いくつになっても文化的な生活を目指して たとえ答えが出なくとも|インディペンデントキュレーター・青木彬 vol.02
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「アートは“よりよく生きるための術”になると思うんです」と話す、インディペンデント・キュレーターの青木彬さん。全国各地の展覧会やアートプロジェクトの企画・運営を手がけながら、福祉に関わるさまざまな人や場所とも関わり、現在、社会福祉士(ソーシャルワーカー)の国家資格取得を目指して勉強しています。この連載では、青木さんが今考えていること・実践していることを綴ります。(こここ編集部)
「文化的な最低限度の生活」ってなんだろう?
日本国憲法第25条では「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されています。
僕はキュレーターとしてアートを活動の中心に置いていますが、よく「私、アートわからなくて……」という枕詞を聞きます。その度に「そんな敷居を上げなくても……」と、もどかしい気持ちになるのですが、多くの人にとってはアートとは「わかる」「わからない」によって切り分けられるようなものなのかもしれません。
アートだけが文化ではないけれど、そんな「わからないもの」を「最低限度の生活」として保障されたいとは思ってもみなかったというのが、多くの人の本音だったりするのでしょうか。
子どもの頃から自分の将来についてよく考えることがありました。それは「警察官になりたい」みたいな将来の夢ではなく、自分の身体の心配です。心配の種は12歳で骨肉腫を発症し、人工関節への置換手術を受けた右足でした。骨の代わりに人工関節が入っているこの足で、「おじいちゃんになっても歩けているのだろうか」という漠然とした不安がいつも頭の片隅にありました。
さらに付け加えると、「そんな足でどんな生活を送っているか」が気がかりでした。杖を突いて歩けているのか? 車椅子なのか? いずれにしてもそんな状況でちょっと遠い美術館や劇場に行けるのか? そんな問いが頭をよぎるのです。
それはつまり、身体上の心配事は抱えながらも、美術館や劇場に行けるような生活が僕にとっては望ましい生活だと考えていたからでした。そんな生活は「健康で文化的な最低限度の生活」と呼べるものかもしれません。
さらに僕の場合は「文化的な最低限度の生活」という言葉に、美術館に行くことや劇場に行くことだけでなく、アーティストのワークショップに参加すること、地域のお祭りをちょっと覗きに行くこと、その土地の特産品を食べることなどなど、様々なものごとを想起します。
つまり、僕が頭に思い浮かべていた理想の生活とは、自宅で暮らしながら自分で外出ができる、自立した状態を前提とした生活なのかもしれません。
もちろん身体が思うように動かなくなるかもしれないし、施設に入居することだってあり得ます。でも、どんな状況になったとしても、好きな本を読んだり、同時代を生きるアーティスト達の表現に触れたりしたいと思わずにはいられないはずです。
これは「最低限度の生活」ではなく、もしかしたら「欲張りな生活」なのでしょうか?
文化的な生活は「余暇」なのか?
