
居場所・つながり・役割・生産性。「望まない孤独」をめぐる対談でみえたものとは?吉藤オリィさん×奥田知志さん こここスタディ vol.04
自分は誰かに必要とされているんだろうか。いずれひとりぼっちになるのではないだろうか。ふとしたときにそんな不安が頭をよぎり、苦しめられた経験がある人はきっと少なくない。あるいはもっと切実に、いままさにその「孤独」の渦中にいる、と感じている人もいるかもしれない。
たとえパートナーや家族がいても、社会的地位が確保されていたとしても、私たちはそれらを突然失うことがある。絶対にひとりにならない、とは誰も言い切れないし、自助や自己責任を強く求められるいまの社会には、孤独と常に隣り合わせであるかのような緊張感がある。
どこにも居場所がなかった、という自身の学生時代の経験から分身ロボットの開発者になったロボットコミュニケーターの吉藤オリィさん。吉藤さんは、「孤独」を「自分が誰からも必要とされていないと感じ、辛さや苦しさに苛まれる状況」だと定義する。
そして、東八幡キリスト教会の牧師であり、30年以上に渡ってホームレス支援を続けているNPO法人抱樸の理事長・奥田知志さん。奥田さんは、「家族や友人、いざとなったときに頼れる人がおらず、社会という人的なネットワークからこぼれ落ちて、孤立してしまっている状態」を「社会的孤立」と呼ぶ。
「孤独」や「社会的孤立」の実態と向き合い続け、ロボット開発や生活困窮者支援といった活動を通じてその解消法を思索している吉藤さんと奥田さん。
おふたりに「孤独」や「社会的孤立」が生まれづらい社会の実現のためにはなにが必要か、というテーマで対談いただいた。
なぜ社会的孤立や孤独が生まれてしまうのか?
奥田知志さん(以下、奥田):まず、なぜ社会的孤立や孤独が生まれてしまうのか、という問いを近視眼的に考えるなら、「楽だから」だと思います。
みんな、さまざまな人と付き合うよりもひとりでいるほうが楽、あるいは安全であると考えている。これは、現代に生きる人間としては誰しもよくわかる感覚ではないかと思います。
奥田:一方で、社会構造的な要因ももちろん別にあります。1980年代後半から台頭してきた新自由主義的な流れが自己責任論と通じ、経済や雇用に与えた影響は非常に大きい。経済大国としてのかつての日本が持っていたストックがこの30年で失われ、安心して冒険できない、危険を冒せない社会になってしまった。
僕は、いい社会というのは失敗しても死なない社会だと思っているんです。でもいまの社会は、特に若者たちにとっては、「シートベルトもエアバッグもついていない車で競争しろ」と言われているようなものだと思う。
仮に勝ったら高額の優勝賞金がもらえるとしても、そんな車に乗って命がけの競争をする人なんているんだろうか、という問題です。
人との関係においても同じで、知らない人と関わるにはリスクが大きすぎる、という考え方が社会的に浸透しているのだと思います。
ここ2年間でその感覚にさらに拍車をかけたのが、新型コロナウイルス感染症の流行ですよね。人と一緒にいたら感染するかもしれないから、物理的にも他者と関わることがリスクになってしまった。そういった複数の要因が合わさって、社会的孤立や孤独が生まれているのではないかと思います。
吉藤オリィさん(以下、吉藤):私は80年代後半生まれなので、いま奥田さんがおっしゃったことは当事者としてよくわかります。
小学生の頃から、人に合わせることが本当に苦手だったんです。集団下校もできないし、運動会に参加するのも制服を着るのも嫌だった。人に話しかけることもすごく苦手でした。
吉藤:当時は、友人たちが遊べるようなおもちゃを手づくりしたり、副学級委員長というポジションを無理に引き受けてみたり、ある種の「役割」をもつことでなんとか居場所を確保していました。
でも、だんだんとそれに疲れてきて、小学校5年生から中学3年生まで不登校になったんです。そうやって人と話す機会がなくなると、自分は社会にとっての荷物なんじゃないか、生きる意味なんてないんじゃないかと思えてきてしまうんですよね。
