モノリンガルからトリリンガルにトライする思考 そのときの私が語りたいこと、誰かと考えたいこと。なみちえさん×下地ローレンス吉孝さん 往復書簡 vol.05
- トップ
- そのときの私が語りたいこと、誰かと考えたいこと。なみちえさん×下地ローレンス吉孝さん 往復書簡
- モノリンガルからトリリンガルにトライする思考
人の複雑さや多面性、そして流動性を、私たちはどうすれば尊重できるのだろうか?
以前、そんな問いをもとに、アーティストのなみちえさんと社会学・国際社会学を専門とする下地ローレンス吉孝さんに対談いただいた。その対談をきっかけに実現した、おふたりによる往復書簡連載。
前回下地ローレンス吉孝さんからの便りには「いまの生活の中で(ガーナではなく、他の場所での経験でも大丈夫です!)、どんなことを感じていますか?人々の暮らし、考え方、ふれあい、その中で、なみちえさんがどんな経験をしているのか、ぜひお話を聞いてみたいです」と記されていました。今回は2024年8月に届いた、なみちえさんからのお便りです。(こここ編集部 垣花)
正直に言うと
こんにちは!現在ドイツにいます。ドイツのフランクフルト近郊で父の妹家族の家に滞在しながら休暇をとり、この往復書簡を書きつつゆっくり過ごしています。ドイツにはスペインから、スペインの前にはフランスのパリに滞在し、初海外遠征コンサートとレコーディング、スペインでもレコーディングをこなしました。
ローレンスさんの文章が、当時の私に刺さって圧倒され、研究者の文章を改めて拝読し、往復書簡という事すら忘れてかしこまってしまい、今までなかなか書き出すことが出来ず伸ばしていました(笑)。
重く心に突き刺さった理由も、便りを受け取ったとき、アフリカ大陸にあるガーナにいたこと、そして日本を離れ、アメリカと中国の間から離れ、 新たな情報や自然そのものに圧倒されたことで、心の中がカオス状態というか、エントロピーの高い世界から離れ、そしてまた新しいエントロピーの増大を受け入れる中で読んだ文字としていい意味で圧倒され、グッときていたからです。つまり、私は言葉で、文章でコミュニケーションを取りながらも、この感想を言葉で書くには難しすぎる……と、ジャングルで壮大に現実逃避していた事になります(笑)。
自分がアフリカ大陸にいたことで、アフリカとアメリカの違いにも意識的になっていましたし、ローレンスさんの文章を読み、アメリカのことを考えているだけで圧倒されました。社会構造が文明の発展に伴ってより複雑になっていく。それがアメリカ社会のハードな部分だと思っているのですが、ジャングルの中で読む文章としては重みが強かったのです。
偏った物差しから離れて
ローレンスさんも資本主義について書いていたと思うのですが、日本の資本主義、アメリカの資本主義、ガーナの資本主義を比べると全く質が違うと感じました。私も含め日本で生まれ育った人は、謙虚で大人しく、自分の意志をはんなりと伝えるような「ひらがな」のようなふんわりとした人格形成がなされやすく、それが個性であり魅力であるとも思っています。その精神性によって、働きすぎる人間が社会で生まれやすくなってしまい、強くは反発できないけど、SNS上で愚痴を漏らし、それでも明日はなんとかやっていくような構造をどこでも手に取って感じることができます。
それは働き方や会社、経営の部分などの西洋化によるもつれによって、本来の「日本人」の生き方や時間の感じ方、西暦じゃないバイブスみたいなものを忘れてしまって、病んでいってるのではないのかなと。
私が思っている西洋化は、敗戦によって、私たちが洋服を着ていること自体もそうですし、西洋視点で文化をグローバル化することなのではないかと思っていて。科学を優先し、気が付くと、その土地に根付いていた自然信仰がなくなり、価値観が新しいもの、西洋とか特にアメリカなどの先進国によって価値観が決まるような感覚があります。大きな物差し、1つの偏った物差しが正しいとされているような。偏っていて、なおかつ得票数が多く見える。「植民地至上主義以降の世界の物差し2024」ですね。その物差しから遠く離れて、疑ってみて、新しいものを自力で作り始めた瞬間に、価値観がバキバキと音を立てて変わっていきました。
アフリカのガーナに来てみて思ったのが、中国がかなり進出していた事です。家具、雑貨、食料品などなんでも揃うチャイナモールが首都アクラなどにオープンし、「洋服」は中国製で、日本の製品といえば中古車が沢山ありました。日本という国も殆どの人が知っていました。
ガーナ人の中には、私のことを見て、「チャイニーズ!」と叫ぶ人がいました。日本人か中国人かの違いがわからず、そもそも私がダブルルーツであることを理解していない。突然国名で呼ばれるという事が不快に感じる発言だと理解できない人がいるのは想像はしていましたが実際目の当たりにし、驚きました。そういった道徳的な教育を受けていないからか? と感じる場面でした。日本で私を外国人だと思って英語で話しかける人と同じ事がここガーナでも起きていました。強い資本が国や民族の見た目のイメージを作っていく事を同時に感じました。
