
自分の「当事者性」に気づいて、人ともう一度出会い直す。地域活動家・小松理虔さんとの対話 【後編】 マイノリティ化する子どもたちと|青山誠 vol.04
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保育者の青山誠さんと、「保育」や「児童福祉」にとどまらない、さまざまな領域で活動する人をたずねる連載『マイノリティ化する子どもたちと』。第3回は福島県いわき市に、地域活動家の小松理虔さんをたずねています。
前編では、東日本大震災を経て小松さんが提案した「共事者」、そこからインスピレーションを受け青山さんが示す「共時者」という言葉を巡って、対談を行いました。
「何にでも“いっちょがみ”する」小松さんの働き方、「全体を見る」保育者のまなざしは、物ごとをただ正しく見ようとするだけでは生まれない、緩やかな他者との関わりを感じさせます。
対話はさらに進んで、お互いの領域を乗り越えていく偶然性や、不真面目さの話に。そこから立ち上がってくる、新しい「当事者性」をみんなで考えてみます。
偶然が響き合う瞬間を信じて
青山 保育者の「身体を場にする」感覚を、小松さんも園で感じたことがある、とおっしゃっていただきました。でも実はさっき一緒に小名浜の町を歩いていて、地域活動家である小松さんにも、そういう身体的な感覚があるんだろうなと思っていたんです。
今の港の気温や照りつけ方だとか、地元の人たちの仕事の忙しさや生活状況とか、その場にいなくてもなんとなく地域のことが響いているんですよね。そういう掛け合わせから、ひょんな出会いにつながっちゃうことが小松さんの周りで起こりやすいのかなって。
小松 そうかもしれないですね。広い視野を持てるかどうかは僕の仕事でも重要で、よくアシスタントに「何か一つにフォーカスするんじゃなくて、自分の周りの全てから情報を受け取れる状態にしておくんだよ」と話すんです。
すると「あそこにお店ができたな」とか「今日はどこのナンバーの車が多い」みたいな気づきが増えて、それが新しい仕事の種になったりする。出会いをマニュアル化するのは難しいですが、町の中で集中しているときの感覚そのものは、身につけられると考えています。
青山 そこで生まれる偶然性とか、小松さんが本で紹介されている「誤配」(※注)の可能性って、すごく大事だと思うんです。それこそ保育も、現場に偶然性や誤配があるから、時におもしろいことが起こる。
でも“うまい”保育者になると、先ほど小松さんが積み木のエピソードで指摘されたように、偶然性すら予測して呼び込もうとしてしまうんですよ。それって結局、偶然性を排除した、支援者が困らない活動になっていき、「丁寧な関わり」の名目で子どもたちを選別したり、序列化したりするようになってしまうんですね。
(注:間違った宛先に届いた結果、新しいイノベーションが起こること。もとは思想家の東浩紀さんが提唱した概念)
青山 実は僕自身、保育の実践について発表したり、文章を書いたりし始めていた30歳過ぎぐらいでそこに悩むようになり、一度は保育を辞めようと考えました。10年くらいやって子どもたちの動きを予測できるようにはなったけど、その限界を感じていたし、「こういうことがあったから、こう発展しました」みたいな順列的なプロットで物語化して書く難しさも感じていたから。
子どもたちと一緒にいて解放された経験から保育者になったはずなのに、気づけば子どもを想定内の出来事におさめていくようなことをしていて、「20年、30年とこれをやっていく意味があるんだろうか」と思ってしまってたんです。
小松 どうやってそこから抜け出したんですか?
