福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】インタビューにこたえるくぼたみどりさん【写真】インタビューにこたえるくぼたみどりさん

健康で文化的な最低限度の生活ってなんだろう? クリエイティブサポートレッツ・久保田翠さんをたずねて 健康で文化的な最低限度の生活ってなんだろう? vol.01

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「健康で文化的な最低限度の生活」。

日本国憲法第25条「生存権」で保障されているはずの私たちの権利をキーワードに、福祉にまつわるさまざまな視点から「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かをたずねてまわる連載シリーズ。今回お話を伺ったのはNPO法人クリエイティブサポートレッツ(以下、レッツ)の代表・久保田翠さん。

知的障害と強度行動障害がある息子・壮(たけし)さんが、「文化的で豊かな人生を送ることの出来る場所を作ろう」と、自ら団体を立ち上げ、アートと福祉を融合させたイベントや企画の数々を実施してきた。久保田さんにとって「健康で文化的な最低限度の生活」は、どのような姿かたちをしているのだろうか。

編集部は「たけし文化センター連尺町「たけし文化センターのヴぁ公民館」をたずねた後、久保田さんに話を伺った。

【写真】クリエイティブサポートレッツ一階の様子、天井が高く、そこから電球が十数個ぶら下がっている
【写真】クリエイティブサポートレッツ2階の様子、ドラムやギター、スピーカーなどが置いてある

※認定NPO法人クリエイティブサポートレッツとは?

障害や国籍、性差、年齢などあらゆる違いを乗り越えて、さまざまな人が共に生きる社会の実現を、アートを通して目指すNPO法人。2000年に活動を開始。2010年に障害福祉施設アルス・ノヴァをスタートし、現在、生活介護、ヘルパー事業など4事業を実施している。2017年には「表現未満、」実験室その他が評価され、法人代表の久保田翠が芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。障害のある人を核とした文化創造発信拠点を浜松市中心市街地に「たけし文化センター連尺町」、郊外にて「たけし文化センターのヴぁ公民館」を運営している。

既存の健康のイメージを疑う

【写真】インタビューに応える久保田さん

人によって「健康という言葉から連想されるもの」は違うだろう。久保田さんは健康をどうとらえているのか。編集部が尋ねると、次のように応えてくれた。

悩ましいですね……。

一般的に、健康=「元気で病気せずに生きる」というイメージが強い気がします。長生きするとか、病気にかからないことが無条件にいいことのように、ある種の正解があるように思われている。

でも健康ってもっとあやふやなものだと思うんです。

レッツには、医療的な視点でみると肥満と位置付けられてしまうメンバーがいて。彼の健康を考えると、食事を管理して、成人病にならないように適正体重に近づけるのが「いい支援」とされやすい。

でも、彼は食べることが大好きなんです。彼の健康を思っていたとしても、食べたい気持ちを抑えつけて、好きに食べる自由を奪っていいのか。

画一的な健康を放棄して好きに食べて何が悪いのか、なぜ長生きするのがいいことなのか、という部分をレッツでは、まず問いたいんです。

既存の健康のイメージを疑っているから、私はいつも「健やか」という言葉を使います。健やかに生きる、そこには「健康」からこぼれ落ちる部分も含められると思っているんです。

【写真】インタビューに応える久保田さん
NPO法人クリエイティブサポートレッツの代表・久保田翠さん

では、「健やかに生きる」上で、なにが大切なのか。久保田さんは「自由」をキーワードに挙げる。

抑圧されず、選択の権利があって、自由が保たれている。そういった環境が健やかさを担保するのだと思います。

そして、さまざま体験を重ねるなかで、「自分にとっての健やかさ」を選び取れるようになっていくのではないでしょうか。

人間がずっと同じ状態でいることはありえない。だからこそ、そのときに変わっていける自由さが必要なのかもしれません。もちろん変えたくても変えられない状況だってあるでしょう。そうだとしても、折り合いの付け方は考えられると思います。

