
やさしさの正体を巡って。ソーシャルワーカー 鴻巣麻里香さん、哲学者 稲垣諭さん対談 こここスタディ vol.32
思い返すと、物心ついたときから「やさしくしましょう」と言われてきた。家族や友達、先生など周りにいる人に対してはもちろん、ペットをはじめとした動物や虫、時にはおもちゃといった無機物にも「やさしくしましょう」と言われることがあった。
大人になった今「やさしくありたい」と思う。困っている人がいたら、「どうしたんですか?」とすぐに声をかけられる人でありたい。頼られたときに、「いいよいいよ! 気にしないで!」と気さくに伝えたい。日々がんばっている自分自身を大切にしたい。
けれど、やさしくあれないときがある。目の前のことに追われて余裕がないときや、傷つけたり傷つけられたりしたとき、体調が優れず気分が晴れないとき。そういうときはどうしてもやさしさが後回しになってしまう。時には攻撃的になってしまうことだってある。
あれ、そもそも「やさしさ」ってなんなのだろう?
性格? 気の持ちよう? 心の動き? 本能? 意思? どうしたら私はやさしくいられるのだろうか。
哲学者の稲垣諭さんと、ソーシャルワーカーの鴻巣麻里香さんに聞いてみることにした。
稲垣さんは、現象学や環境哲学を専門に東洋大学で教授を務めており、著書『やさしいがつづかない』(サンマーク出版)では「やさしいは感情の問題ではない」と記している。
鴻巣さんは、ソーシャルワーカーとして福島県を拠点に生きづらさを抱える人々の支援に携わりながら、自分と他者を守る境界線「バウンダリー」にまつわる著書を複数手掛けている。
おふたりの話は、「やさしさ」の定義から始まり、「コントロール」へのまなざし、ケアの現場が抱える構造的な課題、人間関係における「疲れ」にまで及んだ。
「やさしさ」は性格ではなく、行動?
——鴻巣さんは「やさしさ」をどう捉えていますか?
鴻巣麻里香さん(以下、鴻巣):今回お声がけいただいて改めて「やさしさ」について考えてみました。
現時点での私にとっての「やさしさ」は、性格や思いやりといった気持ちではなくて行動だと思っています。人の心はブラックボックスで、外から見えるのはどう行動したかだけ。それが持論になってしまっていて。
というのも私自身、「やさしい人」だと思われることが多くて。「やさしくしよう」と思っているわけではないのにです。そう思うと、行動においては「やさしいとみなされる選択」ができているのだろうなと。そして、それらが一定持続できているのは、稲垣さんの著書でも触れられていた、余裕があることが大きいです。
——『やさしいがつづかない』には自分の中にある「やさしいの芽」を育むための環境は「周囲の人々+余裕の力の土壌」で作られていると、書かれていました。そのうち、余裕の力を確かめるもっともわかりやすい指標として①経済面②時間面③健康面の3指標が示されています。
鴻巣:そして、余裕のほかに、自分の無責任さも関係していると思っています。
稲垣諭さん(以下、稲垣):無責任さ、ですか。
鴻巣:私が個人として誰かの行動に対して責任を負うのは、自分の子どもだけだと割り切ってしまっているんですね。
仕事で出会う相手が間違った行動を選択したとしても、「好きにしたらいいんじゃないかな」「そういうこともあるよね」と言ってしまえるところがあります。そうした姿勢も、周りからは、やさしく見えているらしい、と最近気がつきました。
稲垣:僕の本では、「やさしさ」に必要なのは「自分のコントロール権を手放し、相手に委ねることだけでは十分ではなく、その結果、起こることの責任を引き受けること」だと書きました。
ただそれとは違うものが「やさしさ」と呼ばれることもあります。たとえば、大学で教鞭をとっていると、「すぐに単位をくれる先生がやさしい」と学生に言われるんですね。そういう社会的なイメージとしての「やさしさ」は踏まえつつ、「行動」にフォーカスしてうまく定義づけてみたくて、この『やさしいがつづかない』を書いたところがあるんです。
鴻巣:今、稲垣さんのお話を聞きながら、自分が「無責任」という言葉を使ったのは自虐が過ぎたと思いました。実際は「無責任」というよりは「コントロールすることへのおそれ」に近い感覚なんです。
相手の行動がその人自身の生活や健康を大きく損なうものであった場合は、見過ごすことはしません。
ただ最終的な行動の選択権はその人自身にありますよね。一時的であったとしても相手の選択権を奪い、危機が回避できたとして。その人のなかに「自分で自分にブレーキをかけられた」という手応えは残らないんじゃないか。
その人自身にあるコントロール権を握りたくないし、握ってしまうことへのこわさがあります。「無責任」というよりも、本来その人が持つべき責任までも奪いたくない。たぶんそれは、対人援助という仕事をするなかでかなり長いこと私のなかに染みついているんです。
「やさしい人だと思ってもらいたい」にある危うさ
稲垣:責任といえば、本のなかで職場における上司と部下の例を書いたんです。鴻巣さんが携わる領域のなかで「失敗してもいいからとにかくやりなさい。失敗した場合の責任は私(上司)がとるから」というような場面はないですか?
