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【イラスト】本を読んでいる一人の車椅子ユーザー。そのまわりには、ショートケーキや犬のぬいぐるみ、CD、食べかけのチョコレートなどが浮いている。【イラスト】本を読んでいる一人の車椅子ユーザー。そのまわりには、ショートケーキや犬のぬいぐるみ、CD、食べかけのチョコレートなどが浮いている。

急がなければ、生きられないけど 〜効率主義と「余白」のあいだで〜|油田優衣 あらゆるものが、はやすぎる|エッセイ連載 vol.09

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ああ、どれもこれも、はやすぎる。「あらゆるものが、はやすぎる」をテーマにさまざまな方にエッセイを寄稿いただく連載です。

今回は一般社団法人わをん「当事者の語りプロジェクト」編集長、日本自立生活センターのスタッフである油田優衣さんに綴っていただきました。

呪いにかかっていた高校時代

はやすぎるもの、まずもってそれは私自身だ。道路をゆく電動車いすのスピードも、私のメンタリティも、ずっとはやいし、ずっと急いでいる気がする。

特に高校時代の私は、今から思うとちょっと異様で、一分一秒も無駄にしたくなかった。気持ちは常に、急げ急げ、はやくはやく――。

一分一秒を無駄にせずに何をしていたかというと、勉強だ。私は難関国立大学に合格することを目指して必死で勉強していた。一度でも授業を聞けばその内容を全て覚えられたり、少ない勉強時間でも難関大学に合格できたりするような天才肌ではなかったため、第一希望の大学に合格するためには、めちゃめちゃ勉強する必要があった。

高校では受験期になると、先生たちが「身を削って勉強しろ」と生徒たちの尻を叩いていた。「仮に浪人するとしても、現役合格するつもりで勉強しないと、浪人しても合格できない」と言う先生もいた。バリバリの根性論がしばしば語られた。それらの言葉を右から左に流せばよかったのに、ナイーブな私はそれを真に受け、文字通り身を削って、10代後半にして栄養ドリンクを飲みながら、睡眠時間も削って、毎日勉強していた。

毎日5分、10分刻みのスケジュールを立てて生活し、しかし、そのスケジュール通りにことが進むことはそうなく、遅れたスケジュールにストレスと焦りを感じながら生活していた。ときたまスケジュールが早く終わった時はその分の時間を別の勉強に回す。全てが勉強のための時間だった。いつも時計をチラチラ気にしながら、時間を有効に使えているか/使えたかという視点でしか、物事を考えられなかった。

なぜそんなに時間を無駄にしたくなかったのだろう。「生まれつきの身体障害があって体力がなく、元気に活動できる時間が短いから、時間を有効に使うことを意識して生きるようになった」というとわかりやすい気がするけれど、たぶん障害の有無は関係ない。私自身が人生のどこかで「時間を無駄にしてはならない」「はやく、たくさん、無駄なく」という呪いにかかってしまったのだと思う。いつ、どこでかかったのかわからないその呪いは、高校の時から強い効力を持ち始めた。

いま思えば、なぜそこまでする必要があったのだろう、と思う。

しかも私には、全身の筋力が徐々に衰えていくという生まれつきの障害があり、大きく分けて2つのデバフを抱えていた。1つ目は、体力が圧倒的に少ないというデバフだ。普段から頻脈(今もそうだが、座っている時は100〜120bpmが普通)で、呼吸筋が弱いせいで呼吸も常に浅く(当時はまだ日中に人工呼吸器をつけていなかったのも関係している)、疲れやすい。朝から夕方まで学校に行くだけでクタクタになり、帰宅後は1〜3時間ほどお昼寝ならぬ「お夕寝」をしないと、とても体がもたない。

2つ目は、日常生活を送るために必要な行為に通常の何倍もの時間がかかるというデバフだ。私は自分で歩くことや立つことは全くできず、腕を挙上することもできない(肘から下の手や指は比較的自由に動かせるが、握力はゼロである)ため、日常生活のほぼ全ての動作に他人の介助が必要である。服を着ること、トイレに行くこと、お風呂に入ることなど、それらを他人の手を借りながらこなすには、通常の何倍もの時間がかかる。

