

自分のルーツを辿るということ そのときの私が語りたいこと、誰かと考えたいこと。なみちえさん×下地ローレンス吉孝さん 往復書簡 vol.7
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人の複雑さや多面性、そして流動性を、私たちはどうすれば尊重できるのだろうか?以前、そんな問いをもとに、アーティストのなみちえさんと社会学・国際社会学を専門とする下地ローレンス吉孝さんに対談いただいた。その対談をきっかけに実現した、おふたりによる往復書簡連載。
なみちえさんより連載最後の寄稿をいただきました。前回下地さんからのお便り「『もしおじいさんに復讐ができるのなら』沖縄にきて思わぬ形で出会ったもの」にふれながら綴っていただいています。(こここ編集部 垣花)
戸惑いの理由と一貫性
「もしおじいさんに復讐ができるのなら」──そのタイトルを目にしたとき、私は思わず胸がざわついた。 ミックスルーツの人間として、ディアスポラ的な複雑さを抱えて生きてきた私にとって、「復讐」という言葉が持つ響きは、時に心の深い部分を刺激する。 タイトルの背景を知らないまま、爽やかな海の写真と「復讐」という文字が並んでいたのを見て、一瞬戸惑ってしまった。 ちょうどその時期、私は大変複雑な状況だったからこそ、その言葉に敏感になっていたのかもしれない。
今回、この往復書簡を改めて読んでみて感じたのは、最初の対談から今に至るまで「ルーツを知る」というテーマが、ずっと一本の糸のように通っているということだった。 特に下地さんの前回の手紙にあったDNA検査の話を読んで、私も自分のルーツを辿ってきた過程を思い出した。 ルーツを知るということ。私はこれまで、自分の中にある複数のルーツ<日本とアフリカ>をどう扱っていくべきか、ずっと悩んできた。
※2018年に公開した「母は転勤族の娘 私はアカン族の娘」の記事にも綴ってある。記事はこちら。
母は転勤族で、私は茅ヶ崎生まれではあったけれど“純粋な茅ヶ崎人”ではなく、どこにも完全に属していない感覚を抱えていた。 そんな自分の出自を見つめ直したのは、意外にも最近のことだった。 数年前から自分のガーナのルーツをより深く掘り下げた事をきっかけに日本側のおじいちゃんにも昔の東京のことを興味を持って尋ねていた。その対話の中ではじめて「家紋」を知ったとき、(おじいちゃんが田村家のグループラインに貼ってくれた)自分が“日本の中のどこか”に確かに繋がっているという感覚が芽生えた。 家紋の話を祖父に聞いたり、日本各地のルーツを探っていくなかで、「自分は何者なのか?」という問いが少しずつ輪郭を持ちはじめた。
ちなみにうちの家紋は、丸に立ち沢瀉という紋で、[沢瀉(オモダカ)]紋の一種です。

日本人は大和民族だけではない。 アイヌ、弥生、縄文、琉球など、さまざまな文化や血が混じり合って今の“日本”がある。 ルーツを辿っていく過程で、沖縄の文化にふれる機会もあった。ユタやノロなどスピリチュアリティを知り、自分の背景も混ざり合ったものとして受け止めていくことの大切さも実感した。
DNA検査とルーツの発見
自分のルーツをより具体的に知るために、DNA検査も試してみた。 本当は父方──アフリカ側のDNAを知りたかったのだけど、父に頼んだら「全人類アフリカ生まれに決まってるだろ」と返されてしまった(笑)。そう言われてしまうと、納得するしかなかった。 その代わり、おじにあたる母の弟に協力してもらって、日本人側のDNAを調べてみた。 すると、縄文要素と弥生要素が両方同じくらいに出てきて驚いた。結果によると私の祖母がシベリア系日本人ということになる。(福島や東北の血が自分の中に流れていることは知っていたが。 )

