

匿名化する社会で、どう互いを想像していく? 離乳食提供で「すべての人」に語りかけた〈スープストックトーキョー〉工藤萌さんとの対話 マイノリティ化する子どもたちと|青山誠 vol.01
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「子どもたちは今、社会の中でどんどん”見えない”存在にさせられています」
40年前に比べ、今の15歳以下の「子ども」の数はほぼ半分。その存在自体を感じにくくなる一方で、ふとした瞬間に子どもの集団や親子連れに向けられるまなざしはどんどん厳しくなり、公園などにも『禁止』がたくさん掲げられるようになっています。
“見えない”存在だと保育者の青山誠さんに言われてから、そんなふうに子どもの状況を考えはじめると、まちの中にそもそも子どもたちの姿があまりないこと、いてもどこか窮屈そうにしていることが気になるようになりました。子どもが「子ども」として、社会の中で当たり前にのびのびと過ごせる場所は、あまりに少ないように思います。
自分で声を上げづらく、ますます社会の周縁に追いやられつつある子どものような存在と、もっと「一緒に生きる」ことのできる世界はどうしたらつくれるのでしょうか。そこには、人がそれぞれにマイノリティ性を抱えながらも分断し合うことなく生きていく、何か大きなヒントがあるかもしれません。
新連載 『マイノリティ化する子どもたちと|青山誠』
https://co-coco.jp/series/minority_children/
そんな問いを持って、〈上町しぜんの国保育園〉元園長である青山さん(社会福祉法人東香会 理事)と、いわゆる「保育」や「児童福祉」にとどまらない、さまざまな領域で活動する人をたずねる連載が始まりました。
初回は、〈株式会社スープストックトーキョー〉(以下、スープストック)の取締役社長・工藤萌さんのもとへ。スープストックといえば、2023年春の「離乳食炎上」と呼ばれた出来事や、その後のまっすぐな発信が思い起こされます。子育て家庭への厳しいまなざしが浮き彫りになるなかでの、当時の対応を振り返りながら、立場の違う人同士がともに生きることを考えていただきました。
「離乳食無償提供」の背景と、園の食卓
——スープストックさんは2023年4月18日に、全店舗での「離乳食後期の無償提供」を発表しました。もともと限定的におこなわれていた内容を展開したものでしたが、SNS上では親子連れが増えることを懸念する声も多かったかと思います。騒ぎはその後、声明文を出したことで鎮静化していきました。

「子ども」が身近でない人も多くなった社会の中で、立場の違う方々の視点が交差する出来事にもなったように感じました。まずはあの出来事を、おふたりに振り返っていただけたらと思います。
青山 僕はあの時のスープストックさんの声明を読んで、自分自身が運営に関わっている〈上町しぜんの国保育園〉の風景が浮かんできたんです。うちの園では異年齢クラスを取り入れていて、赤ちゃんから就学前の子までが一緒のグループで過ごします。食事もみんなで取るんですけど……最初に少し写真をお見せしてもいいですか?


青山 日によって隣のクラスの子が混じっていたりして、たまたま居合わせた人たちで時間を共有するんですね。しかもカッチリと決められた共有の仕方じゃなくて、ちょっと離れてお茶を飲んでる子も許される、ゆるっとした場なんです。この「いろんな子が集まって“みんな”になっている」のが、スープストックさんっぽいなって。
工藤 え、嬉しいです。どれもいい写真……こんなふうに温かな場に感じてもらえていたらいいなと思いますね。

青山 離乳食の件で出された文を見て、まず率直にすごいなと思ったのは、いろんなニーズを抱えた人たち——例えば「子連れの人」と「そうじゃない人」など——それぞれに向けた声明にしなかったことです。
細分化した声明文にしていたら個別のニーズが際立つだけで、一緒にいられる場には戻らなかったような気がして。あの声明文の執筆には、当時顧問だった工藤さんも携わっていたと伺いました。
工藤 最初はそれぞれの立場の方に対してどんなことを伝えたいだろうか、と考え始めたんです。でも、結局は全部一緒のことを目指しているよねという話になりました。もともとスープストックでは、「世の中の体温をあげる」という理念のもとで、あらゆる人が一つの食卓を囲む「Soup for all!」の考えを創業当初から掲げています。まだ十分ではありませんが、アレルギー対応やベジタリアンのスープやさまざまな理由で「食べる力」に不安がある方に寄り添う「食べやすさ配慮食」など、食の制限を取り除く取り組みも少しずつ展開し、まさに個別のニーズにどうお応えするか試行錯誤してきました。
だからこそ私が思ったのは、「Soup for all!」の“all”が上から見える大きな塊ではなく、個々の積み上げでできているのを見誤ってはいけないということ。それを改めて伝えた上で、私たちは特定の方だけを優遇するのではないと書かせてもらったんですよね。
青山 あの声明文を読んで「そうだよ、スープストックって『世の中の体温をあげる』ためにいろいろやってたじゃん」と無理なく受け入れることができた方も多いだろうなと思ったんです。“all”の中身が粒だっていて、そのそれぞれに配慮をしますという宣言だなって。「子どもがこぼしたりうるさくしたりしても、みんな我慢してくださいよ」みたいな乱暴な“all”ではなく、「彼らにも、もちろんあなたにも」と伝える内容だと思いました。

