「障害のあるアーティスト同士が出会う場」で私が聞きたかったこと 森田かずよのクリエイションノート vol.04
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異なる言語や身体をもつ人たちが集まる創作の場。
たとえば演劇やダンス公演の稽古場や劇場、美術家の作業場であるアトリエ、音楽家が訪れるレコーディングスタジオ。
そこにはどんな問いや葛藤、対話があるのか。それぞれどのような工夫を重ねているのだろうか。
私は障害のある身体、というか、ちょっと人と違う形や性質の身体を持ちながら、ダンスや演劇をしております。その私の目線から見える世界や、私の身体で感じること、時には気になる人とお話ししたりしながら、私の頭の中にあることなどを、文字にしていきたいと思います。
こう語るのは義足の俳優(ときどき車椅子俳優)&ダンサーとして活動する森田かずよさん。この連載では「創作の場にある問いや葛藤、対話、それらを置き去りにしない環境づくり」というテーマを掲げ、森田さんと共に考えます。
今回は、2022年10月に開催されたプログラム「A Gathering in a better world WITH MI-MI-BI FROM DANCE BOX『FEEL & LIFE…』」内で行われたトークセッションにまつわる話を綴っていただきました。
※A Gathering in a better worldとは:
日本とドイツの文化交流を育むゲーテ・インスティトゥートとドイツの国際演劇フェスティバル、Festival Theaterformenが共同で立ち上がったプロジェクト。障がいのあるアーティスト同士の出会いやネットワーキング、クリエイティブ空間の構築を目的としている。
※MI-MI-BI(みみび)とは:
盲・ろう者を含む身体に障がいのあるパフォーマー・コンテンポラリーダンスアーティストによるミックスエイブルカンパニー。NPO法人DANCE BOX主催事業「こんにちは、共生社会(ぐちゃぐちゃのゴチャゴチャ)」の一環で実施した2022年2月のArtTheater dB KOBEでの公演を経て、カンパニー活動を開始。9月、豊岡演劇祭フリンジに参加し、「未だ見たことのない美しさ~豊岡ver.~」を上演。話題を呼ぶ。それぞれに異なる身体性や感覚、世界の捉え方を観客と共有できる方法を模索し、作品創作を行う。
障害のあるアーティストが自身の身体感覚をどのように提示しているのか
10月、「A Gathering in a better world」というプロジェクトで京都にいた。A Gathering in a better worldは、 障がいのあるアーティスト同士の出会いやネットワーキング、クリエイティブ空間の構築を目的として、ゲーテ・インスティトゥートとドイツの国際演劇フェスティバル、Festival Theaterformenが共同で立ち上げたプロジェクトである。
今回、京都で開催されたギャザリングではカンパニーMi-Mi-Biがプログラムディレクターとして企画を担当。KYOTO EXPERIMENT(KEX)の提携プログラムとして実施された。
内容としては、盲パフォーマー武内美津子の創作空間を公開するオープンスタジオ、ろう者ソロサインパフォーマー&バーテンダーによるサイレントバー、ダンスワークショップなどを行った。
私は国内およびドイツのアーティストによる2つのトークセッションをプロデュースした。
国内ゲストには、ろう者で俳優・演出家・プロデューサーの大橋弘枝さん、映画監督の石田智哉さんをお迎えした。
おふたりは、いわゆる「健常/障害」の境界を違った視点で捉え、何かを社会に「しかけている」当事者でもあり、障害と共に創作活動を行っている。
障害のあるアーティストがどのように自身の身体感覚を社会の中で提示しているのか。おふたりとも友人でありどんな活動をしているのかは既に知ってはいるが、今、あらためてじっくり話を聞いてみたいと思った。
大橋さんは、私もこの夏に参加していた対話の森で開催されていた「地図を持たないワタシ(以下、地図ワタ)」の総合プロデューサーでもある。「地図ワタ」は何を目的として創られたプログラムで、どんなことを目指していたのか、創作過程において考えていたこと、「マイノリティキャスト」を起用したことによる難しさなどをお聞きした。
私自身も「地図ワタ」にキャストとして参加していたので、大橋さんのお話を聞きながら、たくさんのことを思い出した。「地図ワタ」では私たちマイノリティキャストは宇宙人という設定で、それぞれ宇宙ネームを持った。私の名前は「かずっぺ」。
「地図ワタ」のプログラムでは、訪れた人は地球人として、他者と何かを一緒にする(新しい言葉を作ったり、ゲームをしたり)身体の違いや感覚の違い、言語の違いを共有しながら時間を過ごす。その最後に対話の時間がある。マイノリティキャストと共に時間を共有して感じたこと。そこから普段、自分自身や他者、社会環境についてどのような眼差しを持っているかを話す。
