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「あの人ばかりずるい」の向こう側──小松理虔/星山麻木/香山哲 言葉のもやもや歩き vol.03

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自分は自分、人は人。本当はそんなふうに思いたくても、なかなか思えない瞬間はあるものです。「なんで◯◯さんだけ……」そんな一言が相手の、あるいは私の口からこぼれる背景には、何があるでしょうか。

社会の中でときどき聞く、人々の幸せ(=福祉)に確実に影響を与えているだろう言葉をみんなで考えていく連載『言葉のもやもや歩き』。第3回のテーマは「あの人ばかりずるい」です。

今回は、福島を拠点にさまざまな分野の企画や情報発信に携わる小松理虔さん、教育や保育の現場をよく知る星山麻木さん、長くベルリンに暮らしマンガなどの創作活動に取り組まれてきた香山哲さんの3名にご寄稿をいただきました。

・小松理虔さん(地域活動家)

・星山麻木さん(明星大学教育学部教育学科 教授)

・香山哲さん(マンガ家)

「正しく」なくても語りたい 小松理虔

わりといつも思ってしまうのことのひとつだ。あの人ばかりずるいって。

たとえば人気の研究者とかがある社会課題について穏やかなトーンで知的に分析しているのを見たり、答えの出しにくい問題にズバッとカッコよく語る論客が聴衆から「さすがです」なんて称賛を送られているのをみたりすると、「ずりぃなあ」とよく思う。ぼくにはこれほど明晰に分析できる頭もないし専門性もないし、そんなふうにズバッとは言い切れない。自分の考えはいかにも幼稚だし、なにより中途半端だ。そう感じて口をつぐんでしまうこともある。どうやらぼくは、自分とだれかを比較して、なにかを語るうえでの正しさや説得力を有していそうな人に対して、「ずるい」と思う傾向があるようだ。

でも、こんなことを書いているぼくだって、そう言われたことがある。なんで小松ばかりがメディアに取り上げられてるんだ。被災地の代表づらしやがって。そんな呟きをTwitter(X)で何度か目にしたし、ぼくが震災当時から福島県在住なのを知った人から、「小松さんは当事者だから語れるんですよ」なんて面と向かって言われたこともあった。そのときはカチンときたけれど、少しわかる気もする。自分だって苦しいのに、自分だってそれについて語りたいのに、なにか象徴的な体験の当事者など、認められた一部の人しか語る権利がないかのように思えたり、自分の話なんてだれも聞いてくれないじゃないかと感じたりすることが、ぼくにもあるからだ。

ただでさえ自分と他者を比べてしまうぼくたちが、「ずるい」と思う気持ちから解放されるのはそう簡単ではない。むしろ、「ずるい」と思う気持ちとうまく折り合いをつけられたらいい。そのためにも、専門家や当事者の声をいったん意識から外し、「正しく語る」ことから距離をとって、自分の言葉を口にできる場があるといいなと思う。

じつは、この文章を書きながらこう考えた。「ずるい」という言葉を使ってみたからこそ、「ずるい」という感情に変換される手前にある、背景とか構造みたいなところに思い至ることができたんじゃないかと。ぼくに問いを投げかけてくれた「こここ編集部」の皆さんがいたように、だれかがなにかを語るには、聞いてくれる人が必要だ。

発信ばかりがもてはやされる時代だけれど、3分でも5分でも、だれかの日々の言葉に耳を傾けること。それが、ぼくたちの抱える「ずるい」と折り合うための支えになっていくんじゃないだろうか。

さみしさを思いあう先の「特別ルール」 星山麻木

ある中学校で、先生が黒板に字を書きながら、「Aくんはタブレットを使っていいけど、他の人はノートで写してね」とクラスに話しかけた。「なんで? Aくんだけずるい」「ぼくだって使いたい」と生徒たちは口々に言う。先生は振り返ると、「皆はなぜ、Aくんのことをずるいって思うんだろう?」と問いかけた。そして黒板に、歪んで二重に見えている字を書いてみせた。

「Aくんはみんなと同じスピードで黒板の字を写すのが難しいんだよ、だってこんな風に見えているんだから」。生徒たちは驚き「なるほど、Aくんはタブレットを使うのは当たり前だ」と頷いた。人が誰かに対して「ずるい」と感じるのは、大抵、その事情や理由を知らないからだ。でも、なぜその人を特別扱いしなければならないのか、理由を知ると気持ちは変わる。多数派のルールを当てはめるばかりが正義ではない。状況に応じて、少数派のために必要なルールを理解し納得しあうことは、大切な教育なのである。

