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【イラスト】楕円形の球体から伸びる手がさまざまな生き物たちを同じ形に揃えようとしている【イラスト】楕円形の球体から伸びる手がさまざまな生き物たちを同じ形に揃えようとしている

“わたし”と“あなた”それぞれの複雑さを大切にするには?──なみちえさん×下地ローレンス吉孝さんと共に考える こここインタビュー vol.15

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自分自身のことについて誰かに話すとき、立場や属性、趣味嗜好を伝わりやすいように類型化して、タグ付けするかのように語った経験のある人はきっと多いだろう。「東京出身・AB型・ミックス・アニメ好き」です、とか、「Z世代・they/them・公務員・喫煙者」です、というように。

あるいは、自分ではそういう語り方をしていなくても、いつの間にか他者の手によって、自分がある種のタイプにカテゴライズされていると気づくこともある。あなたは「長男」なんですねとか、「日本人」なんですね、と。その手つきはときに大づかみだったり、誤った見解に基づいていることもある。貼られたラベルはなかなか強力で、それ越しに“わたし”や“あなた”を見ようとしている人もいるようだ。

実際には、“わたし”や“あなた”を構成するものは当然、それだけではない。もちろん、そのラベルを引き受けて何かを語ったり、抑圧や不平等を訴えたり、胸を張ったりしたくなることもあるけれど、自分の構成要素がそのひとつ“だけ”ではないことは確かだ。そんな、人の複雑さや多面性、そして流動性を、私たちはどうすれば尊重することができるのだろうか?

アーティストのなみちえさんと『「ハーフ」ってなんだろう?――あなたと考えたいイメージと現実』(平凡社)の著者である下地ローレンス吉孝さんのお二人に、今回、そんな問いをめぐって対談いただいた。なみちえさんの妹であるまなさんと一緒に製作した楽曲『Can’t Stop Lovin’ U』の背景からはじまり、お二方の表現/研究の軸にあるものについて、さらにはセクシュアリティや人種のグラデーションについて──と、さまざまな方向にじっくりと話題は変化していった。

“バグらせる”ことでメッセージを伝えていく

下地ローレンス吉孝さん(以下、下地):以前から、一ファンとしていつかなみちえさんとお話しできることがあれば、と思っていました。以前、自分が参加したスナック社会科「移民の歌、地元の歌」というイベントで、登壇者の方がなみちえさんの『おまえをにがす』の動画を映す機会があったんですが、実はそのイベントにはなみちえさんも参加していて、動画の後に短い尺のなかですごい情報量のお話をされていたのを鮮烈に覚えていたんです。

その時、言語の二重構造についての話とか、なみちえさんのラップの背景についての説明をされていて、そういった話が聞けることが自分の人生的にすごく新鮮だったんですよね。ラップはもともと好きで、それからグローバルシャイをフォローしたり、なみちえさんのCDも購入したりして。

なみちえさん(以下、なみちえ):そうやって追ってもらっていたとは! うれしいです。

下地:なので、お話ししたいことはいろいろあるんですが、個人的に新曲についてもお聞きしたいなと。『Can’t Stop Lovin’ U』、めちゃくちゃよかったです。

『Can’t Stop Lovin’ U』のMV

なみちえ:『Can’t Stop Lovin’ U』はドゥー・ワップの曲なんですけど、ドゥー・ワップってもともと黒人奴隷の労働歌が原点にあって、ロックとかカントリーとか、いろんなジャンルのルーツのひとつにもなってる音楽なんですよね。配信したとき、私は最強の曲ができたと思ったんですけど、いまの若い人ってドゥー・ワップを知らない人も多いから、「なんだこれ?」って感じでわりと反応が薄くて。

でも、私のおばあちゃんとか、高齢の人たちにはヒットした感じがするんです。戦争を経験している世代ってこともあってか、おばあちゃんには前に「強い言葉、強いメッセージより、とにかく楽しくなるような音楽が聴きたい」とも言われたことがあって。だからこそ『Can’t Stop Lovin’ U』のシンプルさは刺さったのかもと思います。

下地:メッセージはたしかにすごくシンプルですよね。曲のなかで、「もう普通」って歌っているところがあったり。

なみちえ:そうなんですよ。 “普通”にいい曲をつくろう、みたいな感じで。私は小さいころから家にドゥー・ワップのCDがあったから、ジャンルとしてドゥー・ワップって本当にかっこいいってずっと思ってたんです。いずれは山下達郎みたいにドゥー・ワップだけを集めたアルバムをつくりたいんですけど、『Can’t Stop Lovin’ U』はその第1弾ってイメージですね。