鴻巣:対人支援という仕事において、責任の所在はすごく難しくて。
「支援」と「支配」は紙一重で、容易に相手をコントロールできてしまうんですね。対人支援で関わる相手の多くは、金銭的なことや心の健康、周囲との関係性など何かを損なった状態にあります。その損なったものを修復したり埋めたりしたいから力をかりにくる。私は埋めるための助力をする。
その時点で、私と相手の関係性は対等ではありません。必然、私から相手に投げかける言葉のほうが重くなってしまいますし、情報格差もあります。私は相手の家族関係、病歴、経済状態、成績といったあらゆる情報を把握していますが、相手は私のことを何一つ知らない。そうした不均衡な関係性のなかで乱れることなく、逸脱することなく持続しながら、相手が損なっているものを取り戻していく。
そもそも責任ってなんだろう、とも思います。「失敗の責任は上司がとる」を考えたときに、私が携わる領域・業界においてそもそも失敗ってなんなのか。そのあたりも大分特殊かなと。
構造の話でいうと、支援の現場にいる人は、余裕がない生活をしている場合も多いです。そのなかで私は幸運が重なって、のんびりライフを送れている方だとは思うんですけど。
対人支援職に限らず福祉職の多くは低賃金で時間外労働も少なくありません。社会構造的な問題が山積みです。働き手に給与をはじめとしたリターンが限られていると、不足する部分はそれ以外で埋めようとする心の動きが生じやすいんです。
たとえば、「目の前の人をコントロールする」「感謝されたい」と思うがあまり、「私の言う通りにさせなければならない」という支配のスイッチが入りやすくなってしまう。
そのスイッチにいかにブレーキをかけるか。この仕事を20年続けていますが、今でも毎日毎日課題にしています。言い換えれば「目の前の困った状態にある人から、やさしい人だと思ってもらいたい」というスイッチも入りやすい仕事でもあります。
稲垣:話を聞いていて、一般企業につとめている人における「やさしさ」の問題と、まさに今追い詰められて奪われて困った状態にある人たちにとってと、そういう人たちにかかわる職業についている場合とでは、考え方を変えていかないといけない気がしました。余裕の問題も含めて。
さらにいうと対人支援職、福祉職に留まらず、小中高の教員もそれと近いなと思いました。教員不足の課題も低賃金、土日の部活動をはじめとした時間外労働の多さなど、一筋縄ではいかない問題が多い。
ただその一方で、自らの情熱でなんとか乗り切れてしまう人もいます。先日、教育実習に行った学生と一緒に聞いた話なんですけど、メンターを担当してくれた先生に「部活動の時間は残業代が出るんですか?」と聞いたら、「出ないよ。でも、お金でやっているわけじゃない」と給与以外のやりがいを話してくれて。
そばで聞いている立場としては、「あ、もうこの学生は教職取らないかもな」と感じることもあります。
鴻巣:その先生の熱い思いに懐疑的になってしまうことがあります。「本当に自分の内側から湧いているのだろうか?」と。
対人支援職や福祉職、そして教員という職種で似通っているのが、周囲から善性を非常に期待されやすいということ。つまり、「あなた自身の善意と熱意で、その仕事についているんだよね」と思われやすい。
それをエネルギーにして続けている方は多いと思いますし、かつて私もそうした期待に応えている実感がエネルギーになっていたことがありました。
それが結果として社会構造の変革が進まない要因にもなってしまう。給与体系を変えずに善意と熱意で続けてくれるなら、経営する側や既存の社会のシステムとして、こんなに楽なことはありません。
周囲の期待に応えるエネルギーが不意に切れてしまったり、就職する前からその不健全さが見えてしまったりすると、どんどん人が離れ、なり手が少なくなる。悪循環につながっている印象があります。
稲垣:「教育」にしても、「福祉」にしても、「介護」にしても社会を支える上で本当に大切な領域ですよね。だからこそ社会的な構造や状況を変えるしかない。
先ほど話した学生も、結局教員になることを辞めてしまって。そう思うと、教員の道を選ばなかった学生もしかり、今の若い人たちは、「このままでは自分が削られてしまう」と察知するとその場から撤退したり、見切りをつけたりする人が多くなっているのでしょうか?