しかしながら、マイノリティであるからと言って自己開示をしながら、初めて出会う人と対話が出来るかというと、そう簡単なものではなかった。「対話とは何なのか」を突きつけられるような時間であった。
少し横道にそれるが、私にとって「地図ワタ」の出演は、身体についても印象深い考察を得た。私は遠方に在住していることもあり、生身ではなく、オンラインで「地図ワタ」に出演していた。
画面にしか自分の姿が認識されず、身体全体を見せることが難しい。マイノリティキャストとして採用されながら、自分のマイノリティ性が上手く伝えられず、最初は悶々とした気持ちにさせられた。私の身体は常時、タブレットと三脚として存在していた。
しかし、お客さんにとって、時間を経ていくと、「この姿=かずっぺ」という認識になっていく。私の三脚を誰かが運び、一緒に空間を旅していく。分身ロボットOrihimeユーザーの体験にも似たような、もうひとつ身体がそこに現れ、それを他者が私として認識するという、不思議な体験だった。
そして、オンラインということで、電波の調子に振り回され、音のラグが起こり、時には突如切断されたりもした。しかし、再度繋ぎなおし復活すると「やった!見えた!」と双方が喜んだり、聞こえづらいときはどうしたらいいのか一緒に考えたりすることがコミュニケーションとして成立する時間になった。
石田さんには、映像制作にあたり、自身が被写体となった理由や、その時に感じたとまどい、撮影によって感じた自身の変化についてお聞きした。この日、石田さんは、実際に石田さんが介護者に向けて、自分の介助のあり方について書かれた手引書を持参していた。
この冊子、私も手に取って拝見した。実際石田さんが生活においての様々なシーンについて、自身の身体をどのように扱い、介助して欲しいか、写真を用いて説明がされている。それをダンサーの砂連尾理さんに「ダンスのデュオのようだ」と表現されたとき石田さんは衝撃を受けたという。
確かにダンスでは、相手の身体に信頼を置かなければ出来ないことが多い。私は石田さんほど生活において介助は必要ではないが、医療ケアを日々の生活で受けている。介助者の身体、それを受ける身体、その日の体調や角度や重力のかけ具合によってうまくいったりいかなかったりする。確かにこれはダンス!
今回のトークの中で石田さんから、「(映画の創作プロセスの中で)対談で終わらせるのではなく、対話にする必要がある」という言葉が飛び出した。この言葉に私はちょっとハッとさせられた。
近年、インタビューや取材など、お話をする機会が増えた。これはとても嬉しいことである。私の価値観や経験(これは障害を持つ一人の人間として話す時もあれば、違う身体を持つ表現者として話す場合もある)考えを誰かに伝える機会をやっと得られた。その喜びがあった。
でも、もうその段階から少しずつ脱皮していかないといけないのかもしれない。「地図ワタ」での学びもそうだったが、聞かれるから答えるのではなく、違う経験値を持ちながら、相手との価値観をすり合わせていく。同じ土俵に立つ、その為に対話がある。
トークの最後には劇場(舞台および映画)のバリア、情報アクセシビリティにまで話が広がった。情報アクセシビリティと一言にいっても、大橋さんと石田さんでは捉え方が少し違っているように私には感じた。
それはそれぞれの置かれた環境の違いである。大橋さんはろう者であり、手話通訳や字幕などは情報保障という点で必須である。つまり情報アクセシビリティを要求する権利があり、それは保障されなければならないものという考えであり、正確性を担保することが必要である。もちろんそれは妥当で、石田さんもその辺り異論はないと思う。
ただ石田さんはその上で、情報アクセシビリティツールを使いながら、身体の新しい感覚で映画を観る体験を提供しているような気がした。彼が監督をした『へんしんっ!』のオープン上映では日本語字幕や音声ガイドが同時に流れる方法をとっている。違う感覚を持つ他者の存在を感じながら映画を観る体験は、単に観る体験を越えて、身体の器官で映画を感じるような感覚ではないだろうか。
「障害」という括りでの集まりに何を感じているのか
翌日はゲーテ・インスティトゥートが選んでくれたドイツ人アーティストとトークを行った。
車椅子のパフォーマーでもありセクシャルカウンセラーでもあるパトリツィア・クバネク(Patrizia Kubanek) 、ゲーテ・インスティトゥート鴨川にアーティストインレジデンスで滞在していたるヘンドリク・クヴァスト、国際フェスティバ、Theaterformenの芸術監督も務めるアナ・ミュルター(Anna Mülter)の3名だ。
私はどうしても聞きたいことがあった。