でも、この曲はめちゃめちゃシンプルなドゥー・ワップではあるんだけど、ドゥー・ワップの文脈から逸れたことをやっているところもけっこうあるんです。音がぜんぶ打ち込みで生楽器がひとつも入ってないところとか、すごく長い語りのあとに急にサビがくるところとか。妹と私が髭をつけて、男性っぽくしてるところもそうだし。ラッツ&スターみたいに日本語でドゥー・ワップをやるのもおもしろいなと思っていて。

下地:あの語り、イヤホンで聴いてると「どうしたんだろう?」と一瞬頭が混乱する感じがあって、すごくよかったです。「多内論(all night long)」とか「甘々論理(I am lonely)」みたいにダブルミーニングになっている歌詞もおもしろくて。

なみちえ:ありがとうございます。私はたぶん、曲をつくりたいっていうよりも、自分が考えたダブルミーニングとか自分が持っている視点を、曲というかたちで保存したいって気持ちでやってるんですよね。だから自分の本質ってラッパーじゃないなって最近気づいて。この曲を配信したあと、いままでApple Musicでダウンロードした曲をすべて消して一旦まっさらにしたんです。その上で自分が本当に聴きたい曲をつくりたい、流行りじゃないことをしたいと思って。そういうふうに気持ちが変わった部分があったなって、いま話してて気づきました。

下地:なみちえさんの曲って、『おまえをにがす』とか『あ1』もそうですけど、脳が目で追っている文字と耳から入ってくる言葉が違ったり、ヘッドフォンの左右に音が振り分けられたりすることで、ライミングも相まって、聴いていて頭がバグる感じがありますよね。でも、その“バグ”でメッセージを伝えていくっていうのがすごくおもしろいなと思います。

『おまえをにがす』のMV

生きていると、他人に対応して複数の人格が出てくるのかも

【イラスト】環境にとって、さまざまな形になっている一人の人間

下地:歌詞の言語が複数の層になっているのもそうですが、なみちえさん自身にも人格が複数あるというお話しをされていて、その点も個人的に興味深くて、お聞きできたらと思っています。

乙女のパフェとマツエクと、もう戻れない世界と。」という記事を以前書かれていましたよね? あれ、構造批判をしている人格が文章の途中で入ってくるのがすごくおもしろかったです。なみちえさんというひとりの人物のなかで何人かのキャラクターが文章を書いているみたいな文体で、ああいうのははじめて読みました。

なみちえ:2年くらい前の文章ですよね、懐かしい。……あの、これ本当に余談なんですけどいいですか? 私、すこし前に沖縄に行って、お兄ちゃんの知り合いのユタさん(民間の霊媒師)に見てもらったんですよ。奥間毅さんという方で現在はノロ(神事や祭事を執り行う立場)なんですけど。最近ずっと疲れてて肩が重い感じがしてた事を相談したんですけど、そこでノロに「なみちえさんに憧れているけど、自信がなくて、喋ってみたいという気持ちを口に出せない人がたくさんいる。その人たちの思いが体に乗って沖縄まで来てしまってるよ」って言われて。

下地:えっ……私だったらどうしよう……(笑)。

なみちえ:(笑)。でも、その体験を経て不思議とすっきりしたんですよね。それと関係があるのかわからないけど、最近、人格の断捨離をしてるような気分なんです。いままでは自分のなかで、常に人格のチャンネルを切り替えながら生きているような感覚があったんですけど、最近は一人ひとりの人格のタームを長くして、ひとつの人格に濃い人生を与えたいという気持ちになってきて。

いまこうやって話している人格がいちばん大切にしたいものって「生活」なんです。大学を出てからずっと仕事が忙しくて、いままでほとんど心を休める時間がなかったんですけど。最近は芸術家っていう自分のアイデンティティを抜きにしたところにある本質的な部分についてもちゃんと考えたいし、そのための時間をとりたいなと思ってます。……ごめんなさい、なんか近況報告みたいになっちゃったけど(笑)、そういう心意気でいまやっているって伝えたくて。

下地:やっぱりコロナ禍の影響もありましたか? あまり外に出られない状況が丸2年くらい続いたことが、休みだったり自分自身についても考えるきっかけになったりしたんですかね。

なみちえ:そうですね。コロナ禍が続いたことで、自分は内向的な人間だってあらためてわかったし、自分は本質的に芸術家だからこそ、「芸術家になる」のを夢として追いかける必要はないってことにも気づかされました。

じゃあ自分は何がしたいんだろう? ってあらためて考えてみたときに、最初に思い浮かんだのが「家の掃除」だったんですよ。自分の尖った部分を見つめてみると、それと相反する“普通”な部分が現れることもあるって気づいたのは、やっぱりコロナ禍の影響もあったと思います。人格に関しても、人に見せたい自分とかちょっと格好つけてる自分とか、いろんな人格があったけど、ここ数年はそういうふうに、「本当はどうしたいんだろう?」っていうのをちゃんと見つめようと思ってやってますね。

