異なる言語や身体をもつ人たちが集まる創作の場。
たとえば演劇やダンス公演の稽古場や劇場、美術家の作業場であるアトリエ、音楽家が訪れるレコーディングスタジオ。
そこにはどんな問いや葛藤、対話があるのか。それぞれどのような工夫を重ねているのだろうか。
私は障害のある身体、というか、ちょっと人と違う形や性質の身体を持ちながら、ダンスや演劇をしております。その私の目線から見える世界や、私の身体で感じること、時には気になる人とお話ししたりしながら、私の頭の中にあることなどを、文字にしていきたいと思います。
こう語るのは義足の俳優(ときどき車椅子俳優)&ダンサーとして活動する森田かずよさん。この連載では「創作の場にある問いや葛藤、対話、それらを置き去りにしない環境づくり」というテーマを掲げ、森田さんと共に考えます。
今回は森田さんが履いている義足について綴っていただきました。(こここ編集部 垣花つや子)
義足と補装具はなにが違うのだろうか
昨年、義足を作り変えた。
私の右脚は脛骨(けいこつ)が欠損していることから、短く変形している。膝まではだいたい左右同じ長さや形状をしているが、右脚はそこから細くなる。足先はバレエで言うポイント(※注1)の状態で固定されていて、言うならば纏足(てんそく)のような足である。左足が立体的なら、右脚はどこか平面的に見える。
※注1:つま先を伸ばした状態
先ほど義足と書いたが、私の右脚は「ない」わけではない。義足と聞くと、どうしても事故や病気、障害などで脚を切断された方や先天的に欠損している方が履くものをイメージする人が多いだろう。パラアスリートのような、テクノロジーに長けた競技用義足を思い浮かべる人もいるかもしれない。
しかしながら、私の右脚は「ある」。となると、私が履いているものはなんだろうか。義足、いやそれとも補装具? あらためて、そんな疑問が私の中に浮かんだ。
義足と装具はなにが違うのだろうか。国立障害者リハビリテーションセンターによると、義肢は「切断により四肢の一部を欠損した場合に、元の手足の形態または機能を復元するために装着、使用する人工の手足」のことをいい、装具は「四肢・体幹の機能障害の軽減を目的として使用する補助器具」のことをいうようだ。
この定義から考えると、私が履いているものは、義足でもあり、装具でもある。どちらの条件も満たしているが、完全に一致はしていない。
そう。私の義足(ここでは義足と想定しよう)は、曖昧なのである。定義のことだけはなく、私との身体の関係においても。
義足が完成するまでのプロセスで
二分脊椎症と重度の側弯症を持って生まれた私は、出生後、医者からすぐに死ぬといわれた。その後「一生寝たきり」「一生車椅子」「一生松葉杖」と言われながらも、3歳の時、一人で立ち、歩くようになった。リハビリではなく、通っていた保育所の先生が歩行訓練のようなものをしてくれて、そこから歩くようになった。
記憶を辿れば3歳に初めて歩いた時から、同じような形の義足を履いている。今も私の右脚は屈伸することができず、伸びたままだ。歩くと、私の右脚は、生身の脚のように骨や筋肉が連動する動きはせず、弧を描く棒のような動きをする。足が地面に着地するときは、地面に一点、杭を打つような感覚だ。
身体が成長するごとに、脚は成長していく。だから、数年ごとに義足を作り変える。とくに成長期は1年あたりで高さが合わなくなる。左脚と右脚の長さが違い、身体のバランスが取れなくなってしまうのだ。しかしこの義足の作り替えが大変なのである。当たり前だが、完全オーダーメイドである。熟練の義肢装具士さんの手によって、型取りからはじまり、仮合わせと続くのだが、これが一筋縄ではいかない。下手をすると、完成まで半年以上かかってしまう。
骨折のギプスのように巻くだけで、脚にあう義足が出来てくれたらどんなにいいだろう、と幼い頃、そんなことを考えたものだ。
型取りは、ギプスを作る作業と似ている。包帯のような石膏ギプスを脚に巻いて固める。そこから数週間経つと、色も留め具なども付いていない、簡易的な義足が出来てきて、実際にそれを付けて、立って歩いてみる。それが仮合わせだ。この仮合わせ、とくに初回は緊張する。装具士さんも緊張だろうが、私も緊張である。まだ真新しい、固い素材の中に脚を入れてみる。(入らない、といったことも過去にあった)まだ留め具も付いていないので、ガムテープで簡易的に止めて、立ってみる。その時点で、脚に痛みを感じることもある。
そう。この仮合わせ、1度では終わらない。2度、3度、4度と繰り返して、やっと理想の義足となっていく。
仮合わせの時、子どもの頃、母から「痛いんだったら今言っておかなきゃ。帰ってから言っても無理よ」とよく言われたことを思い出す。しかし皆さんも新しい靴を買った時のことを思い出して欲しい。靴売り場で履いてみてぴったりだと思って購入しても、別日に長い時間履いてみると痛くなったり靴擦れをしたりする経験があるのではないか。義足も同じである。病院や装具会社のリハビリ室をほんの数メートル歩いただけではわからない。実際に生活の中で履いてみて、文字通り私の「脚」とならなければならない。
仮合わせの短い時間、右脚と身体との関係を見つめる。少しの不具合も見逃さないように。全集中である。幼い頃からの「仮合わせ」によって、身体をチューニングする術を身に着けたのかもしれない。
実際、義足の足先をほんの数度、外に向けてもらうだけで、身体のバランスは変わる。脚を踏み出す時、地面から足が離れた時の質感が違う。まだ、身体全体の動きとしても、前に倒れそうになったり、逆に後ろに倒れそうになったりする。今現在の、ちょうどいい、心地よい、私にとってバランスの取れている身体を探るのである。