文化は健康の「お供えもの」ではない

ある日の久保田さんのブログでは、壮さんの食事に触れながら、次のことが記されている。

「なんでも食べてくれる人ではないだけに、わかりにくいが、少なくとも、朝と昼が同じだと食べないというぜいたくぶりは、なんだかそこを無言で伝えているようにも思う。ヘルパーさんの数だけ味付けがあって、そんな工夫をヘルパーさんたちが楽しんでやってくれるといいなあと思った。そしてこれこそが『文化的な生活』なのだろう」

(2020年7月31日久保田さんのブログ『たけしの自立6 たけしの食事と介助と文化的生活』)

「文化的な生活」とは、どのような生活を指すのだろうか。

前提として「自分らしく表現することを許容される環境かどうかで、文化的な豊かさが決まっていく」と久保田さんは語る。

久保田さんが代表を務めるNPO法人クリエイティブサポートレッツは、「誰でももっている自分を表す方法や、本人が大切にしていることを、取るに足らないことと一方的に判断しないで、その行為こそが文化創造の軸であるという考え方」を「表現未満、」と呼ぶ。これまでにもそのプロジェクトの一環として、さまざまな切り口の企画に取り組んできた。

「表現未満、」プロジェクト記録集より

文化は健康のお供えものではないと思うんです。

人間は、衣食住が満たされたとしても幸せを必ず感じられるとは限りません。人間の生活には、衣・食・住と並んで文化がある。それを得られる権利を放棄してはいけない。これはかなり切実なものだと思っています。

私たちの日々の積み重ねによってある文化が育まれる。久保田さんの話と「表現未満、」という考え方に触れると、そんな言葉が浮かんでくる。そう仮定すれば、文化の種は日常のありとあらゆるところに植えられているのかもしれない。

壁に大量のテープ貼ったり、剥がしたりするメンバーのリョーガさん。取材日は、ひたすら壁にテープを重ねていた。ちなみにレッツの日々の様子は『Instagram』からも垣間見ることができる。

レッツという組織や「表現未満、」が生まれた背景をたずねるとレッツのメンバーであり、久保田さんの息子でもある、壮さんと過ごしてきた中で感じたことを教えてくれた。

壮が幼いときに訪れた福祉施設は、既存の社会規範に適応する訓練をするところばかりでした。それを見て「ここにいる人たちは自分が認められ、自分を表現したり、新しい想像力や文化が生まれたりするところにどうすれば身を置けるのか」と考えてしまったんです。

身近にないのであれば、自分たちでそういう場所を創らなくちゃと思いました。

時間は限られるかもしれないけど、彼らがやりたいように過ごせる場所があっていい。そして、それを積み重ねていくことで、そこから既存のものとは違う文化が生まれるのではないかと信じています。

壮は、入れ物に石を入れて叩き続けることをよくします。場所によってはものすごいうるさいし、一般的に言えば迷惑行為と呼ばれてしまうかもしれない。でもそれが壮の表現行為なのだと思います。

タッパーに石を出し入れしたり、石を入れたまま容器を振って音を出したりする壮さん。容器に石を入れ振る行為は、3歳ぐらいからずっと続けているという。

私が登壇する講演会へ壮と一緒にいくことがあって。そこで「表現未満、」を謳うことで、お客さんは、うるさいと思うかもしれない彼の石遊びを排除しづらくなります。

そして次第に、壮の出す石打音が響くなか、私の講演にも耳を傾けるにはどうしたらいいか考えはじめる。最後には皆さん決まって「意外に聞けました」、「音がなくなったら、なんだか少しさみしかったです」と言います。人間には慣れという寛容性があって、彼がいても話が聞けなくなるわけではないことに、気がつくんです。

講演や会議で、うろうろ動いたり、音を出したりすることは迷惑だからやめたほうがいい。その考え方は私たちにとって本当に唯一の正解だったのだろうか。「表現未満、」のまなざしが、私たちのなかの当たり前を問いなおしていく。

他者との出会いから自分が育まれる

「表現未満、」を大切にするレッツでは、それぞれの自由を尊重するために、組織として折り合いをつける方法が常に問われているという。

お互いを排除しないことこそ、まさに守られなきゃいけないことなんですよね。だけどそれって大変なことでもあるんです。寛容性や多様性は、言葉ではとても簡単に言えるし美しく聞こえるけど、めちゃくちゃ大変ですよ。