下地:人格の話でいうと、自分はいま表面に出ている自分の人格があまり好きになれないって気持ちが大きいんです。表面に出ている自分はおとなしい感じでまとまっていて、内側の激しい感情がアウトプットとして出にくいから息苦しさを感じることもあるんですけど、だからこそ激しい言葉を叫んでくれるラップが好きなのかもしれないなと……。博士論文を書いてるときはずっとニッキー・ミナージュを聴いてたんですけど、すごく気持ちが楽になる感じがしたんですよね。そういえば、ニッキー・ミナージュも人格がいろいろあるって話を以前していました。

でも、ラッパーに限らず、生きていると他人に対応していろんな人格が出てくるのかもしれないですよね。けっこうみんな、そういうふうになんとなくやり過ごしてきてるのかもしれない。

なみちえ:うん、それはたしかに。

現実を伝えること、流動的であり続けること

下地:前になみちえさんがインタビューでおっしゃっていた、「音楽には社会的情勢から目を背けさせる音楽と、直視させる音楽のふたつがある」「アート表現は現実を見せるもので、資本主義的音楽は夢を見せるもの」という言葉がすごく印象に残ってるんです。納得したし、めちゃめちゃパンチラインだなって。

なみちえ:資本主義的な音楽をやってるアーティストももちろんいっぱいいて、私は自分の音楽をつくる上でそういうアーティストとのスタンスの違いに気づいたからこそ、逆にきちんと対話できるようになったとも思います。「あなたはそういうスタンスで魂売ってやってるんだね、私はこのスタンスで魂を売ってるよ」みたいな。私は私のかたちで、芸術に音をつけてるって感じです。

下地:自分は社会学を研究していますが、「こういう思想が大事です」ということを伝えるよりも、「こういう人が実際に生活しています」とジャーナリスト的な姿勢で自分が見聞きしたものを伝える部分も大切にしてるんですね。もちろん芸術と社会学では方向性もアウトプットも全然違うとは思うんですけど、「現実を伝える」というなみちえさんのスタンスには自分も共感しますし、伝えたいことを常に表現の軸に据えられているのがすごくいいなと思います。

なみちえ:アウトプットがどんなかたちになろうと、結局私のつくってるものってどれも平等に本質に近いと思っていて、自分は自分のタイアップをしてるだけなんです。だから、誰かのためになるのは当たり前だけど、それ以前に自分のためになってるのも当たり前って考えでずっとやり続けます。これからも知名度が上がっていくと、もっとこういうのが見たいとか、こういう曲をつくってほしいってリスナーから言われるかもしれないけど、自分が思ったことを自分の思ったタイミングでやるのが一番大事だと思っているし、それ自体、なみちえっていう着ぐるみがやってることだってスタンスはずっと変わらないです。

下地:そうか……着ぐるみの話、すごくストンと腑に落ちました。

なみちえ:なんか、音楽って目に見えないしかたちがないけど、私は目に見えるもの、かたちのあるものもすごく好きなんですよ。着ぐるみってめちゃくちゃ目に見えるし、触れたらふわふわだったりして、そこにちゃんと現実として存在してるじゃないですか。自分の精神世界のなかのことを自分のつくった言語形態で表現するのも好きだし、地に足つけて着ぐるみをつくるのも同じくらい好き。いまはたまたま言語表現でバズったり評価を受けたりしたからそっちにも柔軟に対応してるけど、私はあくまで芸術家だし、本質はまた違ったところにあるけどね、って感覚ですね。

このスタンスをリスナーの人に伝えるのってなかなか難しいと感じるけど、あと10回、100回と言い続けていったらいつかわかってもらえるんじゃないかとも思います。結局、人生ってぜんぶ途中経過だなって。「いま私はこういうスタンスです」ってことに過ぎなくて、終わりがないんですよね。「あなたはずっとそういうスタンスなんですね」って決めるのは思考の逃げ道だなって最近気づきました。だから、私がするべき表現は、流動的なものをずっとやり続けることだなって思ってます。

私たちが流動してるというより、社会のほうがカチカチすぎる

なみちえ:流動的ってことでいえば、ここ数年、「顔のかたちがパパに似てきたな」とかまた数ヶ月経つと「いや、ママに似てきたかも」って感じる事を楽しんでいます。でもそれもどっちでもいいっていうか、別に日によって自分のもつダブルアイデンティティ性である人種も違っていいんじゃないか? って思ったりもして。

細分化されたセクシュアリティにスポットが当たることも増えてきたけど、性自認とか性的指向にもグラデーションがあるし、気分や日によっても変わりうるから、同じように人種や自分のアイデンティティも流動的でもいいんじゃないかなって。「今日はちょっとアフリカ人出てるかも」みたいなことも感じたりするし……そう考えていくと、次に私がやらなくちゃいけないのはアフリカンビートだな。