ローレンスさんのお話の中で、無料食料配布サービスも面白いなと思いました。私がガーナにいた時に、1番困らなかったのが食事だったからです。父(金曜日生まれのKujo。アカン族は産まれた曜日のニックネームをつける風習がある)の生まれ故郷の町に行くと、私のガーナの父方の祖母がNyamekye(ニャメチェ:Twi語で神からの贈り物)という名前で、日本の母方の曽祖母はナミイという名前で、なので私はなみちえと名付けられたのですが、父の母であるNyamekyeさんがとても優しくて町でとても有名だったらしく、そのお陰様でどこでもご飯が食べる事ができました。「Nyamekyeの孫がきた!」「マアミ(母なる)Nyamekye」「オボロニ(肌の白い)Nyamekye」「アンチ(親族の女性に対して)Nyamekye」などと呼ばれて可愛がられました。私が6歳ぐらいの時に来たことがあったのですが、その時こんな感情だったかどうかは覚えていません。とりあえず今回の滞在feels like殿堂入りした後に、マサラタウンに帰ってきたみたいな感覚だった(笑)。
父親の生まれ故郷は、元々村だった町なのですが、1人でぶらぶら歩いていて親族に会うと、「食べていきなよ!」と、声をかけて下さり、どこでもご飯をご馳走して頂ける環境でした。
歴史や社会情勢を調べるとアフリカで資源や食糧に困ってるのは内戦が起きてる国ですね。アフリカの大陸から採れる資源に価値をつけるという行為。そして外部からの圧力で起きる戦争は本当に残念に思います。ガーナにも昔は軍事政権によるクーデターがありました。(それにより一部アカン族は国外に離散している)
ガーナは常に常夏なんで、永遠にプランテーンが生えて、Nyamekyeの家系のジャングルには金が埋まっているらしい。でもその金を掘り起こさずにその恵みの土地の上で裸足で踊る。それがどんなに豊かなことか。
アフリカの貧困とアメリカの貧困の違いとはどういう部分なのかと、ローレンスさんの返信からずっと考えています。私が人生を深める中で、芸術活動でそこにアプローチしたいです。アフリカの貧困について、アフリカ大陸ではガーナとエジプトしか行ったことがないので、私は全てを語ることができないけれども、ガーナに関しては、精神的な貧困は特に何も感じませんでした。物価に関しては、円安によって、ガーナに来て何か買うとき安いという感覚はなかったです。日本と変わらない部分もありました。
ジャングルで収穫できるフルーツなどはとても安いです。例えばマンゴーがバケツ1つにいっぱい入って200〜300円ぐらいとか。中国の大量生産品が安価で入ってきているので、ガーナ人からしても、中国がビジネスによって、侵食してきている危機感があると現地の人は話していましたね。現地のものが売れなくなってしまうので。
なんとアフリカンプリントの布にもメイドインチャイナを見ることがあった。オランダ製のものが多いのは有名ですが。その中でガーナ製の布を選んで買っては洋服を作ってもらったりしていました。
「日本人」と「ガーナ人」の共通するところは、優しいから受け入れるという点かなと思います。あとアフリカの口頭伝達による自然信仰と日本の神道もかなり通ずる部分を感じました。(これはこれで別途文章化したい)日本が受け入れてきた点はなんだろう……。はんなり繊細な文化形態とか、西洋化だったりも受け入れてるけど、ガーナも中国の生産品を、 受け入れている、っていうのか、受け入れてしまっているっていうのか、なんと言えばいいのかわからないけれども……。
父の生まれ故郷で、大型トラックが、大きな材木を載せて都会へ向かう道を走って行くのを見た時に、そのトラックには中国語が書かれていました。それをガーナの現地の人と見て、「資源を奪っている」みたいなことを話して、やっぱり少なからず中国は、アフリカの、特にガーナの豊かさ、物質的な豊かさ、資源の豊富さにアジアの国の中でもいち早く気付いたのだなと。そして、私がガーナに来て 「チャイニーズ」って初めて言われた事も、日本で「外人」っていう投げかけと同じ感覚であり、それも1つの偏見で、レイシズムを感じることがあったという事が、6歳の時に初めてきた時に体験できなかった新しい発見でした。
ガーナで貧困を感じたのは、村で家事、家族の手伝いをして、学校へ行けていない子どもたちがいた事です。 そういう子どもたちに私たちはどのような支援ができるのか検討しています。小さな事で言うと、家で使わなくなった文房具や画材、ノート、鉛筆、消しゴムなどの類を持って行き、子どもたちにプレゼントをすると同時に、読み書きなどの勉強を教えたり、教えてもらったり、絵を描く事なども一緒に楽しみました。
全てを、そして無意識に西洋の視点を基準にせずに世界を見ることの大事さを改めて感じました。ガーナも日本も別に(アメリカやイギリスと比べると)多民族国家ではなく、 どっちに行っても結局完全に馴染むのは難しくても、もつれとしての存在として観察できたんじゃないかなと思っています。
このような形でお互いの見ていた世界を日本語で共有できたことを改めて本当に嬉しく思います。私はこの経験を通し、日本語の引き出しで世界について語ることに柔軟になりとても勉強になりました。この往復書簡はローレンスさんにとってどんな経験になったでしょうか?