今回のプログラムは障害のあるアーティスト同士の出会いやネットワーキングを主な目的としている。日本では、あまりそのような機会や機関はないように思う。そもそも、「障害」という括りでの集まりに対して何を感じているのか、それを聞いてみたかった。
参加してくれたパトリツィア・クバネクは、「障害」という言葉が先にならないことは大切である、と述べた。私もその意見に共感できた。普段から「障害者と言われる前に、私は森田かずよであって、違った身体を持つひとりの人間として扱われたい」という想いがある。
ヘンドリク・クヴァストは「障害を隠していても、健常者の身体や社会に直面する時が来る」と答えた。彼は慢性炎症性腸疾患を抱えるアーティストであり、腹話術を使いながら、自身の病気を芸術的克服とするパフォーマンスを展開している。その答えも痛いほど理解ができた。
最終日の午後には非公開で障害のあるアーティストによる、緩やかなミーティングも開催された。非公開である理由としては、まず安心して意見を言える場を創るといった目的があったように思う。
ヘンドリクから、日本の障害のあるアーティストがどのような問題を抱えているのか、どんなことに不満や不安に感じているのか、質問がなされ、語られていた。
アナ・ミュルターは「この集まりが大切なんだ」と語っていたた。ただ残念ながら、イベントが多い時期でもあり、声をかけたアーティストにことごとく断られてしまい、そこまでたくさんのアーティストの参加は望めなかった。
私自身、以前から、障害のあるアーティスト同士のネットワーク構築をすることは、重要だと考えていた。それはただ単に障害者同士が集まるという意味だけではなく、障害のあるアーティスト自身が創作にあたりどんなことを考え、社会に対してどのような考えを持っているのか、それを知りたいと思っているからである。
これまで、ドイツをはじめとして、イギリス、アメリカなど、当事者が文化芸術に対して主体的に携わっている様子を目にしてきた。「障害のあるアーティスト」という「私たち」の問題を、まずは私たち同士で共有し、一緒に考えていけたらいいのではないか。
「障害」という言葉、そして括りに対して、どのようなイメージを持つのかは、人それぞれだ。
2022年パラリンピックが開催されたことも契機に、障害があるなしの垣根を越えるプロジェクトが多数開催された。
障害のあるパフォーマー・アーティストが、自らで企画を立ち上げ、行動している人も増えた。メディアなどで障害のある人が登用されることも増えた。この界隈に数十年いる当事者としては、その動きはとても嬉しい。
そうした状況があるなかで、どこか私は、自分自身の障害者としてのアイデンティティーを失わないようにしたいという想いが強くなってきている。
もちろん障害だけを語りたくないし、私は“障害者”である前に“森田かずよ”である。だからこそ、“この身体”である私にちゃんと誇りを持っておきたい。私のパフォーマンスは紛れもなく私の身体から出てきたものであり、そこには私が障害者として生きてきた人生が反映されている。自分のこの身体や経験をなかったものにされたくないし、ないものとして扱いたくない。
今の社会において、”この身体”を”障害”という言葉でしか表現できないのであれば、私は障害者と言われることはまんざら嫌ではない。
今、私が話している、書いている言葉、この思考も、この身体から、この身体だから出てきたことである。自分の今持っている感覚や経験を大切にしたい。そして障害は、今までにない側面から社会を覗き、既存の価値観を揺るがすことがある。
他の障害のあるアーティストは何を考えているのか。そして、どんなことを考えているのだろうか。障害者のイメージを変えたいという言葉も時折耳にするが、それは社会が描く障害者像なのか、自分が思い込む障害者像なのか。
障害者という言葉だけでそれ以上の評価を得られないというもどかしさを感じることもある。そんなことをどう思っているのか。何に困っているのか。どう変えていきたいのか。
私たちの問題を、私たちで共有したい。障害という言葉や出来事が指す範囲は幅広い。そこだけにこだわるのではない。
だからこそ、緩やかに、そしてしなやかに、繋がりたいと思う。
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この記事の連載Series
連載:森田かずよのクリエイションノート
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- vol. 082023.12.26「歩く」を解体して見えた景色
- vol. 072023.09.0416年活動してきた劇団が生み出した「障害演劇を作るための創作環境規約」にふれて
- vol. 062023.06.02踊ること、自分の身体のこと、それを誰かに見せること、その逡巡。キム・ウォニョンさん×森田かずよさん
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