鴻巣:判断は早いと思いますね。私の周りでも、働くうえで尊厳が守られない、無茶な要求をされる、自分が心地よく仕事ができなさそうだと感じたら、潔く退職を選択する子たちが増えている気がします。
なので、民間企業では徐々に休暇制度や福利厚生の充実、適切な給与体系の見直しが行われているようです。そうした変革を、対人支援職、福祉職、教員の労働環境においても整えていくのが急務だと思うんですよね。
コントロールを「奪わない」「奪わせない」
稲垣:僕と鴻巣さんの本では「コントロール」の扱い方・捉え方に違いがありますよね。方向が正反対というか。
僕の場合はコントロール権を奪いやすい親や上司、先生といった立場の人たちに対して、コントロールを手放す必要性を書いている。つまり、加害をしやすい立場の視点から「(相手の)コントロールを奪わないことが重要」と言っているんですよ。
鴻巣さんの著書では、コントロールが奪われやすい、子どもや部下、生徒の立場、つまり被害を受けやすい側の視点で「(相手に)コントロールを奪わせないことが重要」と語っていますよね。さまざまな状況に置かれた子どもたちの悩みや疑問がストーリーで語られていて、「バウンダリー」を手がかりに対処する方法を示している。
さてバウンダリーとはいったい何でしょうか?ひとことで言うと「わたしはわたし」「あなたはあなた」という心の境界線です。家庭や学校など、他者とのかかわりのある場所では、誰かにバウンダリーを踏みこえられたり、自分のバウンダリーがゆらぐことで誰かのバウンダリーを踏み越えてしまうことがよくあります。
『わたしはわたし。あなたじゃない。10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』(リトルモア)鴻巣:そう言われてハッとしました。私、本当は奪っている人に対して「奪わないで」って言いたいんです。親子であれば親に対して、上司であれば上司に対して、パートナーシップであれば力をもっている側に対して、「これ以上奪わないで」と言いたい。
奪う側は、奪っていることに対して時として無自覚ですし、あるいは奪いたくて意識的に奪っている。私は奪われる側の支援をすることが多いからこそ、「これ以上奪わせないためには」「奪われたものを取り戻すためには」という、奪われた側の一つの対処法としてバウンダリーを伝えています。
本来は「奪わない」ことが当たり前だけど、それが通用しないこともあるから、「奪わせないために」と言わなければならなくて。
稲垣:著書にも、子どもたちのストーリーが書かれたあとに、「この本を読んでいる大人のみなさんへ」のコラムがあります。この本は若い人たちに向けて書かれていると同時に、実は本当のターゲットとして、大人に向けられているようにも思いました。僕自身、読んでいて身につまされるところがありました。
鴻巣:本の構成も含めて、大人を叱る大人がいることを示したかったんです。それは対人支援の現場でもそうで、私は子どもの何かを損なっている、奪っている大人に対して、子どもたちの見えるところで叱ることがあります。その行動は支援する子どもたちにとって、私に対する信頼の扉を一気に開くきっかけになることもあるんです。
稲垣:人を叱ること、厳しくあることって難しいですよね。
鴻巣:やさしい行動をとるよりも難しさを感じています。
稲垣:あの、メモしてきたんですけど。163ページに書かれた「私たち大人は、『世の中が安定すること』に目を向けてきたでしょうか」のところ。本当にそうだなと……。
たしかに不安定な世の中です。心配は尽きません。ですが、その中で安定して生きていくことを子どもに要求するのと同じだけの熱量を、私たち大人は「世の中が安定すること」に向けてきたでしょうか。世の中が安定することとは、つまり転んでもつまづいても揺らがない、あるいは転んでも立ち上がれる、そんな世の中になることだと私は考えます。