友人って、つくるのも維持するのもすごく大変じゃないですか。奥田さんがおっしゃるように、人に合わせるのがつらい、ひとりでいるほうが楽という気持ち自体はすごくわかるんです。
奥田:うんうん……、そうですよね。
吉藤:現代社会って、自分が嫌なことを我慢してでも周りの人と力を合わせないと生きていけない、という時代ではないと思うんです。自分からひとりでいるのを選びやすくはなっている。
その結果としていまは、人に話しかけるだけでも、相手にとってのメリットを提供しなければいけないようなプレッシャーがあるのを感じます。「自分と話す時間にはこんな意味や価値があるんですよ」と……。少なくとも、私はそういうプレッシャーを感じてしまうタイプですね。
人と関わる上で「役割」は必要、だけれど
奥田:ある種の「役割」をもつことで居場所を確保していた、というお話はとても興味深い。たしかに人と関係性を築く上で「役割」は必要ですよね。
ただ、一方でそれは、役に立つことや生産性ばかりを追求するという考え方にも繋がりかねない諸刃の剣でもあると思っていて。
たとえば、津久井やまゆり園の殺傷事件のあと、私は加害者である植松氏に実際に会いに行って話をしました。彼は「障害者には生産性がない」と言うんです。役に立たない人間はいないほうが社会のためになる、と。
「じゃあきみはあの事件の前、役に立つ人間だったのか」と私が聞いたら彼はちょっと考えて、「僕はあまり役には立たなかった」と言いました。
私はその言葉を聞いたときに、あの事件の根本にあったのは、単純に言えば役に立ちたい、認めてもらいたいという承認欲求だと思ったんです。実際に彼は裁判のなかで、「もしも自分が歌手や野球選手だったらこんな事件は起こしていない」とまで話していた。
つまりそこには、コンプレックスやある役割への歪んだ欲求のようなものがあり、彼自身があの事件を起こすことで役に立つ人間になりたい、という思いがあったようなんですね。
もちろん、動機がどうであれ彼がしたことは間違っていて、擁護しようとは思いません。けれど、生産性や役割といった価値観が非常に歪められてしまっている社会において、「きみは役に立つ人間なのか」というのはまさに時代からの問いかけで、その問いは私にも多くの人たちにも同じように向けられていると思うんです。
役割があることで人との関係がうまくいくことがある、というのはたしかに事実だけれども、じゃあその役割とはなにか、ということは問い続けていかなければいけないと思う。
吉藤:それはおっしゃるとおりですね。自分自身の経験でいうと、私は不登校だった頃、本当にどこにも居場所がない、と感じていたのをよく覚えていて。
休んでいる間に学校のプリントを届けてくれる友達にも、はじめのうちは「ありがとうな」って言えるんです。でも、徐々にそれが「ありがとうございます」になり、「いつもすみません」になり、最終的に「もう私のことはいいです」になる。やさしくされることが辛い、という境地に至ってしまうんです。
なにかをしてもらわなきゃ生きていられないのに、それに対してなにも返せないし、受け取る余裕すらないという状態は、とても貧しいことだと当時感じていました。周りからは「あなたは生きているだけで価値があるんだよ」と言ってもらえたこともあるんですが、私はそれでいいと思えたかというと、実は思えなかったんです。
奥田:ええ、なるほど。
吉藤:それだけではなく、これまでさまざまな人と出会うなかでALS(筋萎縮性側索硬化症)の当事者と話す機会もあって。
病状が進行すると呼吸器をつけなければ数年で死に至ってしまうこともある病気なのですが(※注1)、呼吸器をつける選択をする人って世界的に見ても患者の3割ほどなんです。
注1:「人工呼吸器を使わない場合、病気になってから死亡までの期間はおおよそ2~5年ですが、中には人工呼吸器を使わないでも10数年の長期間にわたって非常にゆっくりした経過をたどる例もあります」(難病情報センター 筋萎縮性側索硬化症(ALS)ページより引用)。またALSに関する詳細は「筋萎縮性側索硬化症診療ガイドライン2013」にも記載されています。
