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【写真】園庭で語り合う青山誠さん、寺尾紗穂さん【写真】園庭で語り合う青山誠さん、寺尾紗穂さん

社会の“ざわめき”をどう聞き、人に伝えていく? シンガーソングライター/文筆家・寺尾紗穂さんとの対話 マイノリティ化する子どもたちと|青山誠 vol.05

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学校や園で、職場で、あるいはまちの中で。ひとりで生きているわけではないからこそ、私たちは自分に見えている景色や考えを「伝える」ことで、また相手の考えや訴えを「聞く」ことで、暮らしを共にしています。

ですが、生きてきた場所も持って生まれた身体も違うなかで、話が伝わりにくい場面があちこちにあるのも現実。そんな世界で、どう他者の声を聞き、自分を表現していけばいいのでしょうか。

保育者で、社会福祉法人東香会の保育統括でもある青山さんと、「保育」や「児童福祉」にとどまらない、さまざまな領域で活動する人をたずねる連載『マイノリティ化する子どもたちと』。第4回は、シンガーソングライター・文筆家として活躍する寺尾紗穂さんとの対談です。

『マイノリティ化する子どもたちと|青山誠』
https://co-coco.jp/series/minority_children/

戦争孤児の姿を歌った『しゅー・しゃいん』などの作詞作曲、地域の「わらべうた」や「労働歌」の収集、移民をテーマにした執筆活動、ビッグイシュー・サポートライブ「りんりんふぇす」の開催──。

社会の中で存在が見えづらかったり、自ら声を発しづらかったりする方々の傍に立ち発信を続けてきた寺尾さんと、伝えること、そこにつながる聞くことを一緒に考えます。今回は上町しぜんの国保育園で、子どもたちの気配を感じながら。

【写真】木造の建物が横にある中庭で、子どもが2人、葉の落ちた木に登って遊んでいる
世田谷の住宅街にある、上町しぜんの国保育園(社会福祉法人東香会)
【写真】大きなガラス扉の前で、2人が外を見ながら話をしている様子。青山さんが外を指さし、寺尾さんが隣で真剣に耳を傾けている

わらべうたも自分の曲も「伝える」ために歌う

青山 寺尾さんは、全国各地の人々の間で歌い継がれてきた「わらべうた」をアルバムにまとめたり、ライブで歌ったりしていますよね。自分で収集されているんですか?

寺尾 各地の図書館などで資料を探しながら、少しずつ集めています。再現するには楽譜か音源が必要ですが、歌詞だけのものが大半で、楽譜まで残っているものは少ないですね。

青山 わらべうたって「母親が子どもに歌うもの」という文脈で語られることが多いと思うんですけど、実はそんな単純なものではないとか。おばあちゃんや若い少女たちが歌うことが多かったと、寺尾さんが書かれているのを拝見しました。

各地で伝承が途絶えそうになっている歌を、寺尾さんはアルバムにまとめて発表している

寺尾 親元を離れて奉公先の赤ん坊の世話をしていた、「守子(もりこ)」と呼ばれる少女たちが歌った守子歌というものが、日本にはたくさんあります。朝から晩までずっと赤ん坊をおんぶしているので、ほとんどもう児童労働です。

おしめで背中が濡れてきたり、奉公先の女将さんにいじめられたりもして……想像もつかないですよね。そういう背景の中で生まれた歌もあるので、ただ優しいわけではない、強い歌や怖い歌も結構あります。

【写真】天井から布が吊るされ、木製家具や植物が配置された温かみのある空間。やわらかな照明に包まれた室内で、大人と子どもが床に座ってくつろぎ、横で青山さん寺尾さんが立ち話をしていいる
対談の冒頭、お昼寝タイムに保育園内をめぐる

青山 今日まず伺ってみたかったのは、そういう声を聞いて自分が痛むときってないのかなと。守り子の話のように、痛切な場面を歌ったものも多いだろうと思うのですが、寺尾さんはそれを軽やかに歌っている印象があります。社会の中から聞こえてきたものを自らの身体を通すときに、寺尾さん自身がとらわれることはないですか?

