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コーダとして訪ねる、優生保護法の歴史。五十嵐大さん『聴こえない母に訊きにいく』が発売中
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「優生保護法の存在する時代」を生きた母を訪ねて

耳の聴こえない、もしくは聴こえづらい親を持つ、聴者の子ども「コーダ」(CODA、Children of Deaf Adults)。現在、日本には2万人以上のコーダがいると推計されています。第94回アカデミー賞で作品賞を受賞した『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督)や、2022年に日本で公開されたドキュメンタリー​​映画『私だけ聴こえる』(松井至監督)などの注目で、言葉を知っている人もいるかもしれません。

〈こここ〉でも、コーダとして生まれ育ったライター/エッセイストの五十嵐大さんに連載を書いていただいています。ろうの両親と自らの関係に葛藤を抱える五十嵐さんに、考えたことや気づいたこと、家族の間で起きた出来事などを率直に記してもらってきました。

今回ご紹介するのは、そんな五十嵐さんが2023年4月に〈柏書房〉から出版した新刊、『聴こえない母に訊きにいく』。自らの家族の歴史を辿りながら、1948年から1996年まで存在した「優生保護法」に焦点を当てていく一冊です。

障害のある人への強制不妊手術などが行われた時代に、五十嵐さんのお母さんはどのように生き、どのようにして五十嵐さんを産んだのか。障害のある人を取り巻く環境はどう今と違ったのか。関係者へのインタビューと共に記していきます。

コーダとして生まれ育った五十嵐大さん

【写真】こちらを向いて立つ五十嵐さん

五十嵐さんは、1983年、宮城県塩竈市で生まれました。後天性の聴覚障害者である父・浩二さんと、生まれつき聴こえない母・冴子さんの子どもとして育てられ、「親と自分との違いに戸惑いながら生きてきた」と振り返ります。

「どうして僕と母は“同じ”ではないのか」「わかりあいたいのにうまくいかない」など、抱えていたさまざまな疑問や葛藤を、これまで複数のエッセイで認め、五十嵐さんは世の中に発表してきました。著書『しくじり家族』(CCCメディアハウス)と『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)には、祖母から聞いた話をもとに五十嵐さんが感じたこと、考えたことも綴られ、新著『聴こえない母に訊きにいく』につながっています。

祖母は、母と父が結婚することに反対していたこと。
駆け落ち事件を機にようやく結婚が認められたこと。
障害児が生まれては困るという理由から、出産も反対していたこと。
それでも子どもを欲しがる母を見かねて、結婚から十年が過ぎた頃にそれを認めたこと。
そうして生まれてきたぼくに障害がなく、家族みんなが安堵したこと。

祖母と母との間にあった“物語”、そのかけらをひとつずつ咀嚼するたび、胸中がざわめいていった。そこにあったのは、紛れもない“差別の片鱗”だったからだ。

(『聴こえない母に訊きにいく』プロローグより)

今回、五十嵐さんに声をかけたのは〈柏書房〉の編集者・天野潤平さん。過去の著作を読んだ際、そこに描かれたエピソードが「ある意味で、ろう者が差別される話としてイメージしやすい」ものだと感じたからこそ、起きた出来事を冴子さんがどう受け止めていたのか、祖母の語りの裏側に別の事実はなかったのか気になったといいます。

そして出来上がった『聴こえない母に訊きにいく』には、これまでの著作とまた異なる家族の一面と、実際に冴子さんがこれまで経験してきたこと、感じたことが書かれています。

母、ろうの専門家、そして恩師を訪ねて

本書は、母・冴子さんの幼少期から現在に至るまでのエピソードや、本人を取り巻く状況を、五十嵐さん自身が取材者となって詳らかにしていきます。

第一章「子どもの頃」と第二章「ふたりの姉」では、冴子さんに加え、冴子さんの姉である佐知子さんと由美さんによって幼少期が語られます。また、ろうの当事者であり、手話言語やろう文化を研究する森壮也さんを訪ね、その背景を探ります。

たとえば、小学校まで地元の通常学校で過ごした冴子さんは、なぜ最初からろう学校へ通わなかったのか。冴子さんの両親が手話を身につけなかったのはなぜなのか……。疑問と共に、満足にクラスメイトとコミュニケーションを取ることができなかった冴子さんの心境や、学習の遅れなどの課題が見えてきます。