レッツを組織として見ればもう少し統制がとれたほうがやりやすいことが多いかもしれません。でもここは福祉施設で、障害のある人たちにとっての生きていく場、社会です。社会は混沌としていて、それと同じものを提供するならば、混沌のままにしておくしかないという部分もある。それにレッツの代表である私自身も自由に生きたいと思っているから、スタッフを統制したりはしません。

だからこそ、私も含めたスタッフ間で折り合いをつけていくことが肝要だと思うんです。

文化は一人では作れない。人と一緒に過ごし、さまざまな影響や刺激を互いに受けながら、ときには折り合いながら、形づくられてゆく。壮さんもその一員として、ヘルパーやスタッフをはじめとする人々と出会い、関わりながら自分で選びとっていくことで、彼の文化は育まれているという。

過去に、壮の支援を担当するヘルパーから「壮くん、倖田來未の曲が好きですよね」って言われたことがあって。幼いころからビートルズとか、玄人好みの曲が好きな人だと思っていたので、私はびっくりしました。

そうやって彼も他者とコミュニケーションをとりながら、沢山の人に出会うことで興味関心が拡がって、そこからさらにチョイスしていく。なににおいても、これがやっぱり大切なんだと思います。

さまざまな刺激は、自分の外側からやってくるんです。自然やインターネットからだって人の考えに触れられる出会いの場になる。そうして人間は、いろいろなものから影響を受けて、自分を作っていくのだろうと思います。

【写真】チラシをちぎる壮さんと編集部メンバー

出会うこと=いいことだけが起こる、とは限らない。久保田さんは、「障害のある人の生活が最初から抑圧され、出会いやさまざまな体験が限定されやすい状況にある」と述べる。

障害のある人が「他者と出会う機会」を限定されたり、場合によっては与えられず、それがしょうがないとされてしまうのはなぜなのか、ずっと考えてきました。できないと言われるのは腹立たしいことだし、それはものすごく貧しい社会や世界だと思います。

たけし文化センター連尺町が浜松市の街中へ建設されるときも「街のなかに福祉施設がやってくるなんて非常識だ」と批判を受けました。それはなぜかというと「トラブルを起こす」から。

言葉を変えればトラブルだけど、それはさまざまな人と出会うことでもある。出会うとトラブルも起こる、そこはセットなのに、障害のある人たちは人との出会いを禁止されることが当たり前だと思われている。

【写真】「わたるな」と書かれた交通看板

障害のある人子どもをもつ親もそう思いがちですよね。トラブルや人に迷惑をかけるのが嫌だから、「やらない」・「行かない」・「言わない」と制限をかけてしまう。それは要するに、本人を認めていないことにつながると思うんですよ。「障害があるこの人は、なにも出来ない」を前提にして、その関係性を崩しにくいのが家族なんです。それこそ、健常者と呼ばれる人たちは親をけっとばしてまで自立するのに。

抑圧された状況に自分の息子が置かれているから、そして自分へ置き換えたときにとても許せないからこそ、レッツや障害福祉施設「アルス・ノヴァ(※注1)」ができたんです。

※注1 アルス・ノヴァ:NPO法人クリエイティブサポートレッツが運営する障害福祉サービス事業所。生活介護、就労支援B型、放課後等デイサービスなどの福祉サービスを2拠点で展開している。 >公式ウェブサイト

【写真】インタビューに応える久保田さん

私たちができることは、問い続けること

あらためて「健康で文化的な最低限度の生活」に立ち戻る。

「健康=病気ではない」のように、私たちが日々ものごとを判断するうえで用いる「なんとなく正解っぽいもの」や「こうあるべき」、「こうでなければいけない」と思い込んでいる価値観こそが、「健康で文化的な最低限度の生活」のさまたげになっているのかもしれない。そう伝えると、久保田さんは次のように応える。

みんなもその疑問を、うすうす感じているんじゃないかなと思います。「健康」と言ったときに、果たして厚生労働省の示す「健康」や、医療関係者が示す「健康」が、正しいのかどうか、自分にあてはまるのかどうか、考えている。そこから先はあまり追求しないで、とりあえずこういうもんだよねと、個々で納めてしまっている。