下地:人種の流動性については、いまお聞きして新鮮に感じました。社会学だと、「人種」って、社会的に構築されたものだといいながら、議論の中では「日本人は日本人」「移民は移民」のようにそれぞれの存在やグループが固定化されて考えられがちな部分もあると思うんです。でもたしかにインタビューとかで他の人の話を聞いてみると、こういうときは「外国人」の部分を出して対応するとか、こういうときは「日本人」っぽい部分で対応する、みたいなことってありますよね。たしかに自分も、人種に関してはそういうふうに考えてきたところもあるかもしれません。

性自認や性的指向の流動性についてもそうですよね。なみちえさんが『Can’t Stop Lovin’ U』のMVのなかでされているファッションとか、曲のなかで当たり前に「タマキン」って言えるのもすごくいいなと思います。

なみちえ:私がもし仮に、性自認や人種を完全に固定して自分を完璧に形づくっているようなタイプだったら、絶対「タマキン」とか言ってないと思うんです。流動性からなる自己破壊や矛盾を潜在的に承認しているのだと思います。
じゃないとドゥー・ワップであんなにがっつり髭もつけないし、Earth, Wind & FireのMVみたいなエフェクトでお兄ちゃんをMVのなかに登場させない(笑)。

下地:お兄さんを(笑)。……自分も、ずっと「男」としてやってきたんですけど、自分が男性であるのがすごく嫌になって、自分の中の男性性を否定したくなるときがあります。もともとは自分が書く文章のなかの一人称は「僕」にしてたんですけど、最近は「私」を使うほうがしっくりくる感じもするんですよね。いまは「僕」とスイッチしながら使ってるからごちゃ混ぜなんだけど、とりあえずそうやってブレている部分も含めてそのままでいいかなって。

「日本人か外国人か」「男か女か」という二項対立的な理解の仕方が自分にはどうしてもフィットしない部分があって、もしかするとそういうところもなみちえさんに共感する背景になっているのかもしれないって思います。どちらかの状態を常に求められている社会だから、そうじゃないことが許容される表現や空間があると、やっと息ができる感じがするんですよね。

なみちえ:ほんとその通りだと思います。私は、きょうだい3人でいるとなんとなく人格が固定されない感じがするから、3人で人格をごちゃごちゃにする遊びみたいな感覚で『Can’t Stop Lovin’ U』のMVをつくったんですよね。

MVに関してもうすこし言うと、批判的に紹介されることが多いブラックフェイス(黒塗り)の文脈を私が勉強していく中で興味を持ったのもあって。

MVや曲では、ドゥー・ワップのルーツであるアフリカ系アメリカ人へのリスペクトでもあるし、私のお父さんの出身がガーナなんですけど、ガーナ人がかつて奴隷としてアメリカに多く連れ出された歴史的な文脈を踏まえたかったっていうのもあるんです。私のアウトプットのこれってどう思いますか? みたいな提示方法は『おまえをにがす』のMVと同じくらいのスレスレ感を出したかったんですよね。

下地:なるほど。自分のなかで、深いところまでわかっていなかった部分もありました。

なみちえ:実際にやってみたら、「やっぱ私、髭似合うんだな」って思いました(笑)。でも別に、かわいくしたいときはかわいくするし、つけまつげをつけたくなったらつけるし、みたいな感じですよね。そういうふうに流動すること自体が私にとっては“普通”っていうか。たまにタマキンって言ったり髭とかもつけたり、着ぐるみ作ったり、時に女の子だったりっていうスタンスがいまはいちばんしっくりきてますね。

というか、私たちがめちゃくちゃ流動しているというより、社会が強靭に固定しようとしているだけなんじゃないかって思います。よく考えてみたら、髭もただ単に生えてなかったからつけてみたってだけかもしれない。こっちが流動してるんじゃなくて、社会のほうがカタすぎる。

下地:いや、本当にそうですね。社会がカチカチすぎるんですよね。たぶん、そっちに合わせたほうが生きやすいっていうイメージで架空の“普通”がつくられてるんでしょうけど、実際にはカチカチのほうがしんどいことも多いんじゃないかなって感じます。

ジェンダーの流動性みたいな話をすると、「そういう新しい人たちがいるんですね」って感じのテンションで紹介されたりすることもあるけれど、いやいや、そういうことってこれまでにもあったし、これからもあるし。それがその人の“普通”だったりもする、というだけですよね。

前編では、アイデンティティの多層性や流動性を中心に対話が進んでいった。他方で、マイノリティや特定の属性の人々に降りかかりやすい差別や偏見、抑圧について考える際は、その属性や立場を固定化して議論することによってはじめて問題が顕在化したり、必要なケアやサポートが明確になることもある。

後編では、そのような固定化/類型化の意義も含め、複雑さや多様さを持った“わたし”や“あなた”について、さらに話題が広がっていく。


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連載:こここインタビュー