福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】植物をさわるたばたはやとさん【写真】植物をさわるたばたはやとさん

点字ブロック、電車の手すり、多目的トイレの触覚情報 ふれる世界探索 たばたはやとの触覚冒険記 vol.01

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長年使い込んだお気に入りのタオルケットに触る。近所のスーパー銭湯であたたかい湯に浸かる。電子レンジであたためたコンビニの弁当を持つ。裸足で砂浜をはしゃぐ。久しぶりに会った大切な人と手をつなぐ、あの瞬間。

モノと人、人と人の間にしか成立しない触れるという感覚。その世界やそこでうまれる感覚・記憶は、私たちの身体を揺さぶり、豊かな世界がそこにあることを認識させてくれる。

しかし、個人のその感覚に立ち止まること、ましてや誰かに共有することは難しい。なんとか言葉にしても、あくまでそれは感覚の一部を言葉にしたにすぎない。言葉を並べても、それをぴったり言い当てることはできないのではないかと思う。

私は生まれたときから耳が全て聞こえず目もよく見えない、先天性盲ろう者である。コミュニケーション手段は弱視手話、触手話(手話を触って会話する)、少しだけ指点字などである。

私は触覚を使いながら言葉の概念を獲得した。そして、今も触手話や指点字など触覚を使ってコミュニケーションをしている。相手の手に触れることで、言葉の意味だけではなく、相手の気持ちが伝わってくる。

また、最近は視力が落ちてきて、通訳・介助者と一緒だが、以前は一人で外出することもあった。そのとき、触覚のアフォーダンスから、色々な気づきがある。電車やバスなどに乗ると、乗り物によって手すりの形が違うことが、私には大切な情報だ。物の形状や触った感じによって得られるものは多い。

こう語るのは、触覚デザイナーたばたはやとさん。この連載では触覚がもたらす文化や表現の可能性をたばたさんと共に探索する。初回はたばたさんの最初の記憶、「海」という言葉をどう理解していったのか、触覚のアフォーダンスについて綴っていただきました。(編集部 垣花)

風で遊ぶ

【写真】幼少期、家で遊ぶたばたはやとさん

覚えている「はじめての記憶」

最初にある記憶は1歳のとき。私は風で遊んでいました。マンションは高台にあり、日当たりが良く、風が部屋を吹き抜けて行きました。風にたなびくカーテンを触って遊んでいたと、母から聞いています。

マンションの部屋には広いルーフバルコニーがありました。4歳くらいからは、私は補助輪付きの自転車に乗って遊びました。ルーフバルコニーは安全だったので、視覚障害がある私でも安心して自転車に乗ることが出来ました。

自転車で遊ぶことの魅力

自分の足で自転車をこぎ、風を感じることが好きでした。ゆっくりこいだり、速くこいだり、風を顔や身体で感じることが気持ちよかったです。季節によって涼しかったり暑かったり、風の変化で四季を感じ取っていました。

はじめて「海」を理解したとき

私は幼稚園に通っていたとき、山や海などに行き、直接さまざまなものに触れてたくさんの実体験をしました。何度も山に行き、森や木を感じ、草や葉などを触って、この世界に在るモノを知っていきました。そして、海にもたくさん行きました。浜辺の砂や海の水に触れ、そこに生きる貝やカニ、カメなどを触りました。

初めて海に行ったとき私はとても怖かったです。「海」という言葉を知らず、それが何かも知りません。突然、足に温かい柔らかい感触のものが触れ、歩きにくくなり、次第にお風呂でもないのに生ぬるい水が触れ、これが何か分からず、どうなるのか想像できず、私はずっと泣いていました。

幼稚園の友達が楽しそうに遊ぶ声が聞こえず、笑顔が見えない私。先生が「海だよ。大丈夫だよ。」と言ってくれる優しい声も聞こえません。手足に触れる違和感しか、私にはありませんでした。

はじめは先生と砂浜に座り、ずっと砂を触りました。先生が小さなバケツに海の水を汲み、私の手や足にゆっくりかけてくれました。少しずつ恐怖感が薄れてきたときに立ち上がり、ゆっくり歩き、海に入り足で波を感じました。なまぬるい水を触りました。濡れた砂を触りました。そして、海に生きる貝やカニに触れ、水の中に生きる命があることを知りました。

私は触覚から得ていった情報全体を「海」なのだと理解しました。その後に、身体で感じた「海」と波を手の形で表す「海」の手話が結びつきました。そして、手話の「海」が、日本語の「海」につながりました。