『わたしはわたし。あなたじゃない。10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』(リトルモア)鴻巣:一番書きたかったのはそれで。誰かのコントロールを奪うエネルギーで、今わたしたちを苦しめているこの世の中に対して、働きかけることをしてこなかった……逃げてきてたよねって。
ただし「奪う/奪わない」を考える上で、留意したいのは、現場で多くみられるのが、相手の何かを奪う人は過去に何かを奪われた経験があるということ。
安全や尊厳を奪われたことがあるから、奪っている人をロールモデルにして、自分よりも立場が弱い人に対して奪う側になってしまうことがあります。加害の背景には、往々にして被害があることがある。行動の裏には、その人の心の傷があり、苦しい経験をしてきた人がいつの間にか誰かを苦しめる立場になってしまう。
でも、被害に遭った過去があったからといって、加害を容認することはできないんですよ。
稲垣:そうですよね。被害に遭った人は、絶対にあなたは悪くなくて、そのことで自分を責める必要はない。
ただ物事がなぜ起きてしまったのかを捉える上では、相手にもなんらかの傷つきがあることも見なければいけない。この両方が必要ですよね。
鴻巣:どちらに目を向けることも必要です。ただ現在は、SNSなどをみると極端にどっちかに流れる状況があると思います。構造を検証したり、繰り返さないように学びませんかとなると、「あいつを許すのか」という受け取りになってしまう……。
稲垣:このふたつは違う論理なはずなんですけど、「加害側に加担するのか!」といった二項対立になりやすい。単純な構図で安心したい側面が人にはあるのかもしれませんね。
「権利」や「怒り」へのまなざし
鴻巣:今回の質問案に「ダメなやさしさがあるとしたら、どのようなものか」があったと思います。
「権利が守られているか」は、あらゆるものの物差しで揺るがないものの一つかなと思いました。やさしさであったとしても、怒りであったとしても。
自分と相手のバウンダリーを守るために欠かせないのが「権利(人権)」です。権利は、すべての人が「安全・安心に生きる」ために守られなければならないもの。もちろん子どもにも権利があり、国連がつくった、「子どもの権利条約」にも日本も賛同しています。
『わたしはわたし。あなたじゃない。10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』(リトルモア)人権と言うのは、やさしいがつづかない人間のために発明され、練り上げられた人間の知恵の結晶です。しかしこの知恵はいつでも、やさしいがつづかない人間によって軽視され、無視され、吹き飛ばされてしまう危うさをもちます。だから社会は、人権が損なわれている状況がないかを絶えずチェックして、それを護りつづける努力を継続しなければならないのです。
『やさしいがつづかない』(サンマーク出版)鴻巣:稲垣さんの著書の第4章「それでも『憎しみ』はつづく」では「悪意」にふれながら「怒りと憎しみ」が並列で書かれていたと思うんです。
「憎しみや怒りといった暗い感情は、多くの人にとって容易に、自動的に、意図せず生じてしまいます」と表現されていて。
「憎しみ」は人を不健康にするもので、できれば手放した方が楽だと私は思っているんですが、「怒り」はかわいがってしまう。プライドを守ってくれるので大事にしてしまうんです。
稲垣:「怒り」は、物事を解決しようとするより「自分のなにかが壊されたこと」をとにかく伝えているものとして考えることができます。鴻巣さんの話は、その通りだなと。
鴻巣:奪われた側の怒りと奪った側の怒りは異なる側面があるとも感じています。
「奪うことを辞めさせられた怒り」が奪った側にはあり、その怒りがなぜか長続きしてしまう。奪われている方は、怒りすら抑圧されている人がたくさんいるのに。
稲垣:奪われている方には「怒ってよかったんだ」からはじめなければならない局面が必ずあります。
厄介なのが、被害者が声をあげると加害者が被害者に転じるように見えることです。加害者の被害者性というか、たとえば「告発されたことがトラウマになって仕事にもいけない」と加害側が言い始めることは本当によくあります。すると、当事者たちの被害者ポジションの「奪う」「奪われる」の争いが始まってしまって。結局、最初の被害者の声を奪う戦略として機能してしまう。