2023年から社会福祉士の資格取得を目指して大学の通信制養成課程に入学したこともあり、同級生をはじめ福祉分野に携わる方々に会う機会がこの1年の間にたくさんありました。
社会福祉士の国家試験を受けるためには、福祉系の大学や定められた養成施設を卒業する必要があり、その中でも相談援助の実務経験が無い場合には2ヵ所以上の施設等で240時間以上の実習を行わなくてはいけません。
同じ養成課程に在籍している同級生もそれぞれ色々な施設へ実習に行っており、みんなの経験を聞くことで多種多様なソーシャルワークの現場の様子を垣間見ることができます。ちなみに僕は地域包括支援センターや特別養護老人ホーム等で実習を行ないました。この実習の経験が本当に興味深く、毎日発見の連続なんです。
利用者さんとのコミュニケーションにおいても、アートプロジェクトでの経験が活かせるのではないかと思える場面も数多くあり、個人的にはアートに携わる人は全員実習に行った方がいいのでは⁉ とまで思うほど豊かな経験でした。
僕の倍以上の時間を生きている利用者の方々のお話を聞いていると、「疾患を患った高齢者」というようなカテゴライズではなく、豊かな経験を積まれてきた一個人としてのホリスティックな人物像が見えてくるのです。こうして一人ひとりを知る喜びを感じると同時に、ソーシャルワーカーとしてそれぞれのニーズにどう応えていくのか、本人と家族の希望の相違はどうしたら埋まるのか、制度の中で本当に望ましい支援が実現するのか、たくさんのジレンマを感じることもありました。
そんな風に「興味深い」では済まされない、いくら考えても整理ができない現実を目の当たりにすることも多くあります。例えば僕自身や同級生の経験談、これまでに出会ったソーシャルワーカーや介護職の方々から聞く話の中に「利用者の方に余暇活動等を提供する余裕が無い」というものが数多くありました。施設の中でレクリエーションを行なったり、職員が連れ添って外出したりするようなプログラムが思うようにできていないということです。利用者のためにも実施したいという想いはあっても、施設の人手不足等の理由から実現できていないようでした。
もちろん施設では忙しい日常の中でも、利用者の方々に楽しく過ごしてもらうための工夫は試行錯誤されています。ですが、僕が利用者だった場合、果たしてそれを「文化的な最低限度の生活」と捉えることができるでしょうか。選択肢のある文化的な生活を送ることが「どんな人にも保障される基本の権利」から、「施設側に余裕があったら取り組む活動」へと押しやられているような気がするのです。
「文化」の目標が高いのは自分自身?
文化的な生活、レクリエーション、余暇活動。どれも何となく通じるものがあるようで、それぞれの言葉からはとても広範なものがイメージされます。例えば高齢者の入居施設やデイサービスなどで行われる「レクリエーション」や「余暇活動」と言えば、ラジオ体操や折り紙、カラオケなどが多いことでしょう。
それはそれで心身の健康を保つための効能も需要もあるし、実際に楽しみに参加されている方々を見てきました。でも、美術館や劇場へ行きたいと願っている高齢者がいたとして、その人は果たして折り紙やカラオケで文化的な最低限度の生活が保障されていると感じることができるでしょうか。
以前、僕は閉じこもり状態(※注)にある高齢者にアプローチするためのプログラムを考えるワークショップを企画したことがありました。自分が年齢を重ねて出歩くのが難しくなった時、近所で参加できる高齢者プログラムが「ラジオ体操」と「カラオケ」だけだったら満足できないのではないかと友人と話していたことが企画のきっかけです。
※注:「閉じこもり」とは、一日のほとんどを自宅等で過ごし、ほぼ外出しない状態のこと。心理的要因(意欲の低下など)、身体的要因(老化による体力の低下など)、社会・環境要因(家族の態度・接し方や、住環境など)の相互作用から引き起こされ、継続すると「廃用症候群」をもたらし、最終的に「寝たきり」状態になる。(参考:『最新 社会福祉士養成講座 2 高齢福祉』、一般社団法人日本ソーシャルワーク教育学校連盟 編集、中央法規出版、2021年)
自分の将来の「健康で文化的な最低限度の生活」のためには、今から声を上げなければという危機感のような思いも込められていました。
そんな話をたまたま知り合ったソーシャルワーカーにすると、「確かに閉じこもり状態にある高齢者は、文化的な経験が豊富な方が多いかもしれません」と思わぬ返答がありました。
つまり、もともと表現活動をしていたり、文化活動に慣れ親しんできたりした人は、高齢になり、出歩くのが難しくなってきた時にデイサービスの折り紙教室では楽しめないから自宅に閉じこもる、というわけです。もちろんこの仮説を証明するデータがあるわけではなく、あくまでもそのソーシャルワーカーの方と僕の憶測でしかないのですが、それを聞いた途端、ギクッとしたのです。「私は折り紙なんかしたくない!」とデイサービスに行くのを拒否している自分やアート関係の友人達の未来が浮かんでしまうんです。