レッツで哲学カフェを開催することがあって、参加者に「本当にそうなんですか?」という問いを投げかけてみると、それぞれがさまざまな考えを持っていることがあらためてわかってきたんです。

「自分の常識を世界とごっちゃにしないでくれよ」と書かれた張り紙

現在の社会のなかで、こうした個々の価値観を話し合える機会や、一緒に考えながら答えを探っていく環境が、どこまで用意されているのだろうか。福祉施設でありながらも、アートNPOとして活動するレッツの核には、文化のなかで「問い続けていくこと」が据えられている。

思い込みや当たり前を超えていくために芸術があり、文学や文化的なものがあり、そうやって世の中が出来ているのではないかと思います。だから私たちができることは、問い続けること。やっぱり色んなことが言えるのがいい時代・いい世の中だと思うから。

「この価値観が正しい」と思う人も、「おかしいな」と思う人も、それらが発言しやすい社会にしないといけない。今はおかしいとすら思わない人も、さまざまな意見をたくさん聞いて、自分と違った生き方や感じ方の人に出会う、本に出会う、絵に出会う、文学に出会う、つまり文化に出会うことで、価値観が開花していくでしょう。

そのときに大切なのは、自分のなかの確信みたいなもの。好きなことや大切にしたいこと、すごく心地のよいものを、きちんと追求していけば、おのずとゆるぎない自我も確立していくし、そこからまた文化が生まれていくはず。

だからこそ障害のある人たちも健常者と呼ばれる人たちも誰しも、好きなことや大切なこと、心地のよいものを追求できる環境が必要だと言い続けたいです。

文化のなかで、他者とともに答えが出ない問いを追い求め続けることは、エネルギーが必要だ。「これはこういうものだから」と理由をつけて納めたほうが、心と体を揺さぶられずに快適に生活できるかもしれない。しかし久保田さんは、だからこそ、その不安を文化に委ねてみてほしいと話す。

答えなんてものは見つかるはずのないものだと思えば、問い続けることはそんなに恐いものではない。答えが見えないことや、不確かなことをモヤモヤさせるのは、文化が引き取ってくれるところだし、そしてその気持ちを「これでいいんだ」と勇気づけてくれるのも、文化の役割だと思うんです。

【写真】インタビューに応える久保田さん

取材を終えて

久保田さんへの取材を終えて、気付いたことがふたつある。

まず、健康のこと。「画一的な健康を放棄して好きに食べて何が悪いのか」という問いを、深夜のポテトチップスと対峙しながら考えた。食べすすめている最中も、やっぱり罪悪感がつきまとう。プライベートな空間であっても、行動にどこか負い目を感じてしまう。

そうさせているのは、はたして「食べすぎは体に毒だ」と警鐘を鳴らす自制心だけなのだろうか。誰かが定めた基準に自ら合わせにいってないか。もしそうであるならば、たとえ自分がそれを満たせなかったとしても、「健やか」な毎日を送ることを諦めなくていい、と思いはじめている。

そして、文化のこと。「人間の生活には、衣・食・住と並んで文化がある。それを得られる権利を放棄してはいけない」という久保田さんの発言に照らされて、私のなかに「自分が文化と遠い場所に暮らしている」という考えがあったことに、気がついた。

私にとっての文化とは、才ある一握りの人々が創り上げてきたもので、劇場や美術館、映像や書籍などを通じて、享受するものだと、少なからず思っていた。しかしそれは、文化のごく一部の側面に過ぎないのかもしれない。文化とは、レッツが出会いを求めて街中へ飛びだしていったように、この時代に生きる私たちが毎日少しずつ関わりあいながら作っていくものでもあるはずなのだ。

こうして久保田さんが投げかけた疑問が、私のなかでもさざ波となって、日々の「当たり前」を揺さぶっていく。どんな些細なことでもよいから、自分のなかの「当たり前」に光を当て、そこから見えてきたものを他者と関わるきっかけにしていきたい。

【写真】取材の帰り道で見かけた月

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