工藤 いろいろな価値観があるのは当然で、それらを否定するつもりはありません。ただ、あそこで謝ったり黙ったりしてしまったら、子育て中の方たちは今後の外食で肩身の狭い思いをすることになるんじゃないかと思って……。企業が黙ることで生んでしまうものがあるから、絶対何か言おうと。
正直、私たちが声明文を考えたというより、“スープストックさん”という、25年かけて擬人化されたブランドに言わされた感じもしています。だからこそ、オンラインで臨時朝礼をおこなって、そこで社員全員に声明内容を伝えてから、最後に「一同」と書いて出しました。
今回の件では、周囲から心配されて不安になっていたスタッフも多くて、その人たちに私たちがしていることは間違っていないと伝えたかった。声明文を発表した全国朝礼では号泣する社員の姿も見えて、改めて会社として方向性を考えるきっかけにもなりました。

場を変えなかったのは、すでに配慮し合う空間があったから
青山 声明という形ではアクションを起こしたけれど、お店自体は大きく変えなかったのも興味深かったです。
工藤 店内が広いわけじゃないので心苦しさはあったんですけど……たしかにそうですね。それは以前から、お客様がお互いの気配を感じ取りながら配慮し合ってご利用くださっているのを知っていたからだと思います。むしろ現場では、「応援してる、頑張ってね」と声を頂く場面が多かったんですよ。やっぱりお客様は優しいし、温かいなって。同時に、社会で体温がさがってる部分があるからこそ私たちは温めていきたいんだと、自社の存在意義を考えさせられました。

青山 あれから時間も経って、今のお店はどうなっているんでしょう?
工藤 変わらずに親子でも来てくださる場になっていますね。むしろ以前よりお子様連れが増えるなかで、進化している気がします。先日も、うちの子どもの保護者コミュニティで、あるお母さんが「あそこは聖地だよ」と言ってくださって。
そういう居場所として、親御さんたちの間で確固たるものになりつつあるのは肌身で感じます。みなさんが他のお客様に配慮して時間や過ごし方を選んでくださっているのもわかっていて、“共存”という言葉は違うかもしれないですけど、お互いへの配慮が深まっているのかもしれません。

青山 いいですね。
工藤 私たち、スープ屋さんとしての「Soup Stock Tokyo」以外に、「100本のスプーン」というファミリーレストランも経営しているんですね。その店には特別支援学校のみなさんも来てくださることが増えてきて、非言語の温かい配慮を感じる空間になっています。別々にいらした方々が、車椅子でもベビーカーでも関係なく、それぞれの時間を過ごしているだけなんですが。でもお互いに壁や違いを感じずに、なんとなく繋がっているようなあの光景が、私にはすごく大切だなと思えるんです。
「誰でもない誰か」として、そこにいたい人たち
青山 そうやって「誰かと一緒に食べる」行為って、人間の本質的な欲求なのかもしれません。僕は特にコロナ禍で、そう考えさせられました。幼い子どもたちは「社会的参照」と言って、一緒に食べている誰かと「おいしいね」という顔を分かち合いながら、言葉も情動も学んでいくんです。ただ黙って下を向いて、栄養を摂取するだけではなく、誰かと話したり笑ったりしながら食べるのが「食の風景」でもあるだろうなって。
工藤 先ほど見せていただいた、子どもたちが同じ円卓を囲む写真もすごく素敵ですよね。どんな人でも1つのテーブルを囲んで笑い合って温かい食事をとるあの風景が、まさに私たちが「Soup for all!」で目指していることだなと感じました。