呼吸器をつけるとこれまでと同じようなコミュニケーションをすることができなくなるし、隣に人が24時間いてくれないと生きていけなくなる。それを「自分らしさが失われる」と捉え、つけない選択をする人のほうが圧倒的に多いです。
だからこそ、彼らが呼吸器をつけて生きていくことを決断するためには、生きる理由や目的といったものが必要になる。「目的なんかなくていいよ、あなたは生きているだけでいいんだよ」って家族は声をかけたくなるんですけど、それを本人が納得できないというケースは多いです。
いまはもう亡くなってしまったのですが、番田という親友は、私の遠隔操作型ロボットの研究を知ったとき「外出ができないことのいちばんのハンディキャップは、出会いと発見がないこと。それが一番の障害なんだ」とメッセージをくれました。この言葉が忘れられなくて。
私は不登校のときにも学校に通う以外のことに挑戦する機会は多くありました。そのひとつがロボット競技会への参加です。そこで、展示されていたロボットに驚き、ものづくりの師匠である久保田憲司先生と出会うことができました。その後、さまざまな研究者たちに刺激をもらい今の研究や実践につながったんです。つまり、さまざまな出会いがあったことで人生が変質してきた。
偶発的な出会いは「そこに自分が居たこと、相手がそこに居たこと」から生まれます。でも寝たきりの状態だった番田には、その機会を得るのが難しかった。私が携わっているOriHimeやOriHime eye、分身ロボットカフェは、人や組織、社会との関係性をもたらす為のものなのです。
人が存在するためにはなにかしら”居る理由”が必要だ。いくら、周りが「毎日来てくれていいよ」「好きにしてていいよ」と言っても、本人がそれで気まずいと思ったらそれは居場所ではないんだ。「どうしてここにいるの?」と聞かれたとき「ここが僕の席だから」「僕の役割はこれだから」と言える事は大切だ。
たとえ周りの人が「あなたには死んでほしくない。生きていてほしい。生きてさえいてくれたらいい。」と言ったところで、本人が”自分が生きている事で誰かが喜んでくれているという実感”がなければ、それは生きているのではなく生かされているだけだ。生きれるだけ贅沢だと言われるかもしれないけど、それは生きてはいないんだよ。
何気ない日常を共にできる関係性はどうすれば育めるのか?
奥田:私は日頃から、家族機能を社会化せなあかん、ということをよく言っています。「従来の家族」には、家庭内サービス、たとえば住居や食事、睡眠、看護、教育、服飾、介護などを相互に担い支える機能的な側面があったと思います。
それらは充分とは言えないまでも、社会保障や制度によって社会化されているものがある。しかしそれ以外にも家族には「何気ない日常」という大切な機能があったと思うんですね。
何気ない日常というのは、先日私がお話を聞いた研究者の方の言葉を借りるなら、「意味のない言葉を語り続けることのできる空間」です。現代社会には、それが許される空間や時間があまりにも減ってきている。特にネットの世界では、意味のあること、印象に残ることを短く決め台詞のようにスパッと言わなきゃいけないというプレッシャーを強く感じます。
それは非常に理性的なことなんだけど、もうちょっと身体性や場所性といったものに目を向けてもいい。目的を達成するためにできるだけ最短ルートをめざそう、という現代社会はあまりにも「強目的的」になっている。なので、私はこの頃「弱目的的な場が必要だ」とよく言うんです。
家族の時間というのはまさに弱目的的で、言うなれば休み時間の連続なんですよ。そこにはさしたる目的もなく、ダラダラとみんなでお笑い芸人さんが出ているテレビを2時間くらい見て、「あ~おもしろかった。風呂入って寝よか」みたいなことができる。けれど、いまは本当にそれが失われた時代なんだと思います。
吉藤:そういうことができるように相手と関係を築くのって、実はとても難しいことですよね。「いてくれるだけでいいんだよ」というのも、その家の一員だという立て付けというか、理由があるから成り立つことで。
だからこそ、そういうときにある種の立て付けというか、「必要性」があることは有効だなと思うんです。