最近『被害者性の政治学』(青土社、著:リリー・チョウリアラキー、訳:川副智子)を読みました。そこでは被害者性が生み出される仕組みの分析が行われているのですが、最も大切なことは、事実としてどんな行動があったかを見定めなければいけないということです。そして、あくまでも社会制度や権力構造の不均衡なあり方にしっかりと目を向けつづけないといけないと書かれていて、その通りだと思います。
「痛み」を加害者が強調してしまうと、被害者の「痛み」が奪われ、それで守られてしまう。多くの人は、こうしたおかしさに薄々気づいている気もするんです。
人間関係の疲れと「配慮」や「調整」
稲垣:バウンダリーや関係性の話に関連して、お伺いしてみたいことがあります。
大学生に向けて「休むこと」「疲れること」を主題にした授業を行っているんですが、今の大学生ってすごく疲れているんですよ。
勉強はもちろん、アルバイトや課外活動、人間関係、一人暮らしの場合は生活面などが要因だとは思うんですけど。それで、「大学生になりたての1年生はそれほど疲れていないだろうな」と思って聞いたら、1年生も疲れていて。
鴻巣:はい、はい。
稲垣:「いつから疲れているの?」と聞くと、中学生くらいから疲れを感じているそうなんですね。部活動が始まったり、授業の難易度があがったり、習い事もあって、それこそスマホを持つことで人間関係の疲れがより出やすくなったりと。
鴻巣さんの著書を読んでいても感じたのですが、今の学生たちはみんな、やさしいんですよね。それこそ、相手のコントロール権を奪わない配慮をすごく繊細にしている。
でも他方でそれが要因となって疲れも感じていて。さらには、配慮することによる孤立化も問題になっているんです。相手のバウンダリーを侵害しないように注意するあまり、踏み込めなくなっていく。
大学生の孤立からメンタルヘルスの悪化も生まれています。こうした問題について、鴻巣さんはどう思われますか?
鴻巣:特別支援教育で起きていることを考えていました。さまざまな事情で特別な「配慮」が必要である子どもたちに対して、配慮をすることで、学校のなかで「特異的な存在」になって孤立してしまう。
本来であれば「配慮」ではなく「調整」が適切だと私は思っていて。配慮というと、配慮する権限をもつ立場の人が行うもの、あるいはその立場の人のきもち次第、というニュアンスを感じるんですよね。「一緒にいると面倒だから離しておこう」と結びついてしまうと容易に孤立する。
稲垣さんのお話を聴きながら、それが特別支援教育にかかわらず、日常のなかで起きているのだろうとイメージしました。
一人ひとりの個別性や特性を大事にし、声をきく、それぞれのあった環境や場を調整するのは大切。でもゴールをどこに置くのかも大事だと思うんですよ。
私たち人間は社会的な生き物なので、自分がものすごく損をするわけではなければ、ちょっとのネガティブや痛みを引き受けて、コミュニティをつくっているはずです。配慮がその機会を奪わないようにしたいとは思っています。
自分にとっての快適が誰かにとっての不快、あるいは誰かにとっての快適が自分にとっての不快ということがあって、全員が100%快適な、完璧な環境を用意できるわけでは、当然ない。
そうなったときに、関係する人たちにとってダメージが一番少ないところをお互いに探していく、折り合いをつけて調整するのがいいのかなと思いますね。ただし、対等ではない立場同士での「折り合いのつけかた」では弱い立場の側が我慢や譲歩を強いられることが多々あります。支援教育を例にすると、学校のできる・できないと当事者の必要性に根差した要求の間を「調整」する場合、生活の質や健康にダイレクトに関わる当事者側の事情を中心に据えることが必要だと思います。
稲垣:「調整」って、いいですね。「合理的配慮」は英語で「reasonable accommodation」。日本語に訳されたときに「accommodation」が「配慮」とされたんですが実際「調整」のほうが意味が近いし、「合理的調整」と訳してもいいと思うんですよね。
