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vol.042022.11.08言語を尊重するということ
わかりあいたいのに、うまくいかない。話したいと思いながら、機会がやってこない。身近だからこそ、上手に会話ができない。そんな人はいますか。連載「いま話したい人がいる」は、ライター/エッセイストの五十嵐大さんによるエッセイです。 ●前回までのあらすじ ぼくの両親は耳が聴こえない。そんなふたりのもとで育った子どもは、「コーダ(CODA、Children of Deaf Adults)」と呼ばれる。思春期に手話を使うことをやめたぼくは30代を迎え、両親とちゃんと向き合いたいと思うようになった。オンライン講座を通して、改めて両親との共通言語「手話」を学び直すことに。開始から1カ月後。順調に進んでいたように思えた手話学習でつまずき、「言葉が通じない」苦しさを味わう。そこで初めて僕は、両親が聴こえないことで感じてきた苦しい状況に思いを馳せられたのだった。 >第3回「『マイノリティ』ってなんだろう?」

vol.032022.01.31「マイノリティ」ってなんだろう?
わかりあいたいのに、うまくいかない。話したいと思いながら、機会がやってこない。身近だからこそ、上手に会話ができない。そんな人はいますか。連載「いま話したい人がいる」は、ライター/エッセイストの五十嵐大さんによるエッセイです。 ●前回までのあらすじ ぼくの両親は耳が聴こえない。そんなふたりから生まれた子どもは、「コーダ(CODA、Children of Deaf Adults)」と呼ばれる。思春期に手話を使うことをやめたぼくは、30代になり、両親とちゃんと向き合いたいと思うようになった。そうして、オンライン手話講座を受講することにしたのだった。緊張の初回、講師から「コーダ」という手話単語を教わる。自分の生い立ちを表す手話単語が存在するなんて、想像もしていなかった……。ろう者と聴者の狭間を漂うような感覚を抱いてきたぼくは、初めて両親の生きる世界に自分の居場所があると感じたのだった。 >第2回「手話を学んで見つかった、ぼくの居場所」

vol.022021.09.07手話を学んで見つかった、ぼくの居場所
わかりあいたいのに、うまくいかない。話したいと思いながら、機会がやってこない。身近だからこそ、上手に会話ができない。そんな人はいますか。 連載「いま話したい人がいる」は、ライター/エッセイストの五十嵐大さんによるエッセイです。 ●前回までのあらすじ ぼくの両親は耳が聴こえない。父親は後天的に聴力を失い、母は生まれつき聴こえなかった。そんなふたりから生まれた子どもは、「コーダ(CODA、Children of Deaf Adults)」と呼ばれる。思春期に差し掛かるころ、ぼくは周囲の心無い言葉に傷つき、自分の環境に苛立ち、手話を使うことをやめた。それはつまり、親との共通言語を手放すということだった。30代になり、ぼくはそのことを後悔する。聴こえない両親とちゃんと向き合いたい。話したい。そうして再び、ぼくは手話を学び直そうとオンライン講座の戸を叩いた。>第1回「耳の聴こえない両親と、もう一度“話したい”」

vol.012021.07.21耳の聴こえない両親と、もう一度“話したい”
わかりあいたいのに、うまくいかない。話したいと思いながら、機会がやってこない。身近だからこそ、上手に会話ができない。そんな人はいますか。 連載「いま話したい人がいる」は、ライター/エッセイストの五十嵐大さんによるエッセイです。手話を第一言語とする両親と、思春期に手話を使うことをやめた息子。30代になり、家族と向き合いたいと考えた五十嵐さんは、手話を学び直すことにしました。 このエッセイでは、五十嵐さんが手話を学びながら考えたこと・気づいたこと、家族の間で起きた出来事などを綴っていきます。大切な人との共通言語を取り戻すとはどういうことなのか。失われた関係性はどうしたら回復できるのか。五十嵐さんの視点を通して、「いま話したい人」との関係に想いを馳せてみませんか。 第1回は、五十嵐さんが手話を学び直すことにしたその想いについてお届けします。