そんなデバフを抱えながら、高校を3年間で卒業し、しかも難関大学の現役合格を目指すのはなかなかの無理ゲーだ、と今では思える。高校も3年ではなくて、4年や5年かけて出るという選択肢(その場合、通学する高校自体を変える必要があったが)もあったし、浪人することも家族は許してくれただろうから、そうすればよかった。障害のある自分の身体の声を聞いて、それに合わせて、もっとたくさん休んで、たくさん寝て、体を大事にすればよかった。

しかし当時の私は、目に見えない「体力のなさ」や「疲れやすさ」を言い訳にしてよいと思えなかった。他の障害のない人よりは体力がなくて疲れやすかったり、風邪をひいたときに重篤化しやすかったりすることは事実としてはわかっていたが、それは、効率よく勉強して休む時間を確保できなかったり「体調管理」がうまくできなかったりする自分の能力不足、努力不足による問題にも感じられた。目で見て明らかな「歩けないこと」や「車いすユーザーであること」を理由とした合理的配慮は求めてもよいと思えたが、「体力のなさ」や「疲れやすさ」についてはそう思えず、自己責任だと思い込んでいた。

そういえば私は、小さい頃から風邪をひいてはしばしば肺炎になり、入院することが多々あった。中学まで通っていた特別支援学校の学期ごとの個人目標にいつも私は「体調管理に気をつける」と書いていた。なぜそれを書くようになったのかはわからない。先生に言われたのか、自分から思いついたのか。でも、そもそも体調は管理できるものなのだろうか? 風邪をひいたり、入院したり、その目標を書いたりする私に「でも、誰だって風邪を引く時は引くしね〜。仕方ないよ〜」と言ってくれる人はいなかった。そして、特別何かの努力をしたわけではないが、たまたま休まずに学校に通い続けていると、先生は「体調管理、頑張ってるのね! 目標達成だね!」と褒めてくれた。そんななかで、私はいつしか自分の体調は自分で管理できるもの、自分の状態を「健やかに」保つのは自分の責任なのだと思い込むようになったのかもしれない。

高校時代に話を戻そう。「体力のなさ」や「疲れやすさ」を自分の責任だと思っていたことに加え、私が通った高校では私以外はみな「健常者」とされていて、「健常者」のペースが当たり前だった。「健常者」のペースが「正しい」とか「合ってる」と判断するとかいう以前に、全日制課程の学年制の高校という狭い世界にいた私には、それしか目に映っておらず、それしか知らなかった。障害のある自分に合わせたライフスタイルやライフコースのあり方を選んでよいという発想もそもそもなかった。

そのような状況のなかで私は他に選択肢があることを知らず、自分を心身共に追い込んで、健常者のスケジュール、健常者のライフコースのペースに合わせて生活していた。それは私にとっては、はやすぎるものだった。

はやすぎる介助が奪う、自己選択の隙

効率重視の呪いによって猛勉強をし、さらに強運を持ち合わせていた私は、第一志望の大学に現役で合格することができ、それを機に地元の福岡を離れて、京都で一人暮らしを始めた。

「一人暮らし」と言っても、私の一人暮らしはきっと多くの人がイメージするものとは異なる。なぜなら、私の一人暮らしには24時間、常にそばに「他人」がいる生活だからだ。

日本には、重度の障害のある人が、施設や病院ではなく、自分の住み慣れた家や地域で生活できるように、障害のある人(利用者)の家に長時間ヘルパーを派遣できる「重度訪問介護」という公的な制度がある。この制度は、半世紀にわたる障害当事者による運動によって作られてきたものであり、重度の障害のある人が地域で生きるために欠かせない(しかし、役所の人も福祉関係者もあまり知らない)制度である。