寺尾 そこは、あんまりないかもしれない。歌う人の中でも、私はあまり気持ちが一体化しちゃうタイプではないと思うんですよね。むしろ自分の身体を“使って”発信する、という感じがしています。

自分で作る歌も、どれもやっぱり伝えるために歌っていますね。私の曲はイントロがなくて、いきなりピアノと歌で始まるものが多いんです。そう指摘してくれた人に「ミュージシャンは雰囲気を作ろうとしてイントロを作るものだから、あなたはミュージシャンじゃないんだよね。たぶん、メッセンジャーなんだよ」って言われたんですね。伝えたいことがあるから、最低限のメロディーとベースと言葉で曲が完成するし、最初から歌い出しちゃう。

青山 おもしろいですね。というのも僕は保育の仕事って、すごく痛むと思うんですよ。子どもたちと一緒にいるうちに、彼らの心持ちが自分の中に流れ込んできちゃう。

ただ泣いたり怒ったりするだけじゃなくて、喜びとかも含めた「情動」のようなものが入ってくるんです。だから、あえてそれらを一度身体から引き剥がすことをしないと、自分が重たくなりすぎる気がするんですよね。

寺尾 それで言えば、私自身は歌に集中しているだけですね。一方で、やっぱり何か見捨てられているものや、みんなが聞くべきだけど聞かれていない声を伝えなきゃいけないとは思っています。

わらべうたは、地域で歌える人もいなくなって、ほとんど忘れられている状況です。でも、こんなに素敵なメロディーがあったってことや、昔の人が考えていたことは伝えたいなと。同じような歌でも内容はさまざまなので、その多様な感じを蘇らせたいという思いがあります。

青山 ご自身の“表現”というより、共鳴体として歌い継いでいくような意識なんでしょうか?

寺尾 再現したい、もう一度この世に響かせたいという気持ちは強いですね。だから基本的には、元のメロディーや言葉を崩さずにそのまま伝えたいと思っています。ただ、現代の人たちに「伝える」にはどうすればいいかは考えます。厳密な意味で残そうとしたら、わらべうたは無伴奏で歌われてきたもの。それだと今の人は、資料のように感じて飽きてしまうかもしれないので、アレンジはさせてもらっています。

【写真】暗いステージ上で、赤い照明に照らされながらバンドが演奏している。中央にはボーカルが立ち、ピアノやドラム、ベース、アコーディオンなどの演奏者が並ぶ
2025年6月21日、草月ホールでのライブ風景(撮影:土田凌)

“正しさ”の向こう側を想像したことがあるか

青山 寺尾さんはなぜ、わらべうたを歌い始めたんですか?

寺尾 一つは、子どもたちが小さいときにYouTubeで『日本昔ばなし』を見て、山姥(やまんば)に興味を持ったことですね。有名なのは追いかけてくる怖い山姥の話ですが、調べると他にも「糸紡ぎを教えてくれる」や「仲人役をしてくれる」などのやさしい姿が出てくるんです。その二面性が気になって研究するうちに、全国的には知られてない素敵な歌が各地に眠っていることに気づいて、そこから。

わらべうたとの関係で言えばもう一つ、子どもたちの入った保育園が「わらべうたしか教えない」園でした。『赤とんぼ』や『鯉のぼり』などの季節の童謡も、一切教えないんですね。私はそれに反発を覚えたというか、おかしいなと思って。それだと親が知らない曲を子どもたちはずっと習っている状態で、一緒に歌ったりもできない。母親として、子どもと歌を通してつながりきれない感じがありました。少し極端じゃないかと、園にも伝えたんですけど。

わらべうたが心の成長に良い、と言われるのは実際にそうだろうと思いますし、「これがいい」と信じたものを伝えていくことも大事です。でも、もっと伝え方に余白があってもいいのに、とそのとき思ったんです。周りの人がどう受け止めて、その人たちが家に帰ったときに何が起きるか……そういうところも含めて、総合的に伝えないと歌の意味がないんじゃないかなって。

【写真】明るい室内で、テーブルに座り両手を軽く組みながら話す寺尾さん。窓から自然光が差し込み、テーブルにはコップや資料が置かれている

——〈東香会〉は理事長の齋藤紘良さんが音楽家でもあったりして、大人も交えたライブイベントなどをよくされている印象があります。日常的に歌を教える時間もあるんですか?