青山 あるとき、散歩中に子どもたちが好き勝手に動き始めてしまって。僕らの世界では、“保育の崩壊”と言われるような出来事でした。でも僕自身は、大人の引いた境界線を子どもたちが軽々と乗り越えていった瞬間にすごく救われた気がして、「もうちょっと保育をやっていけるかも」と思ったんです。
あの子どもたちの振る舞いは、保育者が意図したものでなくて本当に偶然だったと思います。そういう偶然性や誤配への信頼を、小松さんは持てている気がするんですよね。
本人ではなく、支援する側が「止める」構造
小松 誤配の中で、人が人であるから響き合ってしまう瞬間が僕は好きなんです。それは〈クリエイティブサポートレッツ〉に取材に行って、障害のある人たちのサポートをした経験が大きかったと思います。
それまでは心のどこかで「福祉事業の担い手が福祉をやるべきだ」と思っていたけど、いろいろ任されるなかで楽しめる自分を知って、「そうか、俺も福祉の担い手だったのか!」という感覚がありました。福祉の仕事は、本当はもっといろいろな人に手渡せるはずだし、それを専門家でなくても楽しめるなんてむしろ得じゃん、と思っちゃったんですよね。
それに、支援が必要とされている人たちと過ごしてみると、実は自分にも似たところがたくさんあるとわかるんです。福祉や障害というものは自分から離れた人たちのところにあるわけじゃなくて、もうすでに「誤配されていた」と気づいた感じでした。
青山 レッツを訪れたときのことを書かれた『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)で、小松さんが放って置かれる冒頭のシーンが、僕は好きなんですよ(笑)。実は〈上町しぜんの国保育園〉でも、近くにある就労継続支援B型事業所の〈ハーモニー〉とよく交流があるんですけど、すごく似た雰囲気で。小松さんは、いろいろな場所にあんなふうに入って行かれるんですか?
小松 僕はああいうとき、ちょっと演劇っぽく場を捉えるというか「あえてこれに乗っかって流れてみよう」と考えますね。原発事故後の集会など現実ではシビアな瞬間も、「見方を変えると、盛り上がりのある場面に俺は今遭遇してるのかも」と思えることで、その場に居続けられるようになるというか。
その一方で、どこに行っても“過剰チューニング”しちゃうタイプでもあります。福祉施設で利用者さんの振る舞いにもそのまま乗るし、園の読み聞かせや食育プログラムでも子どもたちと一緒にはしゃぐんです。ただ、そうすると周りの人から止められちゃうことが多いんですよね。「子どもたちが興奮すると、小松さんに迷惑をかけてしまうかもしれないから……」って。
青山 それは福祉あるあるかもです。保育に限らず領域が細分化していくほどに、専門家は「触らないでください、乱さないでください」と今はなってしまっています。
先ほど「良いとされる保育者ほど予測が立てられる」という話をしましたけど、小松さんがはしゃいで子どもたちがハイテンションになると、予測が崩れてしまうんですよ。ただ、それは保育者や支援者にとって困らない、“凪”の状態なんですよね。
小松 そうですよね。子どもは子どもなりに、距離を保ちながら歓迎してくれていると僕は思うけど、当事者ではない、傍にいる支援者の「周りに求める」言葉のほうが現場では強く働く。そうならざるを得ない社会になっていると感じます。
立ち入り禁止ラインを「不真面目さ」で問う
青山 現場との間にそういう壁が生まれてしまうのは、やっぱり誤配がなさすぎるからだと思うんです。不確実性を認められないから、その前に止める社会になっていく。
保育園や幼稚園でも、最近は虐待問題に対して通報制度が整えられたり、衛生管理が徹底されたりして、ますます誤配がなくなったと思います。コロナ禍においても、防ぎきれないと本当はみんなわかっていて、それでも「絶対に死なせないで」という雰囲気がありました。もちろん最善は尽くすけれど「絶対に死なない」なんて誰が言えるのかと、僕は当時かなり怒っていたんですよ。
