福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

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「何かあったらどうするんですか?」の向こう側──永井玲衣/西川正/平田節子 言葉のもやもや歩き vol.01

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社会の中でときどき聞く、人々の幸せ(=福祉)に確実に影響を与えているだろう言葉を、みんなで考えていく寄稿連載シリーズ。初回のテーマは、「何かあったらどうするんですか?」です。

リスクがどんどん遠ざけられていく今の時代に、私たちはこの言葉とどう付き合いながら、前に進んでいけばいいのでしょうか?

今回は、哲学対話の活動を幅広く行う永井玲衣さん、地域で遊び場づくりなどを手掛けられてきた西川正さん、在宅医療の現場でさまざまな企画をされる平田節子さんの3名にご寄稿をいただきました。

・永井玲衣さん(哲学者/作家)

・西川正さん(NPO法人ハンズオン埼玉 理事/真庭市立中央図書館館長)

・平田節子さん(医療法人かがやき 総合在宅医療クリニック 総合プロデューサー)

おばけに会っても 永井玲衣

言葉はひとびとをつなぎ、ひらいていく。出会いを生み、新たな言葉を育て、行動が立ちあらわれる。だが一方で、出会いを阻み、言葉を枯れさせ、行動を萎えさせる言葉がある。「なにかあったらどうするんですか」はそのひとつかもしれない。

懸念されていることが「なにか」なのが、興味深い。それは実体がない。気配だけがある。子どものころ、夜中にトイレに行きたくて目がさめた、あのときのようだ。絵本で読んだおばけの顔がつぎつぎと曖昧に浮かんで、消えていく。見えていないが、なにかがあるような気がする。どうせだったらはっきりと枕元に立ってほしい。

どんな場にもこの言葉はやってくる。日々のもやもやについて人々と考えあう対話の場をつくろうとするときも、この言葉は姿をあらわす。「また会ったね」と挨拶をしたくなる。自由な対話によってこんなことが起きてしまったら。あんなこともあるかもしれない。あれはどうなるのか。可能性を列挙されることもある。たしかに想像することは重要だ。だが、枠付けられた想像力の外側にも、世界は広がっていることも想像する必要がある。

「なにかあったらどうするんですか」に対して「なにもなかったらどうするんですか」と思うときがある。ここで対話の場をひらかなければ、なにも起こらない。なにも変化しない。このままだ。それでいいのだろうか。いや、なにも起こらないどころか、このままだとおしっこがもれてしまう。おばけを心配する子どものわたしは、布団にもぐればおばけに会わなくてすむが、トイレに行くことができない。対話でも同じだ。状況を変えるために、わたしたちは対話の場をつくるのだ。

「なにかあったらどうするんですか」を再検討することは、その言葉をつかうひとを責めることではない。むしろ「どうするんですか」と言うひとの孤独を思う。そのひとは、ひとりでおそれている。ならば誰かと暗い廊下を歩いてトイレに行けばいい。NPO法人抱樸の奥田知志さんの「苦労は頭数でごまかそう」という言葉を思い出す。おばけに会っても、誰かと一緒にいればどうにかなるかもしれない。大事なのは「なにか」があったその先が、ひとりではないことなのだから。

一緒にあたふたしてみる 西川正

学校や地域で、コミュニティを育むことを目的とした焼き芋をしませんかというキャンペーンをはじめて20年になる(*注)。しばしば「校長先生に相談したが反対された。どうしたらいいだろうか?」などの相談を受ける。そこで校長先生が言う典型的な言葉が「何かあったらどうするんですか?」だ。

暮らしにかかわる、あらゆる事柄がサービス産業化・システム化した今日の社会では、こうした「何かある」、つまり予期せぬ事態が起きることを過剰に恐れるようになった。そして、そんな社会の変化による影響を大きく受けているのが、「遊び」を主食とする子どもたちである。

