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「こんなこともできないの?」の向こう側──午後/北村匡平/奥山理子 言葉のもやもや歩き vol.05

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「もう◯歳なのにできないの?」「このくらいできるはずだよ」。個性、あるいは多様性が大事と言われるようになっても、私たちの身の回りから、“一般的”な力や成果と比べる言葉が減らないのはなぜでしょうか。

社会の中でときどき聞く、人々の幸せ(=福祉)に確実に影響を与えているだろうフレーズをみんなで考えていく連載『言葉のもやもや歩き』。第5回のテーマは「こんなこともできないの?」です。

今回は、雑誌やSNSでエッセイマンガを連載している午後さん、研究者として公園のフィールドワークをしている北村匡平さん、障害福祉施設の運営する美術館を拠点にアートプロジェクトを手がける奥山理子さんの3名にご寄稿をいただきました。

・午後さん(マンガ家)

・北村匡平さん(東京科学大学 准教授/批評家・随筆家)

・奥山理子さん(みずのき美術館 キュレーター)

熱帯のオウム、南極のペンギン 午後

鳥が好きだ。彼らは恐竜の末裔とも言われておりながら可憐で、飛行可能な無駄のない肉体や美しい羽毛を持ち、時に珍妙な挙動を見せる。動物園の鳥の展示の前では毎度長く足が止まる。

特に、熱帯に住むオウムと南極に住むペンギンが好きだ。どちらも同じ鳥でありながら異なる性質を持ち、異なる環境で生きている。それ由来の差異も愛らしい。そんな彼らに「オウムはカラフルで綺麗なのに、ペンギンは地味……」「ペンギンは泳げるのに、オウムは泳げないだなんて」といった言葉を投げかける人はいない。

オウムやペンギンのように環境の違いがわかりやすいと違いを認めやすいが、日本という同一地域に住んでいると差異を自覚しにくく認めにくい。人間も、それぞれ異なる性質を持って生まれ、その後の生育環境や人生の大きなイベントに至るまで全てが異なるのに、私たちは互いを比較してしまう。周りの人ができることができない自分に嫌気が差す。自分にできることができない人を、努力不足だと感じてしまう。

「こんなこともできないの?」と誰かに対して思うとき、人は皆見えない背景を持つこと、持って生まれた性質でそれになんとか順応して今日まで生きてきたことを思い出すようにしている。私の認識では、個性とは【その人がその人の人生を歩む上で正解だった姿】である。たとえば絵が得意な人は、物心ついたときから絵を描くことが好きで、更にその能力を周囲から認められて育ったりしている。それが、この社会で生きていくための武器になることもあるだろう。一方で苦手なことは、その人の人生の上では磨くことが困難だった性質なのだと理解している。

飛べない鳥がいるように、そもそもできないことはあって当然だ。社会の普通とされるラインも、クリアできる人材が集まった方が社会が円滑に回るから掲げられているだけのロールモデルに過ぎない。完璧超人に見える人も、実はできることしかやっていないだけなんてことはザラである。

ちなみに私は連載を持つマンガ家だが、壊滅的に計画性がない。長年に渡り改善を試みてきたが、どうやら難しいことがわかった。編集さんに相談し、締切を管理してもらう方法を取っているが、これで良いと思っている。自分が苦手なことを得意とする他人に任せることは逃げではなく、群れを成す人間社会の利点を活用する知恵だと思う。その代わり、自分の得意なことで社会に貢献すればいい。

補い合うことができる社会構造の中で「こんなこともできないの?」と人を蔑んでいる暇など、本来はないはずだ。持ちつ持たれつな世の中であってほしいと、日々願っている。

“できなさ”に潜む豊潤な時間 北村匡平

日々、三児の父として子育てをし、大学で学生と向き合っていると、ふと「こんなこともできないの?」と思ってしまう瞬間がある。忙しさのなかで、こちらの段取りや常識が先に立ち、相手のペースを待てなくなるのだと思う。そんなとき、いつも思い出す言葉がある。脳性マヒ者だった横塚晃一さんが残した文章だ。

「我々障害者は、一束かつげなくても落穂を拾うだけ、あるいは田の水加減をみているだけでもよしとすべきであり、更にいうならば寝たっきりの重傷者がオムツを替えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働としてみられるべきなのです。このようなことが、社会的に労働としてみとめられなければならないし、そのような社会構造を目指すべきだと思います」(『母よ!殺すな』)

私たちはつい、できる側の物差しで相手を測ってしまう。けれどそれは、目の前の人を見ているようで見ていない。「できる」を自分の尺度で押しつけないこと。相手にとっての「できる」とは何かを想像すること——。「こんなことも……」が口に出そうになったら、私は横塚さんの金言でいったん立ち止まるようにしている。