小松 今、あらゆるリスクの中で一番わかりやすく深刻なのが「死」ですよね。「何かあったら困る」の「何か」にいつも死が想定されて、死ぬかもしれないから全部ダメ、みたいなことになってしまう。
本当は、コロナでも震災でも、人は死ぬリスクに日々晒されていると僕らは気づいたはずなんです。なのにやっぱりこの社会では「人を死なせないこと」が強い正義になっていて、そのずっと手前のところで止まっちゃっています。
青山 リスクのない状態を目指すと、現場ではひたすら真面目にならざるを得ないから、みんなが緊張していくんです。小松さんがよく「不真面目」という言葉を使っているのは、あえてそこに抗っているのかな、と。
小松 僕は不真面目というのは、調子に乗って不埒なことすることではなくて、時代の中でいつの間にか引かれた境界線をちょっと超えてみせたり、「ここってそもそも、立ち入り禁止なんでしたっけ」と問うたりしていくことだと思うんですね。それも、活動家っぽく「ライン超えてやったぜ!」じゃなく、「ちょっとごめんなさい、なんか超えちゃった」みたいな感じがいい。
破壊ではなく、遊び心的な不真面目さのある活動が必要だと思うんです。
——実は訪問前に、小名浜出身の上町しぜんの国保育園の保育者さんが、「小松さんの話す不真面目さは、保育の“遊び”のおもしろさに通じる気がする」とおっしゃっていたんです。そのことを今思い出しました。
小松 そうそう。不真面目さのラインを探る行為って、子どもの頃はよくやってたと思うんですよ。「どこまでやったら先生に怒られるのかな」とかも考えながら、そこにいる人たちなりの「このくらいなら大丈夫」ってルールを作っていたはずなんです。
でも今は、初めからラインが引かれちゃって、それを超えることがダメだと思わされてることが多い。もっと素直に疑問を投げかけてみたり、ラインを超えたりする「テヘペロ」を僕はもうちょっと増やしたいんです。
第三者である共事者は、内側のルールを知らないからこそ、そういう不真面目さで世の中のいろんな不文律を、ちょっとずつ更新できます。多少の摩擦は起きるかもしれないけれど、むしろ「そうなっても大丈夫だ」と人を信頼するだけの場数をこなしていかないといけないんですよ、僕らは。
自分という「当事者」を思い出すことから
青山 専門家が外の人に頼ったり助けを求めたりすることがどんどん苦手になっているのを、何とかしたいなとは思うんです。ただ、内側から変えていくのもなかなか難しい。小松さんは実際、どんなふうにラインを超えていくんですか?
小松 僕ね、娘の小学校の読み聞かせにも行くんですけど、当番じゃないクラスにもわざと入ったりするんです(笑)。ラインの先が「本当に立ち入り禁止なのか」を確かめる、みたいな行為ですよね。立ち入り禁止ラインを越えない教育を受けてきた大人にとって、これは簡単ではないと思います。でも「小松があんな風にできるなら、自分も」と思う人が増えればいいなと。
ただ、そういう不真面目さを許容する状態をみんなで協力して作っていくには、やっぱりさっき見せてもらった「布置」の図が必要ですよね。異なる領域で別の物ごとに当たっていたとしても、共時者として全体のつながりが見えていれば「あなたはそこで、こういうふうに不真面目なことをしようとしているんだね」ってわかるじゃないですか。そうしてよそ者を受け入れたり、死について語ったりしやすくなれば、世界はよりポリフォニックに響き合っていくような気がします。
青山 先ほどの、不真面目さについて話してくれた職員は、「子どもに何かをダメだと言ったら『なんで?』と真っ直ぐに聞かれたことで、自分の中でも『いいのかも』と思えるようになってきた」とも話してくれました。僕自身、子どもと一緒にいるからこそ自由になる瞬間って今もあるんです。
小松 僕もです。園で子どもたちが美味しそうに水道水を飲むのを見て「俺も蛇口からごくごく水が飲みたい!」と思ったら、そのまま一緒に飲んじゃいますね(笑)。
僕らは「親が子どもと一緒になってはしゃいじゃダメだよな」と思うように教育されてきたけれど、そういう自分の衝動性に素直になれるといいのかなと思います。誰かが決めた安全基準を優先させている場面が多いからこそ、もう一度「私」を解放していく、というか。
