福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【イラスト】もやがかかった場所で、必要なことを探す森田さん【イラスト】もやがかかった場所で、必要なことを探す森田さん

滞在先で医療ケアが受けられる場所を探すこと 森田かずよのクリエイションノート vol.09

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異なる言語や身体をもつ人たちが集まる創作の場。たとえば演劇やダンス公演の稽古場や劇場、美術家の作業場であるアトリエ、音楽家が訪れるレコーディングスタジオ。そこにはどんな問いや葛藤、対話があるのか。それぞれどのような工夫を重ねているのだろうか。

私は障害のある身体、というか、ちょっと人と違う形や性質の身体を持ちながら、ダンスや演劇をしております。その私の目線から見える世界や、私の身体で感じること、時には気になる人とお話ししたりしながら、私の頭の中にあることなどを、文字にしていきたいと思います。

こう語るのは義足の俳優(ときどき車椅子俳優)&ダンサーとして活動する森田かずよさん。この連載では「創作の場にある問いや葛藤、対話、それらを置き去りにしない環境づくり」というテーマを掲げ、森田さんと共に考えます。

今回は、宿泊を伴う仕事のときに発生する困りごとについて綴っていただきました。

医療ケアが受けられる場所を探す

2024年の幕開け、1月はオランダのダンスカンパニーIntrodantsの振付家、演出家のAdriaan Luteijn 新作公演、そして他の仕事もあり、10日間東京に滞在した。私は大阪在住なので、東京には文字通り、仕事に「行く」といった感覚である。そして、大阪を離れる場合、私には厄介な問題が付きまとう。それは医療ケア(導尿)の手を探すことである。

私は二分脊椎症という障害がある。そのため、膀胱や尿道の働きが阻害されてしまう。例えば、私の場合トイレをしたいという感覚はあり、自分で排尿できるが、すべての尿を出し切ることができない。つまり膀胱に尿が残ってしまう。膀胱から腎臓に尿が逆流してしまうと、腎臓がダメージを受け、腎盂腎炎などを起こし高熱が出る。最悪の場合、腎不全などを起こす。

排尿に関わる「神経」に原「因」があり「膀胱」の機能に問題があることを神経因性膀胱というのだが、私のような二分脊椎症や脊椎損傷の人など神経因性膀胱を患う人は、間欠的自己導尿という、定期的にカテーテルという管を使って自分で排尿する。ただ私の場合は、二分脊椎症に加えて側弯症があり、思いのほか身体が曲がっている。右の肘も伸び切らず短い。手が届かず、自力でカテーテルをすることができないのだ。(小学生の頃、導尿を習得する訓練を受けたが、その時に無理だと判断されてしまった)

しかし、不幸中の幸いなのは、私は感覚が残っているので、毎回トイレの度に導尿が必要なのではなく、最低朝と夜の2回だけで状態を保つことが出来ている。今40を超える年齢ではあるが、未だ母の手を借りている。母が出張など長期で家を空ける場合は、訪問看護などの制度を使う。導尿は医療行為なので、医師および看護師など医療資格を持つ人のみ処置が出来る。(加えて家族も可)※注1

※注1:参考在宅自己導尿厚生労働科学研究成果データーベースはこちら

このカテーテルが、大阪以外の土地での、公演活動などの仕事に際し、大きな問題となる。短ければ数日だが、長いと数週間にわたることもある。その度に母を連れまわすわけにはいかない。母には母の生活、人生がある。

1泊なら導尿をスキップさせる。(もちろん身体にはよくない。この文章を主治医が読んだらきっと叱られるだろう)

小さな劇団で活動していたころは、東京など地方公演が決まれば、劇場に近い病院をインターネットで探し、ひとつひとつ、しらみつぶしに電話を掛けた。引き受けてくれる病院を事前に探し、その診察時間に処置してもらう。自分の障害のことを話し、先ほどここに書いたようなことを説明していく。顔も見えない、いきなり電話をかけてきて「カテーテルをしてくれ」と頼む。まずこの状態を理解してもらうことに時間がかかり、毎回かなり難航した。泌尿器科のクリニックなのに、「処置だけというケースは引き受けられない」と断られたこともあり、「一体どこなら引き受けてくれるんだ」と途方に暮れたこともある。