私もこの制度を利用しており、1日2交代もしくは3交代で、一週間に10人ほどのヘルパーが手伝ってくれている。この制度があるおかげで、私は自分の生活のあり方を自分で決めていける。早起きして朝風呂するのか、お昼までゆっくり寝るのか。着やすいブカブカのズボンを履くのか、ちょっと着るのが大変なワンピースにするのか。胃のもたれそうな外食にするのか、頑張って自炊するのか。明日のために早寝するのか、推しのコンテンツを見るために夜更かしするのか。お風呂にゆっくり浸かるのか、面倒だからシャワーだけにするのか――そういう小さな選択が、私が私の生活の主人公であるという実感を作り上げている。

ただ、何人ものヘルパーさんが関わる生活は、全て自分の思うようにいくわけではない。ヘルパーさんにもいろんな性格、タイプ、距離感の人がいる。介助の手順を覚えるのがとても苦手な人、距離感が近すぎてしまう人、先回りしすぎてしまう人など、いろんなヘルパーさんとの関わりのなかで日々、四苦八苦している。

なかでも、今回のテーマに引きつけて考えたいのが、「はやすぎるヘルパーさん問題」である。ここでいう「はやい」は、もちろん動作の速さも含まれるが、それだけでなく、私がヘルパーさんから感じ取ってしまうその人のせっかちな雰囲気も含まれる。行動や動作が遅すぎるヘルパーさんも困るが、はやすぎるヘルパーさんもなかなか困るものなのだ。

まず、単純に、身体を急に早く動かされると、関節が弱いせいか、痛みが出たりする。また、速すぎると、どうしても介助が雑になりやすくなる。動作が速すぎると、わざとではないもののヘルパーさんの手が指先が不意に顔や身体に当たることもあり、地味に痛く、不快なのだ。せっかちすぎて動作が速いヘルパーさんや、焦って速くしようとしすぎてしまうヘルパーさんには、逆に、ゆっくり、丁寧に動くことをお願いしている。

そして、問題は身体的な不都合があることだけではない。はやすぎることは、自己選択の隙を奪うことがあるのだ。お風呂に入っている場面を例にとってみよう。洗い場にある簡易の台に横になって、ヘルパーさんにゴシゴシと身体を洗ってもらっている時、「今日は、このまま友達からもらったちょっと高いトリートメントを使ってみようかな。いや、今日使うんなら、明後日のお出かけの日の前日に使う方がいいかな」とか「今日は特別に、このあとスクラブとかしちゃおうかな〜。でもやっぱりちょっと面倒だな。どうしようかな……」と迷っているうちに、息つく間もなく次の工程がどんどん進んでしまい、頼む隙どころか悩む隙もなくなってしまう。

また、あまりにはやすぎるヘルパーさんだと「私の介助が面倒なのかな。早く終わらせたいのかな」などと感じてしまうこともあって、プラスアルファのことやいつもと違うことを頼みにくくなる。あまりにはやいその流れを止めることは、ちょっとエネルギーがいることでもあり、そんな状況では私は選択する気が失せてしまうのだ。

はやすぎることに関しては、指示を出して修正するのも、なかなか難しい。介助のやり方や工程が違う場合であれば、「このやり方ではなくて、このようにして」とか「この工程は今じゃなくて、こっちが先です」と明確に伝えることができる。しかし、「なんとなく速い」「なんとなく雑」「なんかせっかちすぎる」という場合は、どう伝えればよいのだろう。「秒速○センチくらいで動いて」という話でもないし、「ゆったりした雰囲気を出して」も雑すぎるお願いだ。仮に「もう少しゆっくり」と伝えても、その瞬間はゆっくりになるが、すぐにその人のペースに戻ってしまう。思ったことを吐き出せたら楽なのだろうが、「ちょっと今、動作が速すぎて雑に感じたので、もう少しゆっくり丁寧にしてください」というのもなかなか勇気がいることで、「ちょっとの我慢ならいいや」と伝えることを諦めてしまう。

はやすぎるヘルパーさんとは違って、なんとなくゆったりした空気を纏っているヘルパーさんは、いろいろ頼みやすい。例えば、私の場合、「この人とは、お部屋の収納の整理をしやすいなぁ」とか、「この人の時は、なんかお散歩したくなるなぁ」とか「この人の時は、なんとなくお買い物に行きたくなるなぁ」みたいなのがある。

