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家族を通じて「他者」と共に在ることを考える。写真家・齋藤陽道さんのエッセイ本『よっちぼっち 家族四人の四つの人生』
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【画像】『よっちぼっち』の表紙

ひとつにはなれないけど、一緒に生きていく。みずみずしい家族の記録

子ども、パートナー、近しい友人……愛する人には、幸せな日々を送ってほしいと思います。でも、そんな思いが募るあまり、自分と相手の境界線が曖昧になっていった経験はありませんか。「まだ子どもなんだから」「あなたのためなんだよ」といった言葉を使い、はっと我に返ったことがある、という人もいるかもしれません。

〈こここ〉の人気連載「働くろう者を訪ねて」で、手話を第一言語とするろう者のポートレート撮影とインタビューを重ねている、写真家の齋藤陽道さん。自身も、手話をことばとして生きるろう者です。2023年11月に出版された新著『よっちぼっち 家族四人の四つの人生』(暮しの手帖社)は、雑誌『暮しの手帖』の連載を加筆・修正したもの。同じくろう者である妻まなみさん、そして聞こえるお子さんふたりとの日常を、みずみずしい写真と共に綴っています。

著者の齋藤さんの姿勢に通底しているのは、自身の子どもを徹底的に一個人として尊重すること。その表れなのか、齋藤さんは本の中で、幼い長男を「樹(いつき)さん」、次男を「畔(ほとり)さん」と呼んでいます。

小説家の西加奈子さんは、本書の帯に、このような言葉を寄せています。

人間は決してひとつになれない そのことを本作は、悲しいこととしてではなく、うつくしいこととして書いている

本書帯より引用

4人の「ひとりぼっち」。互いの異なりをわきまえつつ、手を伸ばし合っていく

【写真】齋藤陽道さん近影。ピンク色のTシャツと丸い眼鏡を着けている。髪は肩ぐらいまでの長さ
齋藤陽道さん(撮影・樹)

題名の「よっちぼっち」は、齋藤さんの考えた造語です。著書の中では、東日本大震災を機に結婚したまなみさん、そしてその後生まれた樹さんと畔さんとの暮らしについて、こう綴っています。

お互いに、孤独を抱えて歩む「ひとりぼっち」であることをわきまえながら、そこを越えてかかわりあおうとする意志を保たなくてはならないと思っている。そうした「かかわりあい」にこそ、人間の素晴らしき力が宿るのだろう。 ひとりぼっちとひとりぼっちが一緒になって、ふたりぼっちで生活を営んできた。そこにまた、ふたつのひとりぼっちがやってきた。よっつのぼっちが集まってなんていうのか知らないけれど、響き的に「よっちぼっち」という感じかなあ。

P12より引用

さらにあとがきでは、題名の由来をこう説明しています。

家族ということばでひとまとめにする甘えを退け、どれほど近しい間柄であっても通じ合うことのできない異なりがあるのだとわきまえる。そうして、ひとりぼっちという逃れられない孤独を抱える者同士だからこそ、手を伸ばし、心を傾けようと覚悟をもつことができる。ここから育み合えるものがあるはず、という人間の可能性を託したつもりだ。

P139より引用

「コーダ」である子どもたちとの手話から考える、ことばの切実さ

子どもたちの表情、息遣い、見えているだろう景色を一ミリも逃すまいとつぶさに観察し、そこから考えを巡らせていく齋藤さん。

この本の大切なテーマの一つになっているのが、「ことば」です。

家族4人は手話でコミュニケーションを取りますが、バックグラウンドはそれぞれ違います。齋藤さんは、聞こえる親のもとに生まれたろう者。まなみさんは、ろう者の親を持つろう者。そして樹さんと畔さんは、ろう者の両親を持つ、聞こえる子どもたち。いわゆる「コーダ」(CODA / Children of Deaf Adults)にあたります。本書では、子どもたちが手話で話すときの表情や光景を、豊かに描いています。

齋藤さんは幼年期に、手話を使うのではなく、音声言語を身につけるようにと教えられたそう。本書では当時を「自分自身では実感することのできない音声を、他者の耳に委ね、良し悪しを決定されてきた苦い経験」と振り返ります。そして家族と手話を重ねる中で、齋藤さんは自分自身でことばを選ぶこと、そしてことばに悩むことの切実さについて考えます。

思えば、ことばを発するとは、自分の内側にあるものを、外界に差し出すことであり、勇気そのものだ。(中略)私が私であるために。私自身が生き延びるために。内側でたぎるものをことばにして外界へ発する。それは、大人だけの特権ではないはずだ。

P22より引用

手話で育った樹さんと畔さんは、幼稚園や学校などで過ごす時間が増え、次第に音声の言語を身につけていきます。齋藤さんは、コーダの方が通訳の負担を背負ったり、孤独を抱えたりするケースがあることにふれ、子どもたちが「バイリンガル」になることを手放しに喜べない、と考えます。一方、手話も音声言語も楽しいと言う樹さんに対して、こう思いを巡らせます。

手話は、世界に満ちる現象を見つめ、それらを身体に宿らせたのち、手のみならず全身で放つことばなのだ。(中略)一方、ぼくが知らない音声表現のすばらしい点は、樹さんが自分自身で見つけようとしている。ことばには、それぞれの文化に根差した「いのちの響き」が含まれている。(中略)ぼくがやるべきことは、いつでもどこでも、死を迎える間際であっても、手話で心置きなく話せる社会にすることだ。

P42より引用

家族に限らず、他者と生きることについて考えるヒント

本書は、2019年夏から2023年夏までの計4年間、雑誌『暮しの手帖』で連載していたコラムをまとめたもの。読み進めていくと、コロナ禍による外出自粛、東京から熊本への移住など、齋藤さんたちの暮らしが少しずつ変化していくのが分かります。幼かった樹さんと畔さんが成長し、コミュニケーションの形が変わっていく様子もうかがえます。

まなみさん、樹さん、畔さん、そしてさまざまな他者から、どんなものを受け取ってきたかを重点的に描いた本書。他者から影響を受けることを、齋藤さんは「出会ってきた者たちのカケラが積み重ね」られると表現し、こう続けます。

異なる身体を持ち、異なる考え方をする「あなた」の表情や、動作、ことば、そんな何かしらのカケラを自分に宿らせる。逆に、相手に宿った「ぼく」のカケラを見出したりする。その繰り返しによって、一人では生きられない自分の弱さを知ってゆき、他者に共感したり、協力したり、互いを尊重したりすることに喜びを感じるようになっていくのだろう。

P37より引用

そして異なる人と接する際は、自分の「あたりまえ」をほどき、一旦脇に置くことが大切だと考えます。

「あたりまえ」は、言い換えると「私がそう感じるんだから、あなたも同じように感じているでしょう」という、想像力を欠いた「断定」だ。 他者の苦しみや悲しみを想像することのない断定はいとも簡単に、違う感覚を持つ存在を否定する「差別」につながっていく。

P37より引用

家族に限らず、「社会で他者と生きること」について、じっくり考える機会を与えてくれる本書。ぜひ、一読してみませんか。