青山 上町しぜんの国保育園だと、わらべうたどころか何も……(笑)。卒園が近づいたりして子どもたちが歌いたくなったら歌いますが、日々は遊ぶのに夢中で歌はほとんど歌えてないんです。

でも、寺尾さんが言ったこと、すごく大切だなと思います。というのも、園では親の養育態度に対して“正しいこと”を言ってしまう場面が多いですが、僕は家での「養育」と園での「保育」は全然違うものだと考えているので。園側から見た正しさを一方的に発していないかすごく気をつける必要がある、と身に染みて感じているんです。

例えばね、以前あるお母さんから「靴下が汚れて大変だから、うちの子には外遊びをさせないで」と言われたことがあったんです。確かに子どもが思いきり遊べば、時には靴下もドロドロになります。それを毎晩お風呂場でがんばって落としてたら手も痛くなる、だから泥遊びをやめさせて、と言われて「無理です」と言い合いになったんですよ。

【写真】書類が置かれたテーブルで、が頬に手を当てながら話を聞く青山さん

寺尾 黒い靴下にすればいいのかな……。

青山 僕も、最初は「じゃあ園の靴下を貸せばいいでしょ」とか言ってて。でも、そういうことじゃなかったんですよ。改めてそのお母さんと話していくと、「園としてやりたいことや正しさもあると思うけど、仕事帰りにお風呂場で靴下を洗い続ける親を想像したことある?」って。言われて僕は、想像したことないかもしれないと思ったんです。

そのとき、「人が自分の大変さを他者に伝えるのって、こんなに大変なことなんだ」とハッとさせられました。僕は話の内容しか最初聞いていなかったけど、お母さんが本当に伝えたかったのは、そういうことじゃなかった。もちろん、子どもが全力で遊んで、靴下が汚れちゃうことはそのままにしたい。でもそういう対応以前の話というか。

——それぞれの状況や価値観を顧みない“正しさ”に、密かに疑問を抱いている人は多いかもしれませんね。

寺尾 今の話を聞いて、子どもたちの通った小学校でも、やっぱり気になることがあったのを思い出しました。「ノーチャイム運動」といって、休み時間の鐘をあえて鳴らさず、子どもたち自身に時計を見させて、5分前には教室に戻って席につかせるんです。なんだか小さい大人製造のためのシステムみたいだなと思ったし、「ちゃんとできる子がいい子」という雰囲気にすごく違和感があって……。そこに保護者から何も疑問や異論が出ないのも、気持ち悪いなと思っていました。

青山 学校って昔から窮屈な場所だったと思うんですけど、僕らの頃はまだ今よりも距離感があった気がするんですよね。「まあ学校の先生はそう言うわな」「それは学校の中だけだから、面倒くさいなら従っておけば」と、ある意味では特別な空間としてみんな認識していた感じがあった。だけど今は、「学校」という空気感が世の中全体で絶対化される感じもあります。

ただ、そういう均質的な集団になった先には何も生まれないので、管理する側からしたら大変でも、僕は子どものいる場所に“差異”をたくさん作りたいと思ってます。たとえ摩擦が多くても、そこにいろんな価値観の人がいれば、客観的に自分の考えを比較できますから。

【写真】土の地面にぽつんと置かれたままの小さな靴。泥まみれで色が同化している

対話に「混ぜてもらえない」存在がここにいる

寺尾 園内を対談前に見学させてもらいましたけど、おうちみたいですよね。ちょっと散らかってる感じとかも含めて。

青山 今日は寺尾さんが来るから、あれでも最大限片づけたほうです(笑)。

寺尾 とても自然体な感じが伝わってきました。

青山 たしか寺尾さんは以前、「自分の使命を『子どもでいられること』と占いで言われた」と本に書かれていましたよね。寺尾さんにとって、子どもってどんなイメージがありますか?

寺尾 自由かな。やっぱり大人になるにつれて周りを気にするじゃないですか。そういうものからは自由で、「王様は裸だ」とか、思ったことを表現できる存在ですよね。

ただ、今10代の娘たちの世代を見ていると、すごく周りを気にしているように思います。割と早い時期からSNSを始めたり、コロナ禍で触れ合う活動ができなかったりしたことも関係あるのかもしれません。おとなしくていい子の多い世代になっていますね。

——ライブ会場で子どもたちを見るとき、昔と今で変化を感じることってありますか?

