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「人とは何か」ケア、トラウマ、時間をテーマに語り合う。宮地尚子さん×村上靖彦さん『とまる、はずす、きえる』発売、刊行記念イベントも
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書籍の表紙。水色とオレンジ色の丸い丸が大きく2つ、さらにタイトルや著者名が記されている
2023年4月に発売された『とまる、はずす、きえる――ケアとトラウマと時間について』(株式会社青土社)。6月9日には、共著者の宮地尚子さん、村上靖彦さんのトークも予定されています

文化精神医学と哲学の見地からはじまっていく、豊穣な対話集

私たちは毎日、自分の気持ちや状況をさまざまな手段で伝えあいながら暮らしています。とくにSNSやウェブサービスなど、自分を表現できるプラットフォームがいくつも登場した現代では、私たちのコミュニケーションはより高度化して複雑になってきました。

しかし、自分の考えや言いたいことを「その場で」「簡潔に」「それらしく」表現する傾向が加速していく一方で、じっくりと腰を据えて思考することや、人と人が等身大に言葉を紡ぎあっていく時間は、実は少なくなっていないでしょうか。今回ご紹介する対談集『とまる、はずす、きえる』は、そんな素朴な「対話」の大切さを、二人の研究者が思い出させてくれる一冊です。

著者は、精神科の臨床医でトラウマに関する研究が専門の宮地尚子さんと、現象学の観点から医療や福祉分野について論考する哲学者の村上靖彦さん。本書では、それぞれが精通する考え方や知識に触れながら、ケアやトラウマ、そしてそれらをとりまく「時間」について二人が対話します。また、過去に出会った臨床現場や文学作品などを糸口に、震災やヤングケアラー、民族問題といった話題についても語り合います。

お互いの言葉を真摯に受け止めあっていくだけでなく、ときには同意できないことを表明したり、疑問を投げかけあったりしながら進んだ1年10カ月の対談。回を重ねるごとに思索が立体的に拡がっていくさまを体感できるのも、本書の大きな特徴です。

“かみ合わない対話というのは、必ずしも悪いものではない。当たり前のことだが、人はそれぞれ異なる存在である。村上さんと私は別の人間である。興味関心が重なる部分も多いが、まったく重ならないところもたくさんある。読んできた本も、見てきた映画も、出会ってきた人も、人生で経験してきたことも、全然違う。

だからこそ刹那におけるずれが、予感と余韻の繰り返しの中で潜在意識の深いところに鳴り響き、新たな思索をもたらしてくれる。”

(あとがき 宮地尚子 p.244)

宮地さんと村上さんのトークイベントをきっかけに書籍化へ

一橋大学大学院 社会学研究科の教授・宮地さんは、トラウマを生じさせる出来事に対し、人の置かれた状況を理解しやすくする「環状島モデル」の提唱者です。中心に穴の空いたドーナツ状の“島”を舞台に、地政学的な視点から、犠牲者、生還者、被害者、支援者、傍観者などの立場の違いや関係性を論じてきました。

また、精神科医としてトラウマを抱えた人々の回復支援にもあたりながら、トラウマが社会や文化、歴史においてどのような意味や相互作用をもつのか、ジェンダーはどう関わってくるのかなど、人文社会科学的な側面から研究を行っています。著作に『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房)や『傷を愛せるか』(大月書店)、『トラウマにふれる』(金剛出版)などがあります。

村上さんは大阪大学大学院 人間科学研究科の教授として「現象学的な質的研究」を専門にしています。福祉の現場で働く人々の姿に衝撃を受けて以来、「語り手がさまざまな言葉を紡いでいく運動は、その人の経験が構築されていく運動とパラレルな関係にある」という立場から、看護師や介護士、ヤングケアラーへのインタビューや、大阪府西成地区での参与観察を実施してきました。著作に『ケアとは何か』(中公新書)、『交わらないリズム』(青土社)、『「ヤングケアラー」とは誰か』(朝日選書)などがあります。

お二人の対談は、宮地さんと村上さんがそれぞれの著書を上梓したタイミングで開かれた、2回の刊行記念トークイベントがきっかけ。そのなかで、「トラウマ的な出来事で時間がとまる」ことや、医療や福祉に従事する人がしばしば出会う「複数の人のあいだのリズムの取り方が、あるタイミングをきっかけにしてガラっと変わるような瞬間」など、「時間」にまつわる話題が発展していき、そこをさらに掘り下げるかたちで書籍化に向けた対談が行われました。