たとえば学校には、「必要」な授業時間の合間に、ある意味「不必要」な休み時間がある。人とのつながりは、そういった「必要のなかにおける不必要」な時間にこそ生まれるのではないか、と研究を続けるうちに考えるようになって。
その「必要のなかにおける不必要」を人工的に設計していくことで、孤独や孤立という問題の一部を解消できるんじゃないか、というのがいま私が考えていることです。
奥田:なるほど、いまのお話には非常に共感しました。つまり授業時間というのは生産性が追求される時間だけれど、休み時間はそういうものさしで測られない時間だということですよね。それが吉藤さんのおっしゃる「必要のなかにおける不必要」だと。
吉藤:ええ、そうです。
奥田:ある種の立て付け、目的も理由もなんにもなしで集まりを成り立たせるのが難しい、というのもおっしゃるとおりですね。目的がまったくないとは言わないのだけど、それぞれがそこに居られるさまざまな理由が「ついでに」という感じで付随している。それが「弱目的的」なものなのかな、と思いました。
吉藤:まずはなんらかの役割を用意し、役割を通じて徐々に関係ができていくことで、それがだんだんと「腐れ縁」や「10年間一緒に働いた仲間」のようなものになっていくのだと思います。
老後、なにもできなくなった自分の病室に会いに来てくれる友人というのは、そういった場から生まれるんじゃないかと思うんです。
それでも「生きることそのものに意味がある」という宣言をし続ける
奥田:キリスト教の世界でこれを言うとちょっと嫌がられてしまうんですが、私は宗教や教会というのも、まさにそういった「場」のひとつでいいと思っているんです。
キリスト教においてはとかく信仰そのもの、つまりクリスチャンになることが目的だと言われるんですが、その目的の周辺にある出会いを通じて自分が変わっていく、というのも見逃せない。
行きしなと帰りしなでまったく違うことを考えている、というのがいい学びですから、そのための場づくりというのも宗教の大事な役割のひとつなのかなと思うんです。
吉藤:牧師さんのお仕事には、教会のコミュニティ運営のようなことも含まれるんでしょうか?
奥田:そうですね。特にうちはプロテスタントなので、コミュニティをつくるというのは大きな仕事です。だから、礼拝が終わったらみんなで一緒にご飯を食べる、みたいなこともしますし。
吉藤:それってみなさんが参加するにあたって、奥田さんがなにか工夫をされているんでしょうか?
奥田:いや、そんなに言うほどの工夫はしていなくて、ただ単にみんなで一緒にうどん食べて帰ろか、みたいなことですよ(笑)。
……ああ、でもこれはひとつ宗教の独特なところかもしれないんですが、食事をとる前に「食前の祈り」を捧げる時間があるんです。
うちの教会は生活困窮者の支援をずっと続けてきていて、教会のなかにはシェルターも、つながりのあった方の骨が眠る納骨堂もある。だからこそ、その祈りのなかに、「食べられない人たちのことも心に刻んで頂きます」というひと言を入れているんです。
そうなると、食事の目的がただ食べるということだけじゃなく、食べられない人たちに心を割くという次の目的に発展していく。そういうふうに枝葉がついていくことが大事なのかなと思います。
炊き出しの様子。NPO法人抱樸公式note「2016年「偲ぶ会」奥田理事長あいさつ」より(提供写真)
吉藤:なるほど。コミュニティの運営においてはなにかしらフラッグのようなものを設計する必要があると思うんですが、いまのお話で言うと、感謝を捧げるということがその目的や生きがいになっていく、という……。
奥田:そうですね。だけれども宗教は、宗教そのものを目的としすぎてしまって、宗教のために人間がいるような勘違いが起きてしまっているのではないかと感じています。これは実は宗教だけじゃなく、経済や科学技術においても同じことが言えると思うのですが。
吉藤:それはパラドックスですよね。さきほどのお話で言うなら、本来は生きることそのものが目的であればいいのだけど、一方で生きるためには目的が必要だから。