青山 スープストックさんの店内を見ていると、そこでたまたま居合わせた人たちが心地よく食事をしている感じがします。先ほど工藤さんがおっしゃったお客さん同士の「配慮」も、自分が苦しくなるほどではなくて、ちょっとした不都合を受け入れていくような雰囲気を感じるんです。
工藤 実は新しいお店を設計するときも意図しています。ひとり席であってもテーブル席であっても、一緒に座って心地よい距離感はどのくらいだろうかって。
青山 今までは、生きていくときに「ひとりか共同体か」という極端な選択肢しか選べなかった気がするんです。誰かと食べたいなら、家族やコミュニティに属して人とつながらなきゃいけない……みたいな。でも、スープストックさんはその中間を行っている感じがしますよね。ちゃんとサービスとして提供されながら、人の気配も感じ合える居場所になっている。それはかつての村社会みたいなガッチリしたものじゃないけれど、ひとりきりでもない。ああいう場づくりは、保育園でもやってみたいなと思いますね。
工藤 そう感じてもらえたなら、すごく嬉しいです。

青山 一方で、こうしたお店を利用する人の中には、その時間だけは「誰でもない誰か」として、ただフッとそこにいたい人がいるのかなとも思ったんです。会社に行ったら肩書きや役割があって、家に帰ったら家族のなかの自分や、ひとり暮らしの自分がいる。でも、今は「誰でもない誰か」として、ごはんを食べたい。そういう「誰でもない」はずの自分のときに、家族で来られてる方を見ると何かが刺激をされちゃう人はいるのかもしれないですよね。
工藤 なるほど。
青山 保育の活動に対してもあるんです。例えば、公園に行って水道を使って砂場で遊んでいると、通りがかった人から急に「税金も払っていないのに使うな!」と怒鳴られたりして。それはたぶん僕らが積極的に何かしてしまったというよりは、その方の文脈の中で、ふと目に入る子どもたちの姿に攻撃性を感じてしまった。その刺激がそのまま、すごく攻撃性ある言葉として返ってきやすいのかなと思っています。
対話をさせてもらえない“匿名”の世界
工藤 離乳食に関して言えば、実は騒ぎになったときに店舗での混乱はほぼなくて。懸念する声は、匿名ばかりでした。相手を想像しづらい世界だからこそ、コミュニケーションを取るのが難しかったです。
青山 匿名の連絡は、保育園にもよく来ます。今、「不適切保育」と言われる園内での虐待が社会的な問題になって、自治体に相談窓口が設けられているんです。もちろん匿名性が担保されて初めて言えることがあるので、必要なことだと思います。ただ、匿名で指摘される方とは、対話できる機会がないんですね。
スープストックさんもそうだったと思うんですけど、匿名の声はいつも一方的で、こちらの「いや、実はね……」という返事が届かないんです。苦情のあった子どもや保育者の振る舞いも、事情を話すと、対応する行政の人は「そうだったんですね」と言ってくれるんですが、匿名で連絡した人には伝えようがないというか。

工藤 苦しいですよね。
青山 でも、そういう一方的な声に答えてばかりいたら、最終的に何もしないことが正解になってしまいます。今、公園を始めとした日本の公共の場は、それぞれの人の都合が全部消えちゃってますよね。漂白された状態で、誰にとっても息苦しい。そうじゃなく、スープストックさんの店内のように「今日はお子さんと一緒に来たんだな」とか「ひとりで音楽を聴きながら食べてるんだな」というのが、少しずつにじみ出る場がもっと必要だと思うんです。
僕らの園では、月に一度金曜日に、園で保護者も一緒に夜ごはんを食べる「いどばた」というイベントがあります。夕方まで仕事をして迎えに来た保護者が、そこから買い物して料理して……って親も子どももハードじゃないですか。月に一回でも園でごはんを食べちゃえば、帰ってお風呂に入るだけでいいよねって始めた会なんですね。