さらに、母の弟からは3%のカンボジア人のDNA、そうなると祖父のDNAにはなんと6%ほどカンボジアの要素が含まれていることになる。 つまり私は、1.5%ほどカンボジア人のルーツを持っているということになる。 それを知ったとき、ふと田村家の仏教的な価値観や、瑞巖寺(ずいがんじ)というお寺にルーツがあることなどと結びついて、妄想が広がった。検査結果によると、祖父は弥生系のルーツであった。弥生民族は東南アジア方面から日本に渡ってきたという説もあるし、祖父の中にあるカンボジアの仏教的な思想と血の流れが、どこかで繋がっているのでは……なんて思ったりもする。 DNA検査によって、「知識」ではなく「実感」としてルーツを感じることができたのは、すごく大きな経験だった。この往復書簡を見た人で同じくカンボジアのルーツがある人がいたらぜひお話を伺いたい。

因みに瑞巌寺122世の太陽東潮和尚が私の先祖になる。調べてみると、彼が伊達政宗公晩年の詩を写した作品が見つかった。まるで私がツイッターを一生懸命更新してた時を思い出す。そして格が全く違うがChatGPTの言葉をコピペする現在の私を同時に思ってしまう。
瑞巌寺は、宮城県松島町に位置する臨済宗妙心寺派の禅宗寺院で、正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」。その歴史は9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開かれた天台宗の延福寺に始まる。
妄想って楽しいですよね。こんな仮説を立ててみました。(おじいちゃんに話を聞いたら母の父つまり私からすると、ひいおじいちゃんの方がカンボジア系なのでは?と言っていたのでそれを元に作ってみました。でもひいおばあちゃんの方が寺の家系なのでそちらにも可能性があるのかもしれない)
カンボジアと日本の混血形成(江戸時代)
江戸時代初期(17世紀)
- 日本町がカンボジア(プノンペン、ピニャルー)に形成され、クメール人と日本人の混血が進む。
- 鎖国により帰国できなくなった日本人の子孫が現地に残る。
ひいひいおじいちゃんの祖先が、カンボジアのクメール人と日本人の間に生まれる。 - 日本への帰国
仙台の仏教寺院に関わる形で帰国。
カンボジアの血統が仙台で確立される。 - ひいおじいちゃんの誕生(1915年頃)
ひいおじいちゃんはカンボジア系の血統を12%程度引き継ぐ。
ひいおばあちゃんは仙台で寺の家系として育つ。 - 現代の遺伝子検査
おじいちゃんに6%のカンボジア系血統が確認される。
家族のつながりとディアスポラ
2023年11月頃、私がガーナに渡航し、父方の祖父の家系を訪ねたときのこと。 現地で親戚に会い、「お父さんってどんな性格?」と聞くと、みんな揃って「頑固だよ」と笑いながら話してくれた。彼らの言葉の中に、自分がどこから来たのかを知るヒントがたくさん詰まっていた。 そうした経験を通じて、改めて思うのは、「家族」という形の違いだ。 ヨーロッパ的な資本主義の影響を受けた家族は、どこか合理的で、個人主義的。戦後の核家族化もその影響を受けているのではないか。それに対して、アフリカの部族的な家族は保守的ではあるけれど、一度受け入れられると非常に温かい。 そこには「家族として繋がっている」という安心感が確かにあった。 また、周りのミックスの友人たちとも話していて感じるのは、国際結婚や混血の背景には、時代によって異なる緊張感が存在していたということ。 とくに戦前・戦後は、「禁断の恋」として扱われるようなケースも多く、そうした歴史の延長線上に、いまの私たちのディアスポラ的な存在があるのかもしれない。この往復書簡を通じて、私は少しずつ「自分のルーツを知る」という旅を続けている。 言語、土地、宗教、文化、血—それぞれの層が織り重なって、いまの私がいる。
ローレンスさんと言葉を紡ぎながら、私たちは違う背景を持ちながらも、同じ言語=日本語という大切な共通点で繋がっている。 その繋がりの中で、私もまた、自分のルーツと向き合う力をもらっているように感じている。
これで最後なのが本当に寂しい。ゆっくり進めていたつもりが終わりを迎えている事に悲しみを覚えます…!! これからもkeep in touchしたい!!!!
最後まで読んでくださってありがとうございます。
次に言葉を交わせる日を、静かに楽しみにしています。
なみちえ