福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】フードパントリーでもらった食品たち、パンやにんじん、バナナなどが袋に入っている【写真】フードパントリーでもらった食品たち、パンやにんじん、バナナなどが袋に入っている

カリフォルニアに住んで半年が経ち そのときの私が語りたいこと、誰かと考えたいこと。なみちえさん×下地ローレンス吉孝さん 往復書簡 vol.04

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人の複雑さや多面性、そして流動性を、私たちはどうすれば尊重できるのだろうか?

以前、そんな問いをもとに、アーティストのなみちえさんと社会学・国際社会学を専門とする下地ローレンス吉孝さんに対談いただいた。その対談をきっかけに実現した、おふたりによる往復書簡連載。

前回なみちえさんからの便りには「外国に滞在することで、宗教など文化の違いをどのように感じましたか?」という問いが記されていました。今回は下地さんからのお便りをお届けします。(こここ編集部 垣花)


なみちえさん、お返事ありがとうございます!

また、私の方も間があいてしまった……申し訳ありません。

エジプトでの体験についてもありがとうございます。

豪華絢爛な天井絵やシャンデリア構造のなか素敵な佇まいをされている写真だなと思っていたら、最後の画像下のキャプション「Facebookの靴下」「80円」というパンチラインに面食らった自分がいて、初見では気づかなかったのに、もう足元の青いロゴにしか目がいかなくなった。80円の強さ。

私はエジプトなどの中東地域に行ったことがなく、とても興味深くそれぞれの体験を想像しながら手紙を読みました。

スカーフ一枚で、“ウチ”と“ソト”が分たれる感覚を生身で体験され、それが女性であることや宗教的な背景とが密接に結びつきながら選別されうること、その有様について知ることができました。

日本では、またちがった様々な要素が絡み合う中で、”ウチ”と”ソト”が振り分けられていくのかなと思いました。また同時に、「ソトであること」が厳しいことで、「ウチであること」がより良い環境であるかというと、一概にそうと言えるわけでもないという点も感じました。

映画『マトリックス』の赤いピルと青いピルじゃないけれど、私たちは「どちらか一方であるべきだ」と、いつも選択を迫られる。だから、どちらか一方を選ぶしかない現実。

しかし同時に、それを俯瞰的に見て、そもそも「どちらか一方に選別されることを強要する」その構造に対してこそ、同時に疑問を投げかけて行きたいとも感じました。決して二分法から逃れられないのだとしても。

カリフォルニアに住み始めて半年

さて、なみちえさんから頂いた質問は、「外国に滞在することで、宗教など文化の違いをどのように感じましたか?」でした。

私は、今、アメリカのカリフォルニア州に住み始めてそろそろ半年が経とうとしているところです。コロナの時期にはなかなか社会の中に入っていくことができず、自分で研究を続けているだけのような期間もありましたが、カリフォルニアに来ていろんな変化があり、それがきっかけでより社会の中へ入っていくことになりました。

例えば、乗っていた車のエンジンベルトが切れて高速の出口で故障し、保険会社やレッカー車や修理工場の人々とやりとりしたり……フードパントリーという低所得者向けの無料の食料配布のサービスを利用して生活を支えてもらったり……大学で第二言語としての英語の授業を無料で受講して、先生や他の生徒とディスカッションしたり……カードのフィッシング詐欺にあったり……

この半年でも、メインの研究やイベント以外に、私生活ではけっこういろいろなこと(事件)が起こったなと思いました。

こういった中で、以前よりももっと、「アメリカ」という社会について、その文化の違いについて、知ったり感じたり考えたりするようになりました。

「アメリカ」は、私のルーツの国でもあるのに、すごく遠くて、何もわからない、せいぜいネットフリックスという窓を通してでしか知ったり見たり感じたりすることができない場所でした。もうこの国に滞在できるのは残り半年程度ですが、ようやく、少しだけ知り始めることができたのかなと思います。