【写真】石で堰き止められた川の向こうに民家が見える
第一章の扉にも使われた、地元・塩竈市の風景(撮影:五十嵐大さん)

また、第三章「母校へ」と第四章「母の恩師」では、冴子さんが中学から高校まで通ったろう学校を五十嵐さんが訪問。冴子さんの回想も交えながら、手話に出会い、ろうの同級生たちと生き生きとした学生生活を送った当時の様子が描かれています。

冴子さんがろう学校に通っていた1970年前後は、それまでの「口話法」(相手の唇の形や動きを読みながら、自らも発声する方法)ではない、「手話」という言語が用いられることが支持され始めた移行期。冴子さんの恩師であり、現在は〈一般財団法人日本財団電話リレーサービス〉の理事長も務める大沼直紀先生からは、「ろう学校の先生たちですら、聴こえない子どもたちにどんな教育をしていけばいいのか模索していた」と、聴力を“治るもの”と位置付けていた当時の時代背景が語られます。

「わたしが指導していたなかで日本語の理解が遅かった子たちも、もしも幼いうちにろう学校に入り、手話で概念を伝えたり考えたりする教師と出会えていれば、また違ったのかもしれません。それは、さえちゃんを見て感じたことです。もっと早くに適切な教育があれば、この子はこんなに苦労することもなかったのに、と。そして今では、その“適切な教育”とは、手話を活用するものだとわかっているんですけどね」

(第四章「母の恩師」より)
【写真】どこか建物の屋上から眺めた街並み
第三章の扉写真(撮影:五十嵐大さん)

優生保護法があった時代に生まれた著者

第五章「父との結婚」と第六章「母の出産」に描かれたのは、冴子さんが、五十嵐さんの父である浩二さんとろう学校高等部で出会い、その後結婚し、五十嵐さんを出産するまでの出来事です。

耳が聴こえないことで、結婚することや子どもを産むことを周囲から反対される時代があった。そのような背景を知った五十嵐さんは「優生思想」という言葉を思い浮かべ、日本に1996年まで存在した「優生保護法」について調べはじめます。

この優生保護法は、遺伝する恐れのある病気を持つ者や障害のある人が出産することを防ぐこと、そして女性が持つ妊娠、出産する機能を保護することの2つを目的にした法律。同法により、国による強制不妊手術の被害者となった病者、障害者の人数は、1万6500人(本人同意も含めると約2万5000人)にものぼると言われます。

30年近く前に廃止された後も、対象となった人の痛みや傷は癒えることはありません。本書の取材で五十嵐さんは、そうした人々の支援に携わる方なども訪ねています。

優生保護法という法律があった時代に愛する人と出会い、その人との子を成した母。そんな人生を歩めたのは、彼女が家庭環境に恵まれていたからではない。ただ、運がよかった。それだけだ。運命の歯車がどこかで狂っていたら、母もまた、優生保護法の被害者になっていただろう。そのとき、僕はここに存在していない。

(第六章「母の出産」より)

現在に至るまでの国の動きや法律の変化を紹介しながら、冴子さんが受けたであろう差別や偏見に思いを馳せていく五十嵐さん。読み通すなかで、優生保護法があった時代を生きた人々の苦しみや課題が、五十嵐さんの視点を通して感じられる構成になっています。

【写真】海の岸壁。向こうに緑が見える
第五章の扉写真(撮影:五十嵐大さん)

家族の過去を通じて、ろう者を取り巻く時代背景を綴った『聴こえない母に訊きにいく』。その内容に共感した書店〈バリューブックス〉では、予約時から現在に至るまで、特典&支援付き書籍を販売しています。1件の注文ごとに、本書内でも五十嵐さんが訪ねた「優生手術被害者とともに歩むみやぎの会」に510円を寄付するもので、強制不妊手術が全国で2番目に多かった宮城県で活動する同団体の、学習会や報告集会での情報保障などに使われます。

2023年6月7日時点ですでに147冊を販売、74,970円が寄付されたこのプランには、五十嵐さんによるミニエッセイ(PDF)の送付もあります。これから読まれる方は、こうした購入方法を選ぶことも、検討してみてはいかがでしょうか。