寺尾 子ども自身というより、そこに関わる大人たちですかね。大きい会場でのライブが増えるとお客さんもいろんな人がいて、「子どもの声がうるさかった。もう行かない」と後になってSNSに書かれたり。そういう方たちに、どう伝えていったらいいかなというのは考えます。

【写真】部屋の入り口に立ち、会話を交わす2人。青山さんは頬に手を当て、寺尾さんは腕を組みながら話を聞いている

青山 うちの園でも、散歩や公園で遊んだあとに匿名で通報されることがあるので、よくわかります。

寺尾 「うるさいな」と思ったとき、伝えずに我慢し続ける人が多いと思うんですよ。そこで一言「ちょっと申し訳ないんだけど、集中できないから」とか言って交渉が始まれば、そんなに後腐れないような気がするんですけど。気を使って我慢し続けてるから、その人の中で怒りが大きくなっちゃう。

ライブ会場では、ある意味子どもって異物ではあるんですね。静かにしていられないときがあるから。だけど、じゃあその異物を最初から排除した空間にするべきなのか……実際、そうしているアーティストもいます。でも、私はもうちょっと人と人が調整し合う場面があってもいいんじゃないかなというのは感じているんですよね。

青山 今の話で、4歳児の子たちが散歩に行ったとき、いつも行く公園に突然「危ないから入ってはいけません」という看板が立てられていたエピソードを思い出しました。そういう指示には、従う子もいれば「別に関係ない」と入っちゃう子も、そもそも気づかない子もいます。

おもしろいのは、園に戻ったあとの子どもたちとの「ミーティング」で輪になってみんなで話していたら、「そもそも誰が勝手に看板なんて立てたんだ」という意見が出たんです。昨日まではなかったし、危ないんだとは思うけど、何が危ないのかは書いてないよねって。

寺尾 本当ですね。

青山 ところが、その場にたまたま同席していた見学者の方に「あのミーティングは非常にけしからん」と言われてしまって。「園とは違う公共の場にあるのだから、看板には従うべきだし、保育者はそれを子どもたちに伝えたり気づかせたりしなきゃいけない」と。

僕はそれを聞いて、コロナ禍で、「保育者は一斉検査を受けましょう」「2週間の行動履歴を提出してください」と一方的に言われたことを思い出しました。あの時は園長として行政とたくさん対話もしましたけど、特に説明もなく「そうするのが当然」という空気感だったことにとても違和感があった。今回の看板の件も何か理由はあったんでしょうが、本来はそれを教えてもらって、対話のもとに対策を進めていくべきだと思うんですよね。

でも、その対話にそもそも子どもは混ぜてもらえない。排除されていることすら、気づかれていないんです。排除してる意識のない側がマジョリティとして、一方的に何かを伝えてくる。そういう場面がすごく多いけど、毎日のように公園で遊んでいた子どもたちのほうが、看板を立てた人よりも身体的に場を熟知して、何が危ないのかもわかっていたはずです。だから最後には、その看板の横に「あなたは誰ですか?」「何が危ないですか?」という別の看板を立てたらいいんじゃないか、という話になりました(笑)。

【写真】テーブルの上のタブレットに表示された、公園の看板の写真。日本語の文章で、禁止です、の文言がいくつも並ぶ
コロナ禍以降、まちの中にはますます禁止看板が増えているという

青山 靴下の話のように、いろいろ言い合ううちに理由がわかる瞬間があります。でも、一方的な連絡や通報では、そういう機会すら与えられない。子どもだし看板くらい無視していいんだ、と言いたいわけではなくて、彼らの意見は聞いているのかなって思うんですね。

もちろん「子ども議会」みたいなものも今ありますけど、その多くは同じ言語環境に属している人たちの、「言葉で意思弁明ができる」というルールで成り立っています。そうじゃない人たちもたくさんいることに、もっと社会全体で気を配れたらなって。