アメリカについて感じた様々なことの一つが、「資本主義」です(さらにいえば新自由主義)。

日本はいま、首相を中心に「新しい資本主義」を掲げているように、名目上は資本主義国家とされているかと思います。ここには多かれ少なかれ歴史的にアメリカからの影響力が及んできたかと思います。

アメリカの資本主義、競争主義の社会で驚いたことが、非常に高額な、教育費、保険費(医療費)、食費、家賃です。人間にとって必要不可欠な、セーフティネットの部分でもある住まいや食べ物、そして教育や医療が非常に高額であることが、この国の「成長」を推し進めると同時に、格差を拡大し続けていると実感しました。

しかし、同時に感じたのが、「資本主義だけではない」ということでした。

どういうことかというと、資本主義の暴力にさらされる人々、競争のトラックから振るい落とされる人々に対しても、手が差し伸べられている部分がある、ということです。

例えば、冒頭にも挙げたように、地域のいたるところで貧困層に対して無料の食料配布サービスが行われています。私のように低所得者の移民の立場の人間にたいしても、国籍に関わらず、在留資格に関わらず、誰に対しても、食べ物(缶詰や野菜や肉類など)が無料で配られているということです。

【写真】フードパントリーの棚
フードパントリー。場所によってはかなり良いものが無料でもらえます

また、一部のコミュニティカレッジやユニバーシティでは、無料で大学の授業を受けることができるサービスもあり、大学レベルのとても質が良い授業を私の立場でも無料で受けることができます。これも私のような英語が第一言語ではない移民の立場の人にとってはとてもありがたいシステムです(単位などを取りたければお金がかかりますが……)。

また、大学の学生になることによって、そこに付随する、基礎的な医療サービスや、衣類の提供、雑貨の提供なども無料で受けることができるようになりました。

貧富の差が深刻な社会問題でもある一方で、しかしながら同時に人間一人ひとりの最低限の人権に対しては確保されているというか、文字通り、死ぬことがないようにするための質の良いセーフティネットが張り巡らされていることも体験的に分かりました。

私が現在日本で受給している研究員の資格は、おそらく日本の研究員制度の中ではかなり良い待遇の給与をもらっているかなと思います。しかし、昨今の円安、そして物価の高騰により、アメリカで暮らすのには、とてもやっていけないような金額でもあります(そしてこれが世界の主要都市と日本との経済的格差のリアルな状況だということも分かりました)。

家賃と光熱費を払えばほぼ全ての日本からもらっている月給をほとんど使い切ってしまう状況の中で、100万以上の借金を新たにし、家族にも他にも借金をし、イベントや原稿の追加の給与でも食費が足りず、こういった無料の食料サービスの列に、ホームレス状態の人や私と同様に経済的に厳しい移民の人々に混ざって並んで食べ物を週に何度か受け取り、それでなんとか研究や生活を続けていけている、という状況です。

いくら真新しい研究テーマであっても、いくらアメリカの有名大学に所属することができても、アメリカの水準からすれば最底辺の水準の給与待遇しか与えられない立場で、周りから見れば経済的に苦しい国からやってきた移民の一人にすぎません。失われた30年と呼ばれる時代に、もはや「低成長」ではなく、経済的に衰退していくこの国の状況を、アメリカで生身で感じているような気がしています。

カリフォルニアについてからは、家具を買う余裕もなく、今部屋で使っているベッド、ソファ、テレビ、椅子、ランプ、お皿などは、実は、全部アパートのゴミ捨て場で拾ったものです。こちらでは、みんな捨てるものの中で、まだ使えそうなものは、共同のゴミ箱にいれてしまうのではなく、誰か他の人が拾って再利用できるように、脇に置いておいてくれたりしています。サスティナビリティというか、なんとか他の人も必要な人があれば提供したいという、そしてそれに実際に助けられる人がいるというエコ・システムが機能していました。

【写真】アパート近くのゴミ捨て場。ソファが置いてある
ゴミ箱に何か使えそうなものを発見するのが1日のちょっとした楽しみな日課になっています!