帯付きの書影。帯文に「トラウマ研究と、医療・福祉の現象学の第一人者が、具体と抽象を行き来しながら紡ぎ出す、比類なき対談集、という言葉

連想する言葉を投げかけあい、探っていく『とまる、はずす、きえる』

本書は、著書を題材にした2回のトーク「Ⅰ 聞く、読む、書く」と、後に行われた4回の対談「Ⅱ 動きをみつめる」のⅡ部構成。さらに対談ごとに、動詞を軸としたテーマ(第1回「それる、第2回「もどる」、第3回「とまる」、第4回「すぎる」、第5回「はずす」、第6回「きえる」)が設定されています。

第1回「それる―― ケアと時間」、第2回「もどる―― リズムと身体」は、それぞれ著作『環状島へようこそ』『ケアとは何か』、『交わらないリズム』『トラウマにふれる』に関するトークイベントがもととなっているため、ブックガイド的に読むこともできます。また、臨床医師である宮地さんと、福祉にまつわる人々へインタビューを行っている村上さんの聞き手としての違いや共通点を論じたり、「(自分自身の)身体に絡めとられて逃げ出せない」感覚から哲学者レヴィナスが唱えた「終身性」とトラウマの関連について考えたりと、幅広い議論が展開されています。

さらに、第3回「とまる ――生とトラウマ」では、「とまる」の言葉で想起することとして、宮地さんが震災を経験した土地や人々のなかにある時間感覚の乖離や「人の死」を挙げたのに対して、村上さんは「閉じ込められることによる停止」や「衰弱」、「自分が生きていくことの出発点自体がとまっている状態」なのではないかと提案。それぞれの視点から出た「とまる」で何が起こるのか、人々のなかにどんな時間が流れているのか……時に話題を飛躍させながら、多角的に考えていきます。

村上 でも、とまれないことのほうが日常においては多そうですよね。

宮地 そうですね。期限があってとまったり、他のことに気持ちが移って自然にとまったり、自然消滅したりといったことはあるかもしれないけど。「きえる」と「とまる」もまた違うのかもしれない……。

村上 そういう意味では、普段は何か急き立てられて、立ちどまれないことのほうが多いし、衝動的に誰かを殴っちゃったりしそうにもなるし、ずっと競争していなければいけないし、どこかでとまれるかとまれないかっていう……。

宮地 ただ、生命そのものは常に動き続けていないと生命じゃないでしょ?

(第3章 p104-105より一部引用)

第4回「すぎる ――痕跡と生存」では、第1回の対談で村上さんが話した、レヴィナスの思想を受けて、宮地さんから「やり過ごす」「見逃される」「生贄を捧げて逃れる」というキーワードが登場。そこでも、​​それぞれに持つ哲学と精神医学の知見から、生き延びたり繁栄したりした人々の抱く罪悪感「サバイバー・ギルト」「スライバー・ギルト」や、障害のある人の「きょうだい児」についてなど、次々と予測できない議論につながっていきます。

「人」の複雑さを問い続ける二人の、次なるトークイベントが6月9日に

そのほか、トラウマを語り直す際に大きな意味を持つ「ユーモア」の働きや、適切な「タイミング」で他者へ応答する重要性などに触れた第5回「はずす ――ユーモアと曖昧さ」、軍事政権下に弾圧を受け家族の存在を消された人々や、現象学と平安時代の和歌に共通するまなざしについて語った第6回「きえる ――記憶と圧力」と、さまざまな話題が散りばめられている本書。

投げかけられた言葉に引き込まれ、思わぬ考えが飛びだしていくだけでなく、その瞬間は直接かみ合わないように思えたやりとりが、繰り返されるなかで新たな気づきへとつながっていく――そんな「対話」の豊かなプロセスについて、村上さんはこう記しています。

“あたかも二人で書いた『徒然草』のように、思いつくよしなごとを語り合ったようにも見える本書はいったい何についての本なのか? (中略)

とりとめがないようにも見える多様な側面を貫くのは、いささか時代遅れに響くかもしれない「人とはなにか?」という問いであるように感じる。人という存在の複雑さ・捉えがたさをたどることには成功しているように思う。”

(まえがき 村上靖彦 p.13)
トークイベントの概要

刊行を記念して、そんな二人の新たなトークも予定されています。2023年6月9日(金)19時より、東京の〈代官山 蔦屋書店〉およびオンラインでの参加が可能。開催後のアーカイブ配信もあるので、ぜひ宮地さんと村上さんの拡がりゆく対話から、ケアやトラウマ、そして時間について、みなさんも一緒に考えてみてはいかがでしょうか。