僕は今、ノルウェーやアメリカ、オーストラリアなど各国でインクルーシブ教育がどうなっているのかを研究しているのですが、日本との感覚的な違いをなんとなく感じていて。
たとえば、障害がある人が教育の権利をもつことは当然で、それを支えるのは組織側の当たり前の義務。たずねた国はそれが当たり前の感覚としてある気がするんですが、日本はもう少し伸びしろがあるなと思ったりします。日本も障害の有無や背景にかかわらず、誰もがともに生きられるインクルージョンな社会づくりに取り組んではいるとは思うんですが。
鴻巣:組織に対して「義務でしょ」と伝えた瞬間に、「こわい人」になってしまうんですよね……。
稲垣:たしかに。「人権」という言葉をつかうときにも、似たようななにかがあるのかもしれませんね。
——気づけば、予定していた時間になりそうです。
稲垣:ああ、ほんとうですね。今回の対談にあたって鴻巣さんの活動をサイトで拝見したんですけど、奪われている状況に対して、バウンダリーを構築し直して、そのうえでもう一度、他者とどう関わり合っていくのかみたいなところを現場で行っているのだろうなと。ぜひ一度福島県の現場にお伺いさせてください。
鴻巣:もちろんです!今度新しく新拠点ができて、そこで哲学カフェを企画しているんです。ぜひ稲垣さんにゲストでお越しいただきたいです。
*
「やさしさ」とは、内面の感情ではなく他者へと向けられる具体的な「行動」である。ふたりの対話は、その前提から始まった。
個人の善意や熱意だけに頼るやさしさは、時に労働環境の不健全さを覆い隠して「支配」を生み、過剰な配慮による孤立や疲労を招いてしまう。
だからこそ、持続可能なやさしさには二つのステップが必要なのかもしれない。一つは、個人の思いやりに頼るのではなく、環境設計や人権へのまなざしをもちながら互いの境界線(バウンダリー)を守ること。もう一つは、誰もが100%快適でいることは難しいという現実を受け入れ、お互いに少しずつ折り合いをつけながら、最適な着地点を「調整」していくこと。
他者との関わり合いを諦めず、社会の仕組みと日々の関係性を整え続けることが、やさしさを持続させる可能性を高めてくれるのだろう。
自分と他者を区別する境界線「バウンダリー」。鴻巣麻里香さんによる解説記事はこちら
Profile
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鴻巣麻里香
ソーシャルワーカー/KAKECOMI代表
精神科医療機関勤務、東日本大震災被災者支援を経て、フリーランスのソーシャルワーカーとして福島県白河市を拠点に活動している。2015年に非営利団体KAKECOMI(カケコミ)を立ち上げ、こども食堂と民間シェルター(シェアハウス)を運営。福島県のスクールソーシャルワーカーを兼務し、子どもと親子をとりまく様々な社会問題に取り組む。3匹の保護猫と暮らすシングルマザー。2023年に『思春期のしんどさってなんだろう?あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題』(平凡社)を刊行。他共編著に『ソーシャルアクション!あなたが社会を変えよう!』(ミネルヴァ書房)がある。
Profile
- ライター:田邊なつほ
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建築業界の営業に従事し、ライターに転身。介護・福祉業界の採用支援を行う企業の業務委託ライターを勤め、イベントレポートやインタビュー記事の執筆を行う。編集プロダクションで編集者も経験。福祉・介護、ビジネス、アパレルなど幅広いジャンルの取材・執筆、コンテンツ制作が得意。
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連載:こここスタディ
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