こういったような文化。資本主義のシステムから殺されそうになっている最底辺の人間を、しっかりとそうさせないように守る文化みたいなものの強さを実感しています(これが、例えばキリスト教的な文化的背景とどのように結びついているのかはまだわかりません)。

つまり、資本主義が強いことはつよいが、同時に、人権を守るんだ、という強い文化的な力学も感じることができました。カリフォルニアでは特に、例えば学校の教室や、図書館や学校などの教育機関や医療機関などでは、ところどころに人権に関するポスター、レイシズムに抵抗するメッセージ、そしてレインボーフラッグが掲げられていたりします。

【写真】ポスターがいくつか掲示されている
近くの図書館の入り口にあるイベントなどの掲示コーナーにて

人間を道具のように扱い、腐敗した政治を正当化し、税金を企業が中抜きし、労働者の立場を脆弱にさせ、福祉と教育を切り崩し、深刻な差別を野放しにさせてしまうような資本主義の力にたいして、人権を死守しようとする堅実な力が拮抗するように働いていることも知ることができました。

特に、私自身が経済的に困窮する国(日本)からやってきた移民である、という立場でもあり、そのような立場の人間でも、しっかりと社会的に人権が守られているんだ、ということを実感することができることが大きな体験でした。

例えば、私が現在通っている学校のクラスは、人権がテーマの授業ではなく、単に「第二言語としての英語」を教える授業なのですが、そのクラスで最初に配られるシラバスにも驚きました。授業の説明や成績評価、クラスのスケジュールなどが書かれている最後に、以下のような文言が書かれていました。

①学習障害や他の障害がある学生へ向けたリソース
②非正規滞在である学生らへ向け、先生が安全であること、頼れる生活サービス情報、街がいわゆる「サンクチュアリ・シティ」(非正規滞在や移民を保護する街)であること
③LGBTQ+の学生らへ向け、先生がそのテーマについて話しても安全であること、情報リソース、そして州・地域の法律と学校のポリシーで全てのジェンダーと性的指向の人々に人権と平等の機会が守られていること

【写真】シラバス
実際に授業で配られたシラバスの一部です

日本の大学や大学院を経験してきた私ですが、授業シラバスにこういった人権に関する文言がかかれているものは一度も出会ったことがありません。

ジェンダークィアであり、かつ移民の立場である私にとっては、このメッセージがあるだけでも、その教室がどれだけ安全で安心できる場所を目指そうとしているかが、すごく伝わってくるような気がしました(そうして実際にそういった場所にするためのリソースも充実していました)。

そして同時に、私の立場がそういった状況であるがゆえに、なおさら、日本の状況についても改めて考えていくようになりました。

私のクラスメイトは全員が、いわゆる移民や難民や非正規の人々です。教室では、それぞれの国の食べ物や、今の生活のやりくり、おもしろおかしく冗談などを話しています。そういったクラスメイトのみんなに対して、先生や教室、そして地域や州そのものが、安心・安全な空間や制度を作り出そうとしていること(もちろんアメリカ全体がそうではありませんが…)。その体験が一方で、現在、入管法を改正し、長く暮らす永住者に対しても人権を無視し取り締まりを厳しくさせようとしている日本の状況について、鮮烈な違いを突きつけてくるようにも感じられました。

なんだかここまで書いていると、なみちえさんに、私が経験してきた「日本サゲ、米国アゲ」な話をしているような感じもしてしまうかもしれないのですが……。

補足しておくと、私自身は、深刻な水準でさまざまな格差を温存するような「資本主義」(新自由主義)というシステム自体にそもそも反対している、という立場なので、どちらの国が良いとか悪いとか言いたいわけではなく。

日本とアメリカという私自身のルーツでもある二つの国を経験して思ったのが、同じ資本主義の国でも、今回の場合には特に「文化」や「宗教」などの価値観ですが、そういった生活の価値観的な部分での「違い」が二つの国にはあるなということを生活の中で感じた次第です。