青山 最初に共時者の話をしたとき、保育者から見たら「大きくなっても5歳の彼らが居続ける」と話しましたよね。僕らには、大人になるにつれて自分を過剰に適応させて、大人の姿に変体しちゃっただけのように見えることも多いんです。内なる情動は、時を経ても変わらないんだなっていつも思います。
小松 解放というと、一人の時間や仕事が終わってからのご褒美みたいなもので飼い慣らされがちですけど、それぞれが「本当は別にやってもよくね?」と思ってることがあると思うんです。怒られるかもしれないけど、昼間からビール飲めたらいいな、よし、今飲んじゃうか!みたいな(笑)。世の中もっと大人がハメを外せたら、子どもも自由になれるところがきっとあるだろうなあと。
それって、自分という当事者を思い出すことだと思うんですよね。抑え合っていた「私」同士が出会うのは嫌なことだったりもするんですけど、それを経験していかないと、わかり合うことはできないですよ。ぶつかっていくこと自体を、もっとみんなで楽しめるといいのかもしれません。
——今のような意味で当事者性を考えていくと、社会での「当事者」という言葉の使われ方もまた変わっていくように感じました。
小松 「自分を知り、相手を知ることで、ケアが成り立つ」ということを、まさにここ数年、福祉施設で濃密な時間を過ごして実感したんですね。利用者に対して苛立ちを覚えたときも、「なぜ自分は今、イライラしたんだろう」と思考の癖や背景を知ろうとすると、自分の行動が変わる。それによって相手の行動も変わるからトラブルが減っていくわけです。
最近、地元の友人たちの話がメインとなった新刊『小名浜ピープルズ』(里山社)を出しました。実はそこでも、執筆過程の対話によって僕自身が変化することを実感したし、それを許容していいんだと思えたんです。他者との関係や変化に対してオープンな姿勢でいて初めて、本音が言えるし、「立入禁止」のラインにも入っていけるんだな、と思う機会になりました。
互いのナラティブを聞き合える社会へ
青山 『小名浜ピープルズ』は今までの本以上に、その場の風とか匂いをふわっと感じるみたいな軽さがあるなと思いました。
あと、最初に「共事者」を文学的な言葉だと話したけれど、僕は小松さんが書きたいことを書くには、ジャーナリスティックな文章よりも、フィクションの方向にいきたくなるんじゃないかなという気がしたんです。『ニューロマイノリティ』(北大路書房)を僕自身が書いたときも、幼い子どもたちがぶつかる分断をフィクションだったらリアルに書けると思ったので。
小松 人の語りやフィクションのほうが、読者に自分ごと化された状態で届くし、問いかけを残しやすいなと思います。論は「こう受け止めて考えてください」と筋道立てて考える一方、フィクションは道ではなくて方角を示す感じ。論を楽しめる状況も大切なんだけど、『小名浜ピープルズ』では半径数メートルの、論と論を戦わせるだけでは変えられないことに向き合ったから、より文芸寄りになったのかもしれません。
小松 でも実は『新復興論』を出したときも、事実の結びつけ方が虚構だと言われたことがあるんです。確かに専門家が学術的に考えると、簡単には結びつけてはいけない事案も、僕の中では布置の図のように共存していました。その結びつきを解釈した、あれもある種のナラティブなんです。
青山 小松さんのナラティブに触れた人もまた、独自の布置を描くはずですよね。いわきの炭鉱の話に強い点を見つける人もいるだろうし、震災のことを考えながら読む人もいるだろうし。語り得ない部分も含めて、思い入れも受け取り方もそれぞれにあるのが大事だと思います。
僕らの園では、チャットアプリでそれぞれが子どもと関わって感じたことを挙げる「ナラティブツリー」という活動をしていて、7年目でもう5000以上の投稿が集まっているんです。子どもと過ごして感じたことって、意外に大人同士で共有されないから。保育園の時間の無さや勤務体系の問題だけではなくて、そもそも「こんなことぐらい別にわざわざ、引き止めて言うほどのことでもない」みたいな小さいことは表しづらいんです。
