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私とあなたが「大切にしているもの」のズレを問う。『利他・ケア・傷の倫理学―「私」を生き直すための哲学』発売中
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書影
近内悠太・著『利他・ケア・傷の倫理学――「私」を生き直すための哲学』

「第29回山本七平賞」奨励賞を受賞した著者による新著

多様性の時代になり、一人ひとりが大切にしているものが異なる社会になりました。そんな社会で共に生きていく、互いをケアしていくにはどうしたらいいのでしょうか。

そのヒントとなる一冊が、〈晶文社〉から発売されています。タイトルは『利他・ケア・傷の倫理学――「私」を生き直すための哲学』。教育者であり哲学研究者である近内悠太さんが記した、二冊目の著書です。

近内さんは、2020年に発売した『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング)で、「第29回山本七平賞」奨励賞に選ばれたり、「紀伊國屋じんぶん大賞2021」に入賞したりと、大きな注目を浴びました。

「受け取るとはどういうことか」を論じた前著から4年、『利他・ケア・傷の倫理学』では「与えること」について書いています。

利他とは何か、ケアの本質とは何かを深める哲学的考察

全9章とまえがき、あとがきで構成されている本書。そのタイトルにある、利他、傷、ケアについて、近内さんは「大切にしているもの」という言葉を使い、次のように定義しています。

利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること

(第1章「多様性の時代におけるケアの必然性」p57)

(傷とは、)大切にしているものを大切にされなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。そして、大切にしているものを大切にできなかった時に起こる心の動きおよびその記憶

(同p63)

ケアとは、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと

(第2章「利他とケア」p81)

しかし、「大切にしているもの」は目で見ることができません。それはどこにあるのか?よく、その人の心の中など、外部の人間からはアクセスできない「箱」に入っている、というようなイメージも持たれますが、これは本当なのでしょうか?

近内さんは本書を通じ、“むしろ、僕らが素朴に抱いている「心という描像」あるいは「心のイメージ」のほうが間違っているという可能性”(「まえがき」より)を問います。そして、各章でオーストリア・ウィーン出身の哲学者ウィトゲンシュタインが提示した議論、比喩、アナロジー(類推思考)を援用しつつ、『ワンピース』『鬼滅の刃』『沈黙』『ダンス・ダンス・ダンス』『THE 有頂天ホテル』などの漫画・小説・映像作品に触れながら、近内さんの考えが語られていきます。

相手が大切にしているものを大切にするには?

他者の心は目に見えませんが、他者の心に触れることは可能です。可能にするのは「勇気」であり、困っている他者を救いたい、助けたいと願うことは「利他」と言い換えることができると、近内さんは述べます。

しかし、「ありがた迷惑」という言葉があるように、行為者本人が利他的だと思っても、受ける側にとっては望ましくない事象が時に発生します。そうしたことが起こる理由として、近内さんは、多様性の時代だからこそ、大切にしているものに関する共通認識を持ちづらく「善意が空転する」のだと考えます。

「私とあなたは似ている」と認識することによってすれ違い、「私とあなたは異なる存在である」と知ることによって正しくつながるための道が拓かれるのです。あなたが大切にしているものは、私の大切にしているものと異なる。利他はこの認識から始まります

(第1章「多様性の時代におけるケアの必然性」p53)

一方、大切なものを大切にされなかったことは、「傷つく」という形で目に見えます。例えば、大切な人に会えなくなってしまったとき、もっと大切にしたらよかった、なんであんなことを言ってしまったのかと思い悩む。

それは時に、道徳(=共同体の規範)との衝突をもたらすこととなり、倫理(=今日・ここ・私の規範)をめぐる議論とも繋がっていきます。

帯付き書影。人と出会い直し、関係を結び直すために。大切にしているものをめぐる哲学論考

言語ゲームからセルフケアと自己変容を考える

本書では、遠藤周作、深沢七郎、サン=テグジュペリ、村上春樹などのフィクション作品におけるケアや利他を読み解くうえで、哲学者ウィトゲンシュタインの理論が何度も参照されます。中でも、善意の空転を解き明かすために用いられるのが、「言語ゲーム」という概念です。

これはウィトゲンシュタインが、言葉や人と人の間にあるものも含めて、人間の言語的コミュニケーションを「チェス」などのゲームに擬えたものでした。一般的に、チェスや将棋、野球などのゲームは、先にルールがあり、その範囲内でプレイをしていきます。しかし言語ゲームではルールが先にあるのではなく、「排除/包摂、言い換えれば、疎外/同調(シンクロ)によって、あなたと私の〈あいだ〉が形成されていく」と近内さんは語ります。

僕らの日常のコミュニケーションという言語ゲームは、チェスのようにそのルール全体を見通すことのできる確定的なゲームとは異なり、so far so good(今のところ順調)すなわち「一寸先は闇」というゲームなのです。同じ言語ゲームを続けていると思ったら、ある瞬間、相手が予期せぬ手を打つ。その時、言語ゲームが変質する

(第5章「大切なものは『箱の中』には入っていない」p168〜169)

変わりゆく言語ゲームを相手に合わせて続けることは、ある意味でケアとも言えます。しかしそれは常にうまくいくとは限らず、ゲーム上での誤解や勘違いが、コミュニケーションのすれ違いを生み、利他的だと思ってした行為で相手を傷つけることもある。

では、そうした傷つきから、どうすれば回復することができるのでしょうか。詳しくはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、過去の物語が改編されることで、傷つきが「正解だったことになる」可能性を筆者は指摘します。そして、その過程で起こる思いがけない自己変容が、セルフケアの鍵になると語られます。

比喩やレトリックに富む一冊

『利他・ケア・傷の倫理学』には、ウィトゲンシュタインの他にも、スラヴォイ・ジジェクの哲学、宇沢弘文の社会的費用論、寺田寅彦の随筆などが参照されながら、近内さんならではのユニークな比喩が展開されています。

例えば最終章では、言語ゲームの中に発生する「バグ」こそ利他であると記されています。

ある一定以上の複雑な有機体には「ケア(=デバッグ)」がいる。僕らの心という有機体、星座としての複合体においてそのバグは傷と呼ばれる

(第8章「有機体と、傷という運命」p266)

利他とはシステムのバグである。そして、バグであるからこそ、私の言語ゲームを変えてしまうことができる。僕らはそれを自由と呼ぶ。言語ゲームから異なる言語ゲームへと飛び移るその瞬間、僕らは自由を回復する

(同p281)

こうしたレトリックの見事さに、担当編集者の安藤聡さんは「毎回原稿をいただくたびに、うなる思いでした。この感覚を、読者の方にも味わっていただきたいです」と語ります。

みなさんも本書を手がかりに、身の回りの利他とケアについて、今一度考えてみませんか。