そのような人と一緒にいるときは、いつもと違うことをしてみようかなと思ったり、ダラダラと考えながら何かしてみようと思ったりできる余白・隙のようなものがあるような気がする。

そして、きっと、それらの行為は、ルーティン的な毎日をこなす上では特段必要ではない、「余剰」「余白」「プラスアルファ」あるいは「無駄」と呼ばれる行為なのだろう。これは、現象学の研究者である酒井麻依子さんとの共同研究(「介助者の「伴い方」がもたらす「できる」の変化」)でも論じたのだが、介助に「隙間」や「遊び」があることや、介助者自身が「予想外」のことに開かれている(それへの耐性がある)ことは、寄り道したりウィンドウショッピングしたりのんびり散歩したりといった「余計なこと」「無駄なこと」のやりやすさにつながる。逆に、介助が効率を重視しすぎると、そのような「隙間」や「遊び」はなくなってしまい、介助者と行動を共にする私は行動をいつもの型にはめてしまう。

決まったルーティンのみをこなすのであれば、はやいヘルパーさんでも充分である。むしろ、毎日決まって行わねばならないさまざまなto doリストが早く片付いて、そのぶん趣味の時間や睡眠時間を多く確保できたりもする。そういう人の方がありがたいこともある。しかし、私たちの生活は、全てが決まり切っているわけではない。似たような日常のなかで、いつもと違うことをしてみたり、いつもは行かない道を通ってみたり、いつもは入らないお店やお花屋さんに寄ってみたりする。それらの行為は、毎日のto doリストから外れた余剰や余白の行為であり、ヘルパーさんにとっては「予想外」の行為であろう。

介助が必要で他者の手を借りなければならず、周りの支援者と呼ばれる人たちから「油田さんの生活はこう」「油田さんはこんな人」と想定されやすいからこそ、また、常に人(ヘルパー)の目があるゆえに私自身も自分の動きをいつものルーティンに収めてしまいがちであるからこそ、私は、自分の生活に「予想外」のことや「偶然性」への開かれがあることを大切にしたい。そのためにも、身近なヘルパーさんたちには、いったん効率やはやさを忘れて、いつ終わるかわからない時間に身を任せ、予想外に開かれていてほしいと思う。そしてそれはきっと、効率やはやさを求める介助の中では、実現できないものなのだ。

体力がないから、はやくできないが、体力がないから、はやくしたい

「常に効率を求めて生き急いでいた高校までの油田さんとは変わって、今はのんびりと生きている」

そのような結末でこのエッセイを閉じられればよかった。現実は残念ながらそうではない。自分のヘルパーさんには、いったん効率を忘れて「隙間」や「遊び」をもっていてほしいと言っておきながら、私のなかには、時間を有効に使いたいという思いが今もある。なんなら、年々強くなっている。

先述したように、高校時代の私は「体力のなさ」や「疲れやすさ」を言い訳にしてよいと思えず、また、自分も「健常者」のペースについていくものだと当たり前のように思っていた。

しかし、その考えは大学に入学して以降、徐々に変化していった。同じような障害のある友達や先輩たちとの出会いや様々な本との出会いの中で、私はエンパワーされ、なにも社会が要請する「健常者」のペースに合わさずとも、障害のある私のペースで生きてよいと思えるようになった(そのため、私は大学の学部も大学院も一年プラスで出たし、一般企業の就活もしなかった)。また、自分を甘やかすことやそのよさも覚えてしまって、高校時代のように自分を厳しく律して「時間を無駄にせずに有益なこと(勉強)をする」みたいなことはしなく/できなくなった。

その気付きがあっても、時間を有効に使いたいという強迫的な思いからフリーになれていない。なぜなら、ここ数年でさらに体力がなくなってきたからだ。

年齢のせいなのか、病気の進行なのか、両方なのかわからないが、コロナ以降、体力の低下をひしひしと感じるようになった。体力がないと、1日のなかで活発に活動できる時間は短くなる。例えば、現在の私の場合、睡眠時間やトイレの時間、入浴の時間(トイレや入浴も、介助が必要なため時間がかかる)を差し引いてみると、元気に活動できる時間は1日7〜9時間程度だ。だから、活発に活動できる時間を有効に使いたいと思うし、その時間を生成するための休息時間を1分でも多く確保したいから、効率よく他の物事を終わらせたいと思ってしまうのだ。