そこまで頑固に抵抗しなかったとしても、現在多くの施設で行なわれているようなプログラムだけでは、自分の気持ちが満たされないだろうなということは容易に想像できてしまいました。そしてすぐに、実は「文化」の敷居を高く見積もっていたのはアートに関わる自分自身ではないかと自問自答が始まったのです。
根っこの部分に「文化」がある
実際、高齢者介護施設では利用者の方々の日々の介護はもちろん、安定した経営のために空床を作らないようにする連絡調整、ご家族とのやりとり、様々な会議などたくさんの業務に追われています。その中で「アーティストを呼んでワークショップをやりましょう」なんて言い出し、企画から実施まで職員の方が担うことがどれだけ難しいかは想像に容易いことです。
一方で、アートと福祉分野の協働が各地で進むなかで、そういったプロジェクトの認知も広がっている感覚がありますが、「特定の施設の特殊な事例」と受け止められているようです。
そこで僕自身が思うことは、アートと福祉の協働をもっともっと一般化するにはどうすれば良いかという事です。別に「折り紙の時間」が続いてたっていいんです。ただ、もっと選択肢があって欲しいんです。
例えばコロナ禍では、様々な文化施設が美術展示解説や遠隔ワークショップなど、自宅で楽しめるオンラインコンテンツを配信していました。そういった無料の文化コンテンツは、高齢者施設でも活用できるのではないでしょうか。そんな風に、ちょっとしたところからアートと福祉が繋がっていく糸口がまだまだたくさんあると考えています。
それと同時に、僕は気持ちよく「アート」を諦められる準備もしていきたいと思います。それは、「もう美術館に行けなくてもいいや」ということではなく、「アート」の輪郭を柔らかくしながら、「折り紙の時間」がアートに歩み寄れるようなあわいの領域を育むことを考えてみたいのです。
ここ数年、福祉に携わる様々な方々と出会ったり、社会福祉士の実習などで限られた時間ではあるものの現場に立ち会ったりする中で、僕自身、アートと福祉、それぞれの知見の親和性や違いを活かし合う方法を考えずにはいられませんでした。なぜなら両者は根っこのところが、人が生きるうえで欠かせない「文化」で繋がっていると思えたからです。
福祉には、一人ひとりの違いを受け入れ、より良い生き方について考えてきた実践の積み重ねがあります。そしてアートには、そんな一人ひとりの違いを表現として認め合い、作品を通して表現を社会化してきた歴史があります。
アートにおける作品も、福祉が向き合う利用者の意志表示も、どちらもかけがえのない表現であり、そんな表現の積み重ねによって人が生きるうえで欠かせない「文化」が育まれてきたのではないでしょうか。
Profile
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青木彬
インディペンデント・キュレーター
1989年生まれ。東京都出身。一般社団法人藝とディレクター。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートを「よりよく生きるための術」と捉え、アーティストや企業、自治体と協同して様々なアートプロジェクトを企画している。近年は社会福祉とアートの接点を模索しながら実践を重ねるほか、社会福祉士の資格取得を目指して勉強中。
これまでの主な企画に、まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター(2018〜)。都市と農村を繋ぐ文化交流プロジェクト「喫茶野ざらし」共同ディレクター(2020〜)。などがある。2019年からは、自身が右足を切断したことで体験した「幻肢痛」をきっかけに身体のこと、アートのことを綴る日記「無いものの存在」をnoteで発信。[ポートレート撮影:コムラマイ]
Profile
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蓮沼昌宏
アーティスト、写真家
1981年東京生まれ。千葉育ち。2010年東京藝術大学大学院美術研究科博士課程修了(美術解剖学)。2016–17年文化庁新進芸術家海外研修員(ドイツ・フランクフルト)。 近年の活動に、2023年「公開制作vol.3 蓮沼昌宏 制作、テーブル、道」(長野県立美術館、長野)、「BankART Under35 / Over35 2023」(BankART KAIKO、神奈川)。2021年「特別的にできない、ファンタジー」(神戸アートビレッ ジセンター、兵庫)、「奥能登国際芸術祭2020+」(木ノ浦ビレッジ、石川)、2020年「物語の、準備に、備える。」(富山県美術館、富山)などがある。2022年に自作集『床が傾いていて、ボールがそこをひとりでにころころ転がって、階段に落ちて跳ねて、窓の隙間から外へポーンと飛び出てしまう。蓮沼昌宏』を刊行。現在、長野県を拠点に活動中。