だけど、帰り道になんとなく頭に残る場面があって、誰かに聞いてほしいと思ったりする。みんな結構、夜の投稿が多いんですよ。
小松 めちゃくちゃいい取り組みですね。
青山 基本的に読むのも書くのも義務じゃないので、反応やコメントもまばらではあります。でも大事なのは、ここに投げれば“誰か”が聞いてくれるということ。別に慰めもしないし、そういうときあるよなと思いながらただ「いいね」を押すだけなんだけど。
——改めて考えると、保育者の方々の声も奪われていますよね。「今の社会で安心して発言できる場が少ないのは子どもだけではない」と連載を進めながら感じていました。
青山 不当に封じ込められているとか、代表者性を取られているのもあるけど、「じゃあ語ってみて」と言ったときに意味がつけられないことが多いのも、現場の語れなさにはあるんです。「園庭を見ると、子どもって隅っこにいるんですよね」「だから?」「……それがいいなって思って」みたいになってしまう。
小松 僕も保護者として先生たちが何を考えてるのかを聞く時間や余裕がなかったけれど、今聞いていて、「それは工夫して作ろうぜ」と言いたいですね。聞けば「先生、そんなこと思ってたのか」と変わっていくと思うから。そこが遮断されている状態なので、中の声も聞こえにくくなっていますよね。
青山 そうそう。聞こえにくい、もしくは脚色されて伝わりやすい時代になっていて、そのままの形で聞いてもらえる環境がないんです。
小松 本当は誰でも、保育について話したいことがあると思うんですよ。僕は保育の専門家ではないけど、今日もこうやって青山さんと対話できたわけで。全てを縦割りに「私は幼い子どもがいないから関係ない」「子育ては、保育園や子どものいる家庭に」ではなくて、みんなが自分の見えている世界をシェアし語れる場を作っていけたらいいですよね。
最近は文化事業でも、プロセスごとアーカイブして残す試みが増えてきているんです。あるアートプロジェクトの報告書では、集会の会話を全てそのまま記録していたりします。大事なのは「何人来場したか」という数字ではなくて、来場したひとりの心が動いたり行動が変わったりすること。そういう文化の力を把握したり証明したりするには、プロセスごとやるしかないじゃん、と。
青山 そうですよね。他者のナラティブには「印象に残ったことを、自分も誰かに聞いてほしい」と思わせる力がある気がして。こうやって一つにまとめられているのを見て、改めて大事さを確認できた気がします。
小松 保育園と地域の関係なども、本当はそうしたナラティブの先に生まれてくるのかもしれません。ちょっと傷ついたり言い合っちゃったりすることも含めて、他者との関わりが増えてこないと人への信頼も育まれていかないから。
今日、素人の僕の意見に青山さんが一度も「でも、理虔さんは保育をご存知ないですよね」と言わなかったのは、小松理虔という“むき身の僕”を見てくれていたからだと思うんです。僕に小松理虔としての専門性と当事者性が誰よりもあるように、みんなそれぞれの当事者性がある。そこから出てきた言葉を集めて、時にはぶつかり合っていくことで、僕たちは他者への信頼を取り戻せると思うし、この先どんな偶然が起きても「土台を共有している俺たちなら最悪なことは起きない」とも思えるはずです。
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- ライター:ウィルソン麻菜
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「物の向こう側」を伝えるライター。製造業や野菜販売の仕事を経て「背景を伝えることで、作る人も使う人も幸せな世の中になる」と信じて、作り手のインタビュー記事や発信サポートをおこなっている。個人向けのインタビューサービス「このひより」の共同代表。現在は、二児の英語子育てに奮闘中。