工藤 写真からも雰囲気が伝わってきます。
青山 でもある日、「いどばたをやめてほしいと言っている人がいるから、匿名でアンケートを取ってくれないか」と連絡があったんです。僕はアンケートは断って、「その人と直接話したい」と伝えました。匿名だとその人の本当の思いがわからないから。それで改めて聞いてみたら、「自分の子はアレルギー除去対応が必要だから不安で行けない」「魅力的だけど参加できなくてつらい」と。ならばと、保護者と子ども本人と相談して、アレルギー除去対応が必要であることを示す札をつけ、会場でも必ずアナウンスをすることにしたんです。
工藤 ああ。やっぱり大切なのは、対話ですよね。
青山 「場」って、みんなでつくっていくものなのに、匿名だとそれがすごく難しい。個別の不都合が見えて初めて、「じゃあ、こういうのはどう?」とその人に提案できるようになるんですよね。
お互いのマイノリティ性を想像できる社会に
——場はみんなでつくっていくものだ、という考え方は、以前にお話を伺った子どもたちが集まって自分たちの活動内容を決める〈上町しぜんの国保育園〉のミーティングにも通じると思いました。ただ「子ども」をはじめとする、社会的にマイノリティの立場にある人にとっては、そこに参加できない場面が多い気がしています。最初から想定されていない、というか。
青山 まず、今の幼い子どもたちについて言えば、そもそも社会から巧妙に見えないようにされているんですね。例えば、平日の日中に街中を歩いても子どもの群れを見かけることはほぼありません。それこそみんな、保育園などにいますから。
もちろん、施設や預ける親が悪いと言っているわけじゃないんです。ただ、子どもたちが「専門性」を持つ人に囲われた中だけで育っていく風景が本当にいいんだろうか、というのは当事者として常に考え続けなきゃいけないと思っています。普段は見えないからこそ、今回の離乳食の件のように不意に表出されたときに、子どもとともにいることや、その存在に配慮することがあたかも「問題」のように捉えられてしまう。配慮って本当は、自分に聞こえない声があるかもしれない、と考えることだと思うんですよね。
工藤 見えないものを見ようとする。想像力ですよね。

青山 以前、『ニューロマイノリティ』という本で、いわゆる発達障害とされる人は“普通じゃない”のではなく、単に脳のしくみが数として少数派なだけだと書いたんです。ただ、多数派の人にその世界を見せる試みになった一方で、マイノリティと強調することは、もしかしたら「自分とは違う大変な人たちだ」というふうに次の分断を招いてしまうのではないか、と限界も見えてきました。
だからこそ、離乳食の件でスープストックさんが「この人たちは大変だから」ではなく、「彼らにもあなたにも配慮を」と強調されたのが重要だったように思います。「Soup for all!」もそうだし、「こういうお客さんもいるかもしれない」とまさに想像しようとしている気がするんです。
工藤 今回の対談にあたって「マイノリティ」という言葉を考えていたんですけれど、きっとほとんどの人が、何かしらの側面ではマイノリティじゃないかなと思ったんです。そして、マイノリティとして受ける自分なりの不都合を経験しているからこそ、本当は他人の不都合も想像できるんじゃないかと。
私自身、経営者としては女性というだけでマイノリティですし、右耳の難聴と向き合ってきた経験もあります。そういう自分のなかのマイノリティ性を、社会に還元していきたいなとは最近考えているんですね。
もちろん、利他の心を持ち寄れる社会にするためには、まず自らが満たされる余裕もつくっていかなきゃいけない。その上で、他に困っている人がいるのであれば包んで体温をあげたい、と思える社会になると考えています。

青山 冒頭でもお伝えした、「Soup for all!」の“all”が粒だっていることがやっぱり重要なのかもしれません。それぞれの不都合と、それぞれの配慮の仕方があるだけなんだ、と。みんなが緊張している今の社会では、そうは言っても「なんでそっちばっかり」「こっちだって大変なんだ」という構図になりがちですが、スープストックさんの「世の中の体温をあげる」アプローチなら、そこをゆるめられる気がしますね。
——スープストックさんにはマニュアルがないという話も伺ったことがあります。そうした抽象的なビジョンを、どうやって社内で共有しているんでしょうか?
工藤 料理をおいしく提供したり、清潔を保つためのマニュアルはありますが、「お客様にどんなおもてなしをするか」のマニュアルは、たしかにありません。判断軸が「どうすれば目の前のお客様の体温をあげられるか」だと決まっているだけなんです。
例えば年に一度、全店舗が「自分たちがおこなった世の中の体温をあげる活動」を発表する場があります。そこである店は、障害のある方への対応を自分たちで学んでまとめたものを共有してくれました。アルバイトの学生が主体となって、学校で学んだことを店舗に持ち込んだのが始まりで、「自分たちの店ではこうしよう」と勉強会をしたそうです。それを見て、他の店舗の人たちが「教えてほしい」という感じで広がって……。
青山 えーおもしろい!

工藤 完璧主義だとなかなか始められないかもしれないことも、まずは目の前のこの人の体温ならあげられるはず、という小さなチャレンジの積み重ねがあって、その上でお互いに学び合ってシェアしようという雰囲気が生まれているんです。だから、マニュアルは別に必要なくて、最終判断は「体温があがるか、あがらないか」だけ。私たちは「パートナー」と呼んでいる、アルバイトの方からもそれが生まれてくるのは、スープストックの理念経営のすごいところだなと感じています。
自分にとっての「体温のあげ方」を問い続ける
青山 保育現場でも、一人ひとり異なる子どもに対応していくための、動的判断が求められます。ただここでの判断には答えがないし、クオリティにも差が出やすい。そのあたりはどうしているんですか?
工藤 一つひとつの状況に対して、常にすごく議論しています。研修も含めいろいろな場面で「自分にとって“体温をあげる”とはどういうことなのか」を問い続けるんです。お客様を目の前にしたときの臨機応変な態度につながる心構えは、きっとそこでできているんだと思います。