それに、そもそも私たちは「できる=良い」「できない=悪い」と決めつけすぎてはいないだろうか。昔は「こんなこともできないのか!」と怒鳴られる場面が普通にあった。いまは配慮が広がり、露骨な言葉は減った。けれど別のかたちで、「できる」へ急がせる空気は残っている。手取り足取り整えて、早めに成功体験を渡す。大学でも、シラバスの到達目標や課題設計によって、学生に“できた気分”を渡すことは難しくない。

ただ、「できない」に触れないまま育つと、失敗や不安に出会った瞬間に、折れやすくなる。だから本当に大事なのは、簡単に「できる」を与えることではなく、「できない」に耐えるための時間を確保してあげることなのだと思う。

私は遊び場の調査で「森のようちえん」を訪ねる。山登りや沢登りは小さな子に容赦なく“できなさ”を突きつける。すぐに大人が手助けして褒めると自分の限界を知らないまま育ち、いざというときに危険な目に遭うことがある。保育者はむやみに助けず、危険だけは見張りながら、ただ待つ。放置ではない。それは他者を尊重し、信頼を手渡す、積極的なケアだ。

ある公園で、巨大な滑り台を前に立ちすくむ子がいた。20分以上、親は黙って待っていた。その子が恐怖と交渉した時間は、大人に整えられた「できた!」という快楽よりも、深く豊かな経験だったはずだ。いま、子供を信じて手放すことが苦手な大人は多い。“できなさ”を、欠陥として急いで埋める対象ではなく、自らと向き合う大事な時間だと捉え直したい。そうした眼差しが広がるとき、「こんなこともできないの?」は、相手を裁く言葉ではなく、自分の物差しを置き直す合図に変わるだろう。

壊れた給湯器と透明な女の子 奥山理子

自宅の給湯器が壊れてお湯が出なくなった。寒い。冷たい。それにも関わらず、私はその後かれこれ10日以上もガス会社に電話ができずにいる。お風呂にも入れないので、毎日ホテルのスパやスーパー銭湯に通う羽目に。先日はついに銭湯にも出かけた。「羽目に」とか「ついに」を使うのは、私が共同浴場の類いをかなり苦手としてきたからだ。温泉旅行なんてこれまで一度も行きたいと思ったことがなかった。

それなのに、たった一本の修理の電話よりも、苦手な空間での入浴を選ぶ私。決して難しいことではないはずなのに、その調整や手続きといった現実的なやり取りを想像すると、たちまち億劫になってしまうのだ。深夜、仕事で疲れた身体を引きずり、勝手の分からない大浴場の暖簾を緊張しながらくぐるたびに思う。

「こんなこともできないの?」

ムーミンの物語に登場する「ニンニ」という女の子を知っているだろうか。彼女は、おばさんから毎日のように皮肉を言われるうちに、それがあまりに辛くて青ざめてしまい、次第に姿が消え、声も聞こえなくなってしまった。見兼ねたお友だちに誘われてムーミン一家の下で暮らすことになったニンニは、一家の優しくて素直なやり取りに触れるうちに、最後には姿と笑顔を取り戻す、というお話。

自我の回復のプロセスもさることながら、そもそもニンニは、おばさんから毎日どんな皮肉を言われていたのだろうと想像する。この言葉も幾度となく浴びたのだろうか。

「こんなこともできないの?」

ニンニのことを知ったとき、巡り堂(*注)に参加しているメンバーの姿と重なって見えた。さまざまな事情で巡り堂にやってくるメンバーの中には、社会経験に乏しい自分のことを無知だと恥じたり、あるいは不器用で時間がかかることを家族から急かされ萎縮したりしていることが少なくない。だから私たちスタッフは、メンバーと活動を行う際にはなるべく小さな発見や喜びを共有することに努めている。鉛筆の柄や先についた飾りのディテールを一緒にじっくり眺めたり、時間をかけて一本のクレヨンが磨き上げられたときにはうんと労ったり、という具合に。

先日も、メンバーの一人が苦しい過去の経験を打ち明けてくれた。「できない」ことの背景には、私たちには計り知れないことが隠れている場合があるのだ。そもそも「できる」という基準だって万能ではない。なぜなら私たちスタッフもまた、年齢、経験、立場、思考、癖、そしてその日の体調や事情がそれぞれに異なるからだ。

バレエの群舞のように、一糸乱れずに披露しなくてはならない場面でないならば、「できる/できない」を、できる側からジャッジするのではなく、「相手を思い、“今日の”自分ができることをする(できなくても良し)」くらいを前提とするのが、ちょうど良いのかもしれない。

せっかくここまで書いたので、私も気持ちを奮い立たせて業者に電話をかけてみようと思い、でもその前に、もう一度給湯器の電源を入れ直してみようとボタンを押した。

……ついた。

*注:京都府亀岡市を中心に展開される画材循環プロジェクト


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連載:言葉のもやもや歩き