人とつながっていると実感するとき

【写真】伴走者とともに走るたばたはやとさん

好きなことやもの

人々とつながるのが好きです。伴走者と一緒に走ったり、誰かと一緒に二人乗りのタンデム自転車に乗ると、人とつながっている感覚が強くなります。一緒にいる人を感じながら走ることが好きです。

伴走者とマラソンをするとき、リズムを合わせて走ります。速く走りたい時は、伴走者に手話で伝えます。どのくらい速くしたいのかは、言葉ではなく感覚で合わせていきます。タンデム自転車に乗っているときは手話ができません。私が足を強く踏みこむと、速く走りたいということになります。

逆に、自転車を止めて欲しいときは、足を道路につけたり、ブレーキを使います。突然止まると危ないので、少しずつ相手に合図を送り、止まって欲しいことを伝えます。そのように言葉ではなく、少しの振動や感覚で相手とコミュニケーションが成立したときに、つながっていると感じます。

私は耳が全く聞こえません。そして、右目が光だけが分かり、左目の視力は0.02です。人々が大勢いるとき、その顔つき、表情など全く見えません。笑っているのか、誰かと話しているのか、急いでいるのかなど、状況が見えません。雑踏の音も会話も笑い声も、全く聞こえません。

「音のない世界の中、大勢の人々が動いている」ということしか分かりません。空気の動きで、人々を感じています。そのようなときに、人とつながっていると感じることはできません。

しかし、触手話で会話をしているとき、人の腕をつかみながら歩いているとき、輪になったロープをもって共に走っているとき、同じ自転車に乗っている時には、相手の存在に手ごたえを感じます。つながっていることを実感できます。ぼんやりした私の日常が、くっきりとした感覚になります。

触覚のアフォーダンスについて

日々の暮らしのなかで得ている情報

道路を歩いている時、周りをあまり見ません。足の裏の感覚に集中をします。道の状態を足の裏で確認します。たとえば、視覚障害者誘導用ブロック(点字ブロック)を歩くとき、その形や並べ方を足の裏や白杖で触れることで、目的地への方向や道の段差などを知り動くことができます。

丸い形のブロックは止まれ、長い形があるブロックは進めということを示しています。たとえば、階段のはじめと終わりには、丸い形があるブロックがあり、危険を知らせてくれます。長い形のあるブロックが並んでいれば、安心して直進できます。

つまり物を触ることで形や素材を知り情報を得て、行動しています。触ることでそれが何があるのか、その存在の目的を知る。これまでの経験から、その用途を間違えることはほとんどありません。さらに、その形から私の行動に大事な情報を得ることが出来ます。

私はひとりで外出することがあります。電車に1人で乗ったとき、私には視覚と聴覚の両方に障害があるので、駅名の表示が見えないしアナウンスが聞こえません。初めての場所に行くときには通訳介助者を手配したり、駅員に移動支援をお願いするが、行ったことのある場所には一人で移動することもあります。

電車の手すりやつり革に触れることで、自分が間違えなく目的の電車に乗ったことを知ることができます。手すりの形は、私鉄とJRなど電車の種類によって異なります。新幹線には手すりがなく、座席に突起物があり、それを掴んで車内を移動できる。サポートを受けなくても、ひとりで動くことができるのはアフォーダンス(注1)のおかげかもしれない。思わず触れてしまうものに助けられています。

注1:環境が動物に提供する意味や価値

一方で、物からのアフォードがあるせいで、困ることがあります。エレベーターや多目的トイレを使うときに、私は目が良く見えないため、非常ボタンを押してしまうことがよくあります。

エレベーターに乗るとき、自分が行きたいところのスイッチボタンを押す必要があるのに、間違えて非常用ボタンのスイッチを押すことも。さらに困るのは、話すことが出来ないので、間違えたことを自分で伝えられないこと。

多目的トイレを使うときはもっと大変で、水洗のスイッチボタンか非常用スイッチボタンか区別がつかないため、間違えて非常用スイッチボタンを押すことがあります。最近はトイレの水洗のスイッチボタンやレバーなどが、場所によって異なるのでとても困ります。どちらかというと非常用ボタンの方が、色がはっきりしていて目立つところにあり、強くアフォードする。私が入っているトイレに警備員や駅員が来るたびに、困ったものだと思う。

社会の中に、視覚障害者や盲ろう者がいることを含んでデザインされるものが増えてほしい。


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連載:ふれる世界探索 たばたはやとの触覚冒険記