青山 問いを置くんですね。それもおもしろい。
工藤 効率性や利益を求める話じゃなく、この会社では「それって誰の体温をあげられるんだっけ」とか「企画しているあなた自身の体温はあがってる?」みたいな聞き方になるんですよね。
青山 そういう積み重ねが、どんな立場の人も過ごしやすいスープストックさんをつくり出しているんですね。
工藤 「世の中の体温をあげる」と掲げているけれど、“世の中さん”がひとりいるわけではないことを忘れないようにしよう、と。その上で、目の前のひとりに私たちが火をつければ、それがまた次の誰かに……この連鎖が結果的に世の中になっていくという考えです。だからいつでも「まずは、着火しよう。始める人であろう」という話をしています。

青山 「何がお客さんの体温をあげることかを考えてね」と問いかけて考えられるのは、すごいことですよね。好き勝手にやればいいわけではないし、「何が体温をあげるのか」って、もちろん人によって違うじゃないですか。究極には想像するしかないなかで、工藤さんが意識していることはありますか?
工藤 正解はひとつじゃないという前提で、選択肢をつくっていくことかなと思います。先ほどお話しした、年齢を重ねた方や障害がある方などさまざまな理由で「食べる力」に不安がある方に寄り添う「食べやすさ配慮食」に関しても、すべての問題の解決にはならなくても、お客様を温めるひとつの選択肢を示すことはできるんじゃないかって。そして、そこに対話があれば、「ありがとう、でもこの選択肢じゃないんだよね」という分断につながらない声が聞こえてきて、また別の選択肢を増やしていくことができると考えています。
青山 わかります。対話でいうと、子どもたちのミーティングも意見の衝突から始まることが多いんです。彼らを見て思うのが、人を自分とは違う存在と感じることで、自らの中に他者性が生まれていくんだなと。「自分のニーズはこうだけど、あなたにはそんなにつらいことだったのね」という理解につながる感じなんです。
でも、それって合意形成の出発点だと思うんですね。要は「自分はこう思う、これが心地いい」という個人の価値観があって、それに当然反対する人もいるけど、物別れに終わるわけではなくて対話になっていく。子どもたちは割と、異論に対して怒らないんですよ。意外と「あ、そう。じゃあさ……」と話し合いが進んでいくんです。
工藤 いいな。大人も異論に対して、子どもたちのようにフラットな議論ができたらいいのかもしれませんね。
青山 本当に年齢も何も関係なくフラットです。それは赤ちゃんでも一緒で、自分が一方的にケアされるだけの存在だとは思ってないんですよね。食事なんかでも、「おいしいからあんたも食べな」って自然とやったり。

工藤 優しい。
青山 もちろん差異はあるけれど、優劣ではない。赤ちゃんも含め、互いの価値観を分かち合うことができるわけです。もともと僕らはそういう群れの中で育っていたはずなんですよね。
今日、工藤さんとお話ししていて、やっぱり個別の配慮がちょっと隣り合ったり混ざったりするくらいがいいんじゃないか、と感じました。近づくことで不協和音も生まれるんだけど、それを「なくそう」ではなくて、「あっていい」と考える。子どもたちは、まさにその世界で生きています。いろんな人に向けた配慮があるスープストックさんの考え方は、大きなヒントになるような気がしました。
工藤 ありがとうございます。話をしながら、私も気づくと効率主義の経営に頭が持っていかれてしまっているかもしれないと反省もありました。今日お話ししたような視点をビジネスに持ち込んでいくのは非常に難しいテーマでもあると思うんですけど、やっぱりそこから逃げてちゃいけない。自分たちの得意な「スープづくり」をどうやって包括性をもって広げていけるのか、もっと考えていきたい、寄付団体やボランティアではなく、株式会社である私たちができることを追求していきたいと思いました。
青山 これからのスープストックさんのご活躍も楽しみにしています。ありがとうございました。

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- ライター:ウィルソン麻菜
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「物の向こう側」を伝えるライター。製造業や野菜販売の仕事を経て「背景を伝えることで、作る人も使う人も幸せな世の中になる」と信じて、作り手のインタビュー記事や発信サポートをおこなっている。個人向けのインタビューサービス「このひより」の共同代表。現在は、二児の英語子育てに奮闘中。