何件も連絡して、ようやく引き受けてくれるクリニックを見つける。そして、リハーサル、公演時間の間をぬって、病院と劇場を往復する。実質、処置時間は早ければ10分くらいなのだが、劇場近くの病院が見つからなかった場合、往復で1時間を費やしたこともある。また、クリニック系の病院は、土曜、日曜日の対応をしていない場合も多い。そんなときは、公演終了後に夜間救急病院に電話をして、頼みに頼んで引き受けてもらったことも何度かある。それくらい、毎回大変な思いをしていた。

ただ、ここ数年、特に仕事の依頼をいただいてパフォーマンスをするときは、自分で探さず、まず依頼をしてくださったところ(制作会社、カンパニーなど)に相談することにしている。というより、今まで医療ケアのことは、自分の障害のことだから、自分で解決しないといけないと思っていた。なかなか理解してもらいにくく、デリケートな問題でもあることから、この話をすることに勇気が必要であった。でも大阪以外での仕事が増え、その度に自力で病院を探すことがあまりにも大変で、そんなことも言っていられなくなった。考える頭は、多ければ多いほどいい。人づてに看護師さんを紹介していただけたこともあった。しかし、すぐに解決できないことの方が多かった。

地域によっては訪問看護制度を使用できる場合があることも知り、長期滞在の場合は利用した。(居住区を離れるので、自治体や看護ステーションの方針によりばらつきがある。また、費用が意外と高額で、そのコストを誰が負担するのかはケースバイケース)特にコロナ禍になってからは、イレギュラーな病院突撃は敬遠されたと推測できるので、訪問看護制度は非常にありがたかった。

制限がかかるかもしれない選択肢との狭間で

【イラスト】二つに分かれる道の前で考えている森田さん

この私の医療ケアにまつわる交渉のことを話すと止まらない。ひとつひとつドラマがある。海外でのクリエイションで、渡航当日までケアの人が見つからず、ヒヤヒヤしながら飛行機に乗ったこともある。3週間滞在した東京では、お世話になった病院の先生が公演まで足を運んでくださった。私は医療ケアを除いては、日常に関してほぼ介護なしに生活できる。だからこそ、このケアを通じて、人に生かされていることを、しみじみ感じる。とはいえ、不自由であることには変わりない。

先日、大学教員の友人から、「観光バリアフリー」についての研究調査アンケートが送られてきた。その用紙に目を通しながら、ふと「仕事以外で、ひとりで、2泊以上の旅行をしたのはいつだっただろう」そんなことが頭をよぎった。

振り返ると、2019年にイギリスへ行った。ひとり旅だった。イギリスにあるStopgap Dance Companyのアーティストラボを受講したくて、思い切った。その時は、現地の日本人の方を紹介してもらい、その方に導尿カテーテルを覚えてもらった。医療資格を有している方ではなかったが、致し方なかった。もう時効として欲しい。でも、思い出すと、それくらいだ。どんなときも、医療ケアをしてもらう人を探さなければならず、そこで諦めてしまうのだ。これさえなければ、と思う。もっと自由になれるのに。そして、今も私の導尿をしてくれる母を自由にできるのに。

ひとつ選択肢がある。「膀胱瘻」だ。お腹に中穴を空けて管を通し、バックで蓄尿する方法だ。頸椎損傷の方や、自己導尿が難しい人はその選択をする人もいる。しかし、私はダンサーである。意外と激しく動き回るときもある。その場合どうなるのだろう。また、先ほども書いたように、私の身体はとてもいびつであるがゆえ、感染のリスクも上がるといわれる。明らかに今より制限を受けることになる。それは、したくない。また、ひとつの感覚を失うことにも躊躇してしまう。それが「尿意」という、どちらかというと今まで苦しめられてきた感覚機能であるはずなのに、その感覚を手放すことにも、一抹の寂しさを覚える。おかしな話だ。

いつか、将来的にはその選択を受け入れるのかもしれない。

でも、私はまだその決断はできない。

人との縁をつないでいくしかない。


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連載:森田かずよのクリエイションノート