寺尾 本当にそうですよね。少し前、地震のときに日本の首相が「原則自助でお願いします」と発言されていて、自分では動けない重い障害がある方やそれを支える人たちのことが頭にないんだろうなと感じました。実際、東日本大地震のときに障害のある方々が取り残されることもあったわけで……。マイノリティのことを少しでも考えている人だったら、あの言い方にはならないだろうと思うんです。

青山 うん、うん。

寺尾 この園は異年齢クラスで、それぞれ一番小さい赤ちゃんを中心に動いていると伺いました。そうやって一番弱い立場の人のことをどこか意識しながら成長するっていうのは、すごく大切なことだと思います。

今の社会では「私が常識と考えているものについて、同じように思えない人がいるのかも」という想像力がすごく欠けていると思うんですね。自分の世界しか見えていないなかで、ひどい言葉を投げつけたり、偏見に染まったりする人が増えている。声を出せない人のことを常に考えていく、そういう訓練がここで育つと自然にできるんだろうな、と思いました。

【写真】低い丸テーブルを囲み、子どもたちと大人が一緒に色紙を使った工作をしている。乳児も混ざって、保育者の膝の上に乗っている

「ムード」を生む音楽の危うさと、届ける力のなかで

青山 寺尾さんは戦争をテーマにした曲や文章も多くありますが、僕はコロナ禍でずっと「コロナと戦争は似ている」と思っていたんです。みんなの安心安全のため、という名目で一方的な事務連絡が行政から届く。人の身体のことなのに、職種によってほぼ強制的に検査やワクチン接種を「望まれる」ようになるし、満員だった電車は急にガラガラになるし……。「日常って、こんなふうにすぐに変わる危ういものだったんだ」と、園で小さな命を抱っこしているときも本当に怖かったです。

寺尾 コロナのようなことが起きたとき、行政側としては受け入れてくれる人ばっかりになれば楽なわけです。だけど、それってやっぱり怖いことですよね。

おかしな法律が出てきても「ルールは絶対に守らなきゃいけない」と思い込んでいる人ばかりになったら、何も守れないような気がします。「看板立てましたから」と言われたとき、「それは違うんじゃない?」って人もいてよくて。むしろ多様な声が出るほうが、社会は良くなると思うんですよ。

【写真】両手を広げながら身振りを交えて話す寺尾さん

青山 ああいうときに生まれる「ムード」の力が、僕はすごく強い気がします。仮に法的な拘束力はなくても、あたかも“守らなきゃいけない”ふうの言葉が広がると、ムードってすごく作られちゃうんです。今回、寺尾さんともう一つお話ししてみたかったのがそこで。

というのも、そういったムード作りに音楽や文章は利用されることが多いからです。例えば宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、戦時中に軍事教練の合言葉として使われていた歴史があるし、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」というフレーズも、多様性を象徴する合言葉のように独り歩きしてしまった面があります。

特に音楽は、言葉や理屈の前に人を動かしちゃうパワーがある気がして、寺尾さんは音楽の持つ強さや怖さをどう考えているのか、お聞きしたかったんです。

寺尾 漫画家や作家として活躍されている小林エリカさんと一緒にやっている音楽朗読劇のシリーズに、戦時中に少女たちが作ったとされる「風船爆弾」をテーマにした作品があります。当時の音楽と合わせるなかで、まさに戦時中に利用された『海ゆかば』という曲を歌いました。賛美歌みたいに感動的なメロディで、人の心を動かしてしまう魅力のある曲なんですが、実際に歌われてるのは「天皇のために死ぬ。命を顧みはしない」という世界観。でもメロディーの美しさで、戦時中、クリスチャンの人が大君とキリスト(主)を置き換えてスッと入ってしまったという証言もあるほどです。

なので、感動と一体化させて、イデオロギーをほわっと受容させるのに利用されるのが一番怖いかなと思いますね。危うさのあるメッセージを、感動的な音楽で包んで広く届けるとどうなるか……これからも注意しないといけない気がします。

青山 意図的に人を扇動していなくても、寺尾さんのようにパワーのある音楽に惹かれて、結果的に何かが変わる人もいるのかなと。

寺尾 例えば戦争孤児について歌った『しゅー・しゃいん』という曲があるんですけど、受け止め方はさまざまですね。「僕も死ねばよかったろうか」という結構激しい歌詞を、ジャズっぽい明るい感じで作ったんです。そうしたら、ライブに来てくれたあるお客さんが、私がMCで背景を話して初めて「こういう歌だったんだ」って。こんな大切で重い歌を、自分は楽しんで聴いてしまっていた、と言われてびっくりしました。