一方で、「あの人ばかりずるい」と思う裏側には「私もそうしてほしい」という気持ちも隠れているように思う。だから自分が頑張って我慢もしているとき、ゆとりがなく疲れているとき、「ずるさ」を感じやすくなる。

私は「◯◯さんだけずるい!」と聞いたら、「なるほど、あなたにも特別な対応がいるんだ」と心の中で通訳するようにしている。本当は自分もさみしい、理解してほしいと願っている気持ちの現れなのだ。先ほどの生徒も、苦労して黒板を写していたのだろう。努力をもっと認めあう場もあっていいかもしれないし、そうした関わりのなかでまた、別の困難を抱えた子が見つかるかもしれない。

人間は、見かけだけではわからない様々な違いがある。多数派か少数派は状況によって、入れ替わる。脳・神経系の発達は生物学的なもので、誰一人として同じではない。家庭環境も違う。兄弟姉妹の有無も違う。どれも私たちが自分で選んだわけではないし、努力しても報われないこともある。頑張っても出来ないこともある。その中で共生社会を実現するには、「特別なルール」を認めあい、互いを思いやる優しさが必要だ。

私たちは「ずるい」と傷つけあうこともある。だが、一人ひとりの違いを尊重すれば、それぞれの困難や苦労を理解で包み込めはしないだろうか。一生、多数派の立場にいたり、健康で何でも一人で出来たりするわけではない。他者の支援を今は必要と思っていない人も、最初は弱い者として生まれるし、どれだけ身体が強くなってもやがては衰えていく。「ずるい」の向こう側を理解し、納得しあうことは、誰もが生きやすい社会に近づくための一歩になる。

不公平をめぐる、想像力の働かせかた 香山哲

「あの人ばかりずるい」って、実は自分の日常ではほとんど聞かないセリフだ。それでも今回テーマになっている。

・世の中では、このセリフがよく使われている。
・あんまり誰も言わないけど、心の中では思っている人が多い。

みたいなことがあったりするんだろうか。単純なルールの違反や悪用なんかには使われにくいセリフだと思う。

嫉妬というのは見苦しいものと思われがちだ。しかし今の世の中、「世界は不公平だ」ってことについての詳細を、みんなよく知っている。「何歳までにこういう機会や環境が無いと、こうなれる可能性が一気に低くなる」とか「こういう脳の使い方は、これぐらい遺伝の影響がある」とか、あるいは格差の発生メカニズムもかなり明らかになっている。それをおとなしく受け入れず、不満を出すのは見苦しいことだろうか。素直というか、まともな反応であるような気さえする。

そう考えると、自分のまわりで「あの人ばかりずるい」という言葉を聞かないのは、こんな理由なんじゃないかと思った。

・非難したいなら、「あの人」ではなく不公平の発生源に向けるのが妥当だから。
・不公平の存在が当たり前すぎて、言う気が起きない。

みたいな感じ。どこの国で生まれ育ったとか、どういう方法で生活しているとか、色んなバックグラウンドの人たちが日常にいると、違いが当たり前すぎて気にしていられないのかもしれない。何か独自の芸術や表現に取り組んでいて、自分と他人と比べること自体が縁遠いことになっている人もいそうだ。

実際自分も「不公平へのカバーを発達させて、人々が世を恨む心をなるべく小さくできる方向に励んでいくといいんじゃないか」のような発想になる。

あるいは想像力を働かせれば、こういう考えもできるだろう。

・得ばかりしている人に見えても、とんでもない苦労を抱えているかもしれない。
・恥や非難を気にしていられない必死さで、自分の何かと戦っているかも。
・向こうから見れば、こちらがずるいと思うかもしれない。

なんとなく特定の人のことが気になってしまって、意識から消したいのに浮かんできてしまうことは、自分にもある。そういう時に僕は、自分の側に何か反応してしまう原因とか、成熟させないといけない要素があるんじゃないかと考えることに興味が沸く。もしかしたら自分が深まるチャンスにつながるかもしれない。

そうした想像力の使いかたをしていくことで、僕の場合は流れやすい方向に感情が振り回されずに、自分の気持ちが落ち着いていく。


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