そもそも遊びとは、「何かあるかもしれないこと」をわざわざ希求する行為である。最初から結果がわかっていたら(=リスクがゼロなら)、それは遊びにはならない。何が起こるかわからないから遊びになる。ワクワクは、ハラハラと切り離すことができない。遊びは「生まれてくる」ものだ。

この遊びを禁止されると、子どものwell-beingは大きく損なわれる。「やってみたい」という気持ちは、満たされることがないとやがてあきらめに変わる。一方、子どもの隣にいる大人の仕事は管理=禁止が仕事になる。多少なりともリスクのともなうことは一切できない。そんな仕事は楽しいはずがなく、結果、教員をはじめ子どもにかかわる仕事につきたいという人は、大激減中だ。大人も子どもも、息苦しい。

さて、冒頭の相談ごとへの私の返答は次のようなものだ。

「何かあったらの『何か』は、具体的に何になりますか? まずは、それを先生と一緒に考えてみてはどうでしょう」

心配事(焚き火の場合、やけどや近所からの苦情など)を具体的に全部出しあう。そこから、対応策も一緒に考えていく。一緒に考えることの意味は二つある。一つは、重大事故を防止しながら、小さな怪我などの許容すべきリスクを明確にできること(リスクマネジメント)。安全で楽しい行事になる。もう一つは、そのやりとりの中で、ともにつくる間柄になること。みんなであたふた、わいわいする時間が、信頼を生み出す。

「何かあったらどうするんですか?」という言葉の背景には、自分のせいにされたくないという不安(孤立感)がある。しかし、対話を重ねると、その不安は「何かあってもなんとかなる」という安心に変わる。

ともに考え、決めれば、誰かのせいにはならない。その安心感が「やってみよう」を支える。

一緒に遊べば仲間になれる。仲間がいれば遊びが生まれる。

*注 みんなのヤキイモタイムキャンペーン(ハンズオン埼玉) https://hands-on-s.org/

なにかは、ある。 平田節子

在宅医療専門クリニックで働いてきた12年間、たくさんの「なにかあったら……」に出会ってきました。

自宅で治療を受ける患者さんの、一つの条件は「ひとりでは通院ができない」ことです。重い障害のある方や、難病の方などさまざまですが、医師から限られた命であることを告げられている末期がんの方も多くいます。「それならば自宅で過ごしたい」。

とはいえ、その思いが実現しないこともあります。そのきっかけが、ご家族の「家にいて、なにかあったら心配だから」という声であることも少なくありません。

でも、「なにかあったら……」という言葉を聞くたびに、わたしは思います。

「なにかは、あります」

そう、なにかはあるんですよ。生きているのに、なにもなかったら困るじゃないですか。

病院にいても、自宅にいても、残り時間は実はそれほど変わりません。(自宅に帰った方が残り時間が長くなる、という研究結果があるほどです。)「なにかあったら……」、この「なにか」には「死」という言葉だけが入るのでしょうか。

いずれそういう日が来ることはご家族もよくわかっているはずです。それなのに心配の言葉を発するのは、「なにかが起きる」ことではなく、「なにかが起きた時に自分が受け入れきれない」ことが心配なのだと思います。つまりは患者さんの心配ではなく、本当は自分を心配しているのかもしれません。もちろん、私たちはそんな風にご家族を責めたりしないので、そのまま患者さんは入院となり、最後まで自宅に帰って来られないこともあります。

在宅で家族を看取っていくのは、確かに不安で怖いことかもしれません。けれども、それまでの時間はご本人やご家族にとってはかけがえのない時間となります。また「なにか」が起こったとしても、在宅での死は穏やかで温かい空気が流れ、壮絶で絶望的なものではないことが多くあります。

「なにかあったら……」と感じている家族、時には本人の「なにか」とは、何のことか?その言葉を発した人自身も言語化できていないであろう、本当に怖がっているものは何なのか?対話の中でそれが浮かび上がってくるとよいなぁ、とわたしはいつも思うのです。