危うさもありますが、そこが音楽のおもしろさという気もしましたね。言葉だけだったら、そんな人までは巻き込めなかったと思うので。

ざわめきを聞き、自分なりの“表現”を見つけていく

青山 無名の人たちがふっと口にしたわらべうたも、寺尾さんが話を聞いた原発労働者の方や移民の方などの人々の言葉も、ちょっと抽象的かもしれないけれど、ハッキリと見えないざわめきのようなものですよね。今日話しながら、寺尾さんはそれを聞いている、というより“聞こえてきちゃう”感じなのかなって。

僕自身は保育をするなかで、このざわめきをすごく大事にしています。寺尾さんは著書で「言葉以前」のものを大事にしていると書かれていましたが、まさに耳で聞こえるものと、聞こえないものの中間にある淡いものを、子どもたちにも感じます。

【写真】本の見開きページ。右端に「言葉以前』の人々のように」という見出しが見える
寺尾紗穂『天使日記』(スタンド・ブックス)より

——ざわめきも“表現”の一つだと捉えられたらと、もっといろんな表現を大事にしていけるかもと思いました。

寺尾 わらべうたや労働歌を集めていると、昔の人は本当に暮らしや仕事のなかで歌い、みんなが表現をしていたとわかります。昔の人は上手くても下手でも、多くの人が歌でコミュニケーションを取っていた。その時代の感覚みたいなものは、伝えたいなと思いますね。

青山 そういう意味では、うちの園で続けてきた「ナラティブツリー」(※注)も近いかもしれません。保育園はシフト勤務で保育者同士で話す時間がほとんどないので、園内限定のSNSでその日に考えたことなどをシェアするページを作っています。整っていない感情がいっぱい溢れて“表現未満”という感じがしますし、別に書いても返信が必ずあるわけじゃないけれど、誰かがそう感じたことを「別の誰かが知っている」ということは、すごく大事な気がして。

※注:上町しぜんの国保育園で行われている、保育をしながら日々紡がれる一人ひとりの「ナラティブ」(語り)を保育者間で共有し合い、対話する試み。開園7年目ですでに5000以上の投稿がある。詳しくは、『ナラティブで編む保育の物語』(ひとなる書房)

寺尾 私もライブ後に「Uchiake」という会をやっているんですが、似たような感覚がありますね。本来は関係者だけで乾杯する打ち上げに、お客さんを交えて10人ほどで行う語りの会なんですけど。2時間くらい話して終わったときの空気感が、すごく温かなものになってるんですよ。

みんなお互いに知らない人だったはずが、少しずつ話をすることによって、家族みたいな安心感のようなものが場に満ちていって。そういう場がいろんなところに必要なのかなって思います。

青山 そういう場から、自然に「表現」できる機会が増えていくといいですね。

寺尾 私は表現って、必ずしも「アート」という枠をはめなくてもいい気がしているんです。歌う人や踊る人はもちろんだけども、その他にも「おしゃべりが好きな人」や「人と人を結びつけるのが得意な人」がいたりとか。

そういう“その人らしさ”を出せることが、その人の人生を歌っている、生きているってことなんだろうなと。そこにたどり着けない人が、やっぱり苦しいと感じるんだと思うんですね。

青山 寺尾さんの音楽や文章、日頃の発信も含めてすべて、そういう意味での表現、表出になる……ということなんでしょうか。

寺尾 そうですね。いろいろやっていますが、全部自分がやりたいこと、伝えたいことって感じ。

“表現”というと多くの人は「いや、自分はプロじゃない」と謙遜しちゃう人も多いと思いますけど、もっと広く捉えられたらって。その人が楽しいこと、自然にできることが表現なんだよと伝わっていくといいなって思います。

【写真】園庭に経つ寺尾さんと青山さん。背後には木製のフェンスや落葉した木々があり、素朴で自然な環境が広がっている

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連載:マイノリティ化する子どもたちと|青山誠