絶対に終電を逃さない女さんが『虚弱に生きる』のなかで「なぜ体力がないと時間がなくなるのか」を述べられていたが、本当にその通りだと思う。体力がないと、まず睡眠時間が増える。大学の学部生の頃は、1日の睡眠時間が7時間とか8時間でも毎日元気に活動していた。しかし、ここ数年は、1日トータルで10時間ほど寝ないと、しんどかったり、睡眠時間が少ない日が続くと体調を壊すようになっていった。また、自分の健康を維持するためのケアにも時間を要するようになった。例えば、入浴。昔はシャワーだけで済ますことも割とあった。しかし、肩や首の凝りが年々ひどくなり、ついに今年メニエール病を発症したこともあって、私の場合は毎日入浴して血流をよくする必要があるとわかった。全介助を受けながらの入浴はただでさえ時間がかかり、面倒な時もあるが、夜の睡眠の質や明日の自分の健康のために、そこは外せない。

少しでも活動できる時間やそのための休息時間を長く取りたくて、日々ちまちましたこともしている。例えば、私は8時52分とか8時23分に目覚ましのアラームをかける。あまりの刻み具合にヘルパーさんから「その数分はなに?」と苦笑されるのだが、私は数分だけでも多く寝て、体力を温存したいのである(ただ、8時20分にしようか、8時23分でも間に合うか迷っているその時間で数分ロスしていて、意味がない気もするのだが……)。また、日常において、「待つ時間」(と、そこでロスする体力)というのもできる限り減らしたい。そのため、電車に乗るときも乗り慣れた駅であればギリギリの時間を攻めている。ギリギリを攻めるので、いつも電動車いすでマックスの速度(時速6キロほど)で駅まで行く(ヘルパーさんたち、いつも速歩きさせてごめんよ)。

そんな自分に嫌気がさす時もある。それによって浮く時間など数十分ほどだ。そのために、こんなに気を急かす必要はないのではないか。はやすぎるよ、私。もっとゆっくりいこうよ、私。そもそも時間は、有用性のためだけに存在しているものではないだろう。

最近は少しずつ「時間を有効に使う」ことを諦めるのも大事だと思うようになり、今はその練習中である。

時間を有効に使うことを諦めたとき(そして、そのときのヘルパーさんが「隙間」や「遊び」がある人だった場合)、私は「予想外」や「偶然性」に開かれる。早く家に帰ってお夕寝するのを諦めて川沿いの道に寄り道したとき、季節の花と川の水面の美しさに気付く。早くやるべき仕事を終わらせるのを諦めて友達の誘いのままカフェに行ったとき、初めて食べるケーキの美味しさに気付く。電車に早く乗るのを諦めて駅の周りを歩いているとき、美味しそうな洋菓子店があることに気付く。

しかし、ここで私はあるアポリアにぶつかる。「予想外」や「偶然性」に開かれ、それに身を任せるためには、体力が必要であり、体力をチャージするためには効率よく毎日のルーティンを終わらせ早く休まねばならない。ところがそうなると「予想外」や「偶然性」に開かれている隙がなくなる。これは、どうしたらよいものか……。

私はこの大いなる矛盾、そして、時間を効率的に使いたい気持ちと効率にとらわれたくない気持ち、相反する2つのものを抱えながら、今日も相変わらず、電車に乗るのにギリギリの時間を攻めている。そして、エレベーターでホームに降り立った瞬間に発車してしまった電車を眺めながら、時間を有効に使いたいせっかちな私をもう1人の私が「焦ることないだろ、ゆっくり行こうぜ」となだめているのを聞いている。

【イラスト】本を読んでいる一人の車椅子ユーザー。そのまわりには、ショートケーキや犬のぬいぐるみ、CD、食べかけのチョコレートなどが浮いている。

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連載:あらゆるものが、はやすぎる|エッセイ連載