そんなプロセスを経て、義足は完成する。しかし、実際、完成してそこで終わりではない。ここから、私の身体と義足との、新しい関係が始まるといっても過言ではない。
「日々変化する身体」と義足の関係
私は、毎日、義足を履く。毎日同じ義足を履いているはずなのに、立って歩いてみると、日によって感覚に違いが生じる。気温、湿度、体調。身体の水分量。体重。微々たる身体の違いを、義足を媒介として、私は感じる。バランスもそうだ。
人間の身体は日々細胞分裂を繰り返し、変化している。昨日の身体と今日の身体は違っていて当然であるはずなのに、私はそれを義足という、厳密に言うと生身の身体でない物体によって、より自覚させられるというのは、どこか滑稽である。
いや、私が付けている限りは物ではなく、脚だと信じたい。ただ、不思議なのは、私は義足を装着した身体も、しない身体も、どちらも私であると実感しながらも、どちらの身体にもちょっと馴染めないところがある。
義足を付けないと、私は立てず、歩くことが出来ない。しかしこれは、二足歩行で歩けないというだけである。赤ちゃんのように這う状態で移動することは出来る。これも私にとっては「歩く」である。実際、家の中ではそのような状態であることも多い。つまり、私には、義足を付けて歩く、外して歩く、この2つの身体性がある。
ただ、義足を外してずっと這う状態だと、日常生活に困ることも多い。まず膝が痛い。高いものが取れない。外は歩けない。だが、身体との接地面が大きいため、バランスを保つことが出来る。
義足を付けてみる。立ち上がることが出来、歩くことが出来る。視線は上がり、身体が持ちあがる。小人が巨人になるようなそんな感覚だ。私の身体は拡張される。だが、明らかに物体に身体を預けることになり、バランスを取ることに神経を費やす。長所も短所もあるのだ。
話を頭に戻そう。
昨年、義足を作り変えた。6年ぶりだ。
今回の作り変えは、大きく改良したことが2つあった。
そのひとつは、見た目である。
これまでの義足、色は薄橙色だった。人間の足に少しでも似せようという配慮だろう。だが、どんなに頑張ったって、人工物である。人間の生身の脚に似ても似つかない。なぜ薄橙色にするのだろうか。不思議でしかたがなかった。パラアスリートの義足もメタリックでかっこいいものを目にする機会も増えた。どうせなら「普通」の脚の概念を超えたものにしたい。初めて義肢装具士さんに我儘を言った。その結果、私の義足は黒になった。今まではひとりの装具士さんが担当することが多かったが、初めて、外装のみを担当する装具士さんも入ってくれた。最高に気にいっている。
そしてもうひとつ。床反力(ゆかはんりょく)である。歩行の際、足が床を押すときに感じる床からの力のことだ。これまでは、曲がらない棒のような義足であったため、床反力を感じることがあまりなかった。床を打ち付けるように歩く動作は、床からの刺激をもろに受けた。それを軽減するために、カーボン素材を入れてもらった。とくに陸上パラアスリートの義足を思い浮かべてもらうとわかりやすいのだが、あのくの字のバネに使われている素材である。仮合わせで、生まれて初めて右脚の床反力を感じた時のことは忘れられない。歩く感覚が、また変わった。進化だ。
私にとって、大改革だった。そんな昨年。
さて、今これを書いているのが2023年3月である。私は今、混乱している。私がこの1年よく履いていた義足は装具会社で修理中だ。裸足で踊るので、義足の裏はすぐにはがれる。この1年足らずで既に義足の裏ははがれてしまい、その修理のためだ。数日で返ってくる。
今、私が履こうとしているのは、昨年4月あたりまで使用していた古い義足である。
昨年の作り変えは、私にとっては本当に大きな変化だった。見た目だけでなく、感覚も。新しい義足に既に慣れてしまった私の身体。「古い義足なんてもう履けないかも」と思いながら装着し立ってみた。
「あれ、この義足(旧型)の方が姿勢よくない?」
足先のちょっとした角度の違いで身体のバランスが変わる。それは、私自身の肉体に影響を及ぼす。腹筋の入り方、お尻の筋肉締め方、重心の置き場所。恐いのは、身体はすぐに慣れてしまうことだ。古いデータをすぐに削除してしまう。
これは再度調整が必要だ。
義足を攻略するにはまだまだ時間がかかるようだ。
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この記事の連載Series
連載:森田かずよのクリエイションノート
- vol. 092024.06.14滞在先で医療ケアが受けられる場所を探すこと
- vol. 082023.12.26「歩く」を解体して見えた景色
- vol. 072023.09.0416年活動してきた劇団が生み出した「障害演劇を作るための創作環境規約」にふれて
- vol. 062023.06.02踊ること、自分の身体のこと、それを誰かに見せること、その逡巡。キム・ウォニョンさん×森田かずよさん
- vol. 042022.12.21「障害のあるアーティスト同士が出会う場」で私が聞きたかったこと
- vol. 032022.08.01障害のある俳優は「障害のある役」しか演じられないのか
- vol. 022022.05.19私ではない身体が生み出したダンスを、私の身体はどのように解釈するのか
- vol. 012021.12.22ダンス創作を通して「わたし」と「あなた」が出会う