道端にあるベンチを見たとき

ある日本の有名人が、私が現在くらすベイエリアに旅行に来て、「治安が悪くなった」「町中がゴミと麻薬中毒者だらけ」といった発言を最近していたという趣旨の記事を読みました(その後に続く、日本アゲな内容の記事でした……)。

また別の日。いま自分がいま所属しているカリフォルニア大学バークレー校の中を歩いていると、道端にあるベンチに目がとまりました。

【写真】銀色のベンチ

それはよく日本の「綺麗な」都市で見かけるようないわゆる「ホームレス排除ベンチ」(手すりが何個もあったり、そもそも座りにくく設計されていたりするような、あのタイプのベンチ……)ではなく、人間が寝ても痛くないような平たい作りのベンチでした。

そのベンチを見た時にこう思いました。

・ホームレス状態にある人がいる街は本当に「治安が悪い」のだろうか?
・ホームレス状態にある人を見かけることと、「治安が悪化する」という現象を結びつけようとする思考方式が、私の意識の中に刷り込まれていないだろうか?
・ホームレス状態にある人を強制的に排除する「綺麗な」街、ホームレス状態にある人が痛くならずに寝れるベンチがある街、それぞれ何を守って、何を捨てているのだろうか。
・人権とはなんなんだろうか。

私が小学生から高校生まで育ったのは、東京の池袋という街です。駅の中を歩くと、特に夜はホームレス状態にある人々が結構な数が構内で寝泊まりをしていました。そういう光景をたくさんみてきました。

渋谷もそうだったかなと。

しかし、「クリーンアップ作戦」「ジェントリフィケーション」「(ホームレス状態にある人を排除した)綺麗なまちづくり」は、何を捨てて、何をもたらしたのだろうか、と考えます。

カリフォルニア大学バークレー校は、それまで歴史的に発言する機会を得ることのできなかったマイノリティの人々が「声」を勝ち取った、「フリースピーチ」という伝統が生まれた場所としても知られているようです。ちょうど今日も、5歳ぐらいの子どもを遊ばせながら、校門に立って一人のアジア系の男性が、「米国でアジア系として生きること」とテーマにスピーチを行っていました。

人だかりができるわけでもない。聞く人もいれば、その場を通り過ぎる人もいる。その中で、自分の経験を話す。現実の中で、一人ひとりの耳に向かって、直に言葉が配信される。イヤホンつけて歩いている学生さんにはノイズキャンセリングに防がれてしまうような言葉だとしても、多分その話している人には問題はなくって。話せる機会がある、ということ自体が、すでに大きな意味を獲得しているのかなと、その話している姿を見て思ったりしました。

その親子が、スピーチを終えて、やや緩やかな下り坂の中程にある、あの寝やすそうなベンチを通り過ぎて、二人乗り用のキックボードで帰っていった。

人によっては「治安が悪い街」。人によっては「権利が守られている街」。

その二つの世界を隔てているものがなんなのか、そんな光景を見ていた私には、まだまだその問に答える言葉が見つからなかったです。

***

長くなってしまいましたが、この辺で。

きっと私が見て考えている世界の話も、すごく狭い部分についてしか見えていないような気がしています。

なみちえさんがガーナにいらっしゃる様子は、この手紙でもそうですし、インスタのストーリーなどでもいつも拝見しています!

私自身も、経済的な困窮、自分のジェンダーアイデンティティの揺らぎ、マイノリティとしての立場、友人の死などが重なり、なかなか不調な状態が続いてしまっています。

それでも、こうやって、なみちえさんと往復書簡を続けることができる機会があって、本当にありがたいと感じています。

なみちえさんに聞きたいことは、いまの生活の中で(ガーナではなく、他の場所での経験でも大丈夫です!)、どんなことを感じていますか?人々の暮らし、考え方、ふれあい、その中で、なみちえさんがどんな経験をしているのか、ぜひお話を聞いてみたいです。

私もなみちえさんの一番話しやすい形で、お話を聞くことができたら嬉しいです。


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