが自分のルーツのことを手紙で書いてくれていて、わたしも今回沖縄に来て思わぬ形で自分の「祖父」に向き合うことになりまして、その話を書きたいと思います。

※1:沖縄の言葉(うちなーぐち)に「ちびらーさん」(=素晴らしい)という言葉がありますが、母は「ちびらーさん」と「素晴らしい」を混ぜて使っていたようです。

クラレンス、ハート、ローレンス

沖縄にきてから、以前からFacebookでつながりがあった、私の母と同じように沖縄の母と米軍族の父との間に生まれた宮城さん(仮名)と初めて出会ってお話しする機会がありました。

そこで、宮城さんといろいろお話しをしていると、数年前、DNA検査によって、それまで全く知らなかった自分の父親について人生で初めて知ることができ、親族ともコンタクトをとることができた、という体験を聞きました。DNAのデータバンクを保有するアメリカの会社に唾液を採取したキットを送り、自分のDNAと近似する人物を大量のデータの中から探り当てたということでした。

そして、この父親探しを手伝っていたのが、沖縄に暮らす米国人と沖縄人の夫妻でした。この夫妻は、私たちのように親を知らないミックスルーツの人々のために、キットや情報サイトを通じて親や親族を探すというプロジェクトを、数年にわたって個人的にボランティアで行ってきたそうです。

宮城さんから、「下地さんもこの夫妻に会ってみませんか?」ということで、二つ返事でこの夫妻の家にお邪魔することになりました。

街頭の少ない小道をギリギリの感じで運転しながら家に辿りつくと、遅刻した私を咎めることもなく、挨拶を交わした後すぐに、「おじいさんの名前を教えてね」と部屋のパソコンの前まで案内してくれました。

クラレンス、ハート、ローレンス……

私の祖父のフルネームを情報サイトにいれると、すぐに該当する人物のページに辿りつきました。私は祖父のフルネームが書かれた写真があったことでそれを知ることができたラッキーなほうで、私のような米軍関係のミックスルーツの人々の中には、祖父の名前も知らない、知っていてもニックネームしか知らない人もいます。私も祖父の名前が「クラレンス」なのに、祖母が使っていたニックネームの「クランチ」としてずっと認識してきました。

クラレンスの情報ページには、生まれた場所、ケンタッキー、亡くなった場所、オハイオと書かれていて、確かにおじいちゃんだとわかりました。

そこまでは、母と祖父、米国の親戚との手紙のやり取りで私も知っていた情報だったので、そうかそうかとみていたのですが、驚いたのはそこからでした。

このDNAによるデータバンクは、クラレンス本人だけではなく、その親の名前、きょうだいの名前が全て載っていました。そして、クラレンスの父親と母親の名前をクリックするとまたその情報ページに飛ぶことができました。

戸籍のようなものがないアメリカでもこうやって自分の先祖をたどれるのだなと感心していると、夫妻はさらなる情報を矢継ぎ早に調べ始めてくれました。

クラレンスには、生後すぐに脱水症状でなくなった兄がいたこと。クラレンスの父親のケニー・ダドリー・ローレンスは地元で有名なケータリング業(イベントなどで食事を用意する仕事)を営んでいたこと。私のおばあちゃんが妊娠したことがわかって、母が生まれる前に米国に帰ったクラレンスが、その一年後に米国で新しい妻と結婚していること。

そしてさらに驚いたのが、それからさらに何代も上の世代まで名前や生年月日などの情報がこのデータバンクに記録されていたことです。

クラレンス

ケニー

フォレスト

ウィリアム

ハリー

ウィリアム

「待って。このウィリアム・ローレンスって私の曽曽曽……祖父!? 曽が何個必要?」と頭が追いつかなくて混乱するほどの情報が出てきました(調べると、曽祖父母の上は曽が何個も出るわけではなく、高祖父母というそうで、その上は「(数字で)○代前の先祖」などと言うそうです。そんなの普段の生活で使わないから知らないよね(笑)。これも自分版、マサラタウンに戻ってきた感じなのかなって(笑)。

ウィリアム・ローレンスは1823年にケンタッキーで生まれていて、その上の世代がどうやらイギリスあたりから米国に渡ってきたのではないか、ということを聞きました。

クラレンスが生まれるまで5代にもわたってケンタッキーに暮らしていた白人だったので、おそらく、母の存在は「アジア人であることでコミュニティでは忌避感があったのではないだろうか」、「君の母親はこの当時のアメリカの白人どっぷりのコミュニティに行くよりは日本にいた方が良かったのではないだろうか」というお話も聞きました。

DNAのデータバンクすげぇ……

検査に若干懐疑的だった私も、まさか思わぬ形で、自分の先祖について知ることになることは思いもしませんでした。なみちえさんの名前の由来の話をちょうど手紙で読んだ後すぐの出来事だったこともあり、同じように私の名前になっているローレンス一族をこんなに遡って知ることになるなんて、なんだかほんとに不思議だなと思ったりしています。今回は夫妻が検索するまま祖母の父方のルーツをたどっていきましたが、今度は母方のルーツも調べてもらいたいと思っています。

やさしい復讐

そんな「DNAのデータバンクすげぇ……」と思っていた私ですが、どうしても気になったことがありました。

亡くなった人も含めて、クラレンスの親も、子どもも「全て」名前が記録されているのですが、その中に母の名前がなかったことです。

何世代前かもわからなくなるぐらい先の人間の名前まで記録されているのに、自分の最初の子どもの名前がのっていない。沖縄で、結婚しないまま生まれた、私の母の名前が記録されていなかったのです。

ちょっと余談になっちゃうのですが、なみちえさんに私の祖父と母親の話を少しだけしたくて書きますね。

私の祖父は、子どもが生まれる前に(理由はわからないのですが米軍を辞めて)米国に帰って、その一年後に結婚しています。でも、母親と祖母とは、ずっと手紙のやり取りをしていました。

そんなあるとき、母がある程度大人になりつつあった頃、祖父から「アメリカに来ないか」という手紙がきました。おそらく、戦後の極東アジアで戦地となった島で厳しい生活をおくっていると思ったのだと思います。母がその手紙を受け取った後すぐに、彼の妻から別の手紙が母親の元に届きました。その中にはこんなことが書かれていたそうです。

「あなたの父である私の夫は、あなたをアメリカに呼ぶためにまとまったお金をつくろうとして競馬(ギャンブル)に手を出している。でも私たちにあなたを呼び寄せる余裕はないし、こちらも子どもたちを育てるために手一杯だ。こんな夫の馬鹿げた行動をやめさせるために、あなたから夫に『アメリカに行きたくない』と言ってくれ」

この手紙を読んだ私の母は、「私はお金のために父親に会いたいんじゃない!」とすごく反発する気持ちになり、その後手紙のやり取りができなくなってしまったそうです。そうこうしているうちに、1995年に祖父は亡くなりました。「そうこう」が長すぎたのか、今何を言ってもどうにもなりませんが、結局母は生まれて一度も父親に出会うことはできませんでした。

養育費なんてもちろん払っていない。競馬だって母を理由に楽しんでいただけかもしれない。でも、本当に自分の娘に会いたかったのかもしれない。

本当に何を思っていたのかはわかりません。

もし本当に自分の子どもに会いたかったのであれば……。

膨大なデータが網羅されているはずのDNAデータバンクの家系図に自分の「子ども」が記録されていないのであれば、どう思っただろうか。

私にとっては、母親の存在がデータから消されているのがどうしてもなんだか悔しくて。もし私がDNAの検査をしたら、孫としての記録がつくんじゃないか。そしたら母の名前が記録されるんじゃないかと思ったんです。

そしたら、おじいちゃんにたいして復讐ができるんじゃないかって。

戦後の荒廃した沖縄社会に、地縁や血縁の強いコミュニティの中に、祖母と母の二人を残して帰ったんだよね。なにもしなかった。なにも残してくれなかった。残してくれたのは、たくさんの疑問だけだった、そのおじいちゃんに対して。もし本当に自分の娘に会いたかったんだったら。そのおじいちゃんに対して、私ができうる復讐は、母の記録を残すことなんじゃないのかって思ったんです。

そういう考えに至った時、車の運転中だったのですが、今までほんとに無味乾燥だった私と私の祖父との関係性(祖父に対してこれといった実感的な感情を抱いたことがなかった)が、初めて、少しだけ潤ったような気がしました。

その時が、人生で初めておじいちゃんのために涙を流した瞬間になりました。もう人生38年も経ってるのにバカみたい。

植民地化された脳みそで考えられる復讐がこれだったら、やっぱりまだ生やさしい気もしていて。私の「終わらない戦後」の中で、「ローレンス」と戸籍につけたこの名前をもって、孫なりにできる仕返しをしていけたらと思っています。

その仕返しの第一歩は、おばあちゃんにインタビューすることかな、と今考えています。

これで往復書簡が一旦終わってしまうのが、すごくさびしいなと思います。

この後、それぞれ最後に一本ずつ寄稿をしてまとめという形になるそうです。

いろんなことを体験するたびに、「あ、これ手紙に書かなくちゃ」と思ったりしながら過ごした数年でした。本当めっちゃさびしいなと思います(大事なことは二度言うスタイル)。また、たまにメッセージでやりとりさせていただけたら嬉しいです!

この間に、世界ではいろいろなことが変化し、大規模な虐殺と占領が終わらずに続き、大量のニュースが加速する毎日のなかに、友人や知人の死が重なる中で、ほとんど動けないような日々が多くなっていった私にとって、生き抜く活力をもらえる一つの場にこのお手紙のやりとりがなっていて、本当に有り難かったです。なみちえさんから見える世界のお話を私も聞くことで、たびたび世界が新しく広がっていく不思議な体験を何度もできました。と同時に、自分自身の感覚や思考にも改めて向き合えました。じっくりと、相手の話に耳を傾けてみる、自分の考えを言葉にだしてみる、明らかに少なくなってきていた人生のこういった貴重な経験をこの手紙のやりとりで体験させてもらったと感じています。なみちえさんからの質問にお答えする形で、この往復書簡は私にとって、間違いなく大切な人生の時間をくれた経験でした。

今はまだ開封していないで机にしまってあるDNAキットの話の続きは、また最後の文章に書きたいと思います!

【写真】DNAキット。未開封の状態で机に置いてある

この連載がはじまるきっかけとなった対談記事はこちら


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