奥田:そうですね。これまでの吉藤さんのお話からもわかるように、なんのために生きるのか、という目的はたしかに必要です。
ただ、やはり僕が声高に言いたいのは、「あなたが生きていることに意味がある」という絶対的な宣言と両輪だということです。目的だけが突っ走ってしまってはいけない。生きていることそのものに意味がある、というところには、この時代、ときどき立ち返るようにしないといけないと思う。
1950年代に、知的障害のある子どもたちの福祉と教育を推し進め、「福祉の父」と呼ばれた糸賀一雄という人物がいます。糸賀の考え方に「発達保障」というものがあって、どんな状況にあっても人間は発達していく、と彼は言うんです。
歳を重ねるごとに知力や身体能力が上昇していくような縦軸の発達概念があるとしたら、それに対して「その人がその人らしくなっていく」のが横軸の発達概念であって、それに影響を及ぼされた社会自体も発達していく。
「この子らを世の光に」というのが彼のいちばん有名な言葉で、障害のある子どもたちに世の光を当てるんじゃなく、その子たちを世の中心に置くことで社会も発達していく、というのが糸賀の考えです。だからこそ、どんな人にも生きている意味があると。
うちの教会には、「なんのために生きてるの?」という問いを社会から押しつけられて苦しくなったという子たちがたくさん集まってくるんです。その人たちは判を押したように、自分なんかどうでもいい命だ、と言います。
うちの教会には「神様はどうでもいい命をおつくりになられるほどお暇ではありません」という標語があって、礼拝のときは毎回、司会者が真面目な顔でこれを宣言してからはじめるんです。こういう当たり前のことを誰も言わなくなった時代だということは、僕は覚えとかなあかんと思いますね。
吉藤:そうですね。
ALSの当事者と接していて思うのが、生きるために誰かの手を借り続けなきゃいけないということは、彼らにとって精神的にも大きな負担だということです。それでも生きることを選択するに値するやりがいやミッションの設計に成功した人は、呼吸器をつけるという選択をされているように私には見えていて。
生きがいとか必要性のようなものって、なくてもいいよと言われても人はつい求めてしまうものだと思うので、その価値の転換は難しいのかなと個人的には思います。その上で、これからはそういったものを与えてくれる存在に価値が出てくる時代になっていくのかなと。
奥田:なるほど……。これは単純化できることではないとは思うのですが、当人にとっては内発的な生きがいや目的のようなものが感じられていない場合でも、周囲との関係性のなかで外発的な動機が与えられる、ということもありますよね。
吉藤:ええ、それはありますね。
奥田:牧師の世界においては聖書を解釈することを釈義と呼ぶんですが、実は生活困窮者支援も釈義だと私はうちのスタッフによく言うんです。
その人との出会いを通じ、周囲がその人のことをどう物語り、価値をつけていくかだと。そういう意味では、患者さんご本人が「話すことができなくなったら自分じゃなくなってしまう」と感じられていたとしても、その人と関わる周りの人が「あなたの存在は私にとってこういう意味があるんだ」と新たな物語を構築していくことはできるのかな、と思うんです。
誰かと一緒にいるということは「いつでもひとりになれる」という担保でもある
吉藤:私はこれまで自分の研究を通していろいろな方々にお会いしてきて、体が動かなくなったあともコミュニティをつくり、楽しく生きていらっしゃる寝たきりの人もいる一方で、お金をたくさん稼いで社会的地位もあったはずなのに、誰にもお見舞いに来てもらえない人もいるのを見てきました。その分岐点はどこにあったんだろう、というのをずっと考えているんです。
もちろん老後の問題としてお金のことも重要ではあるんですが、私は孤独にならずに生きていくためには、やはり他者との関係性をいかにつくっておくかがいちばん大切だと思っています。
関係性というのはいきなりお金で得られないものですから、さきほどからのお話にもあるように、「役割」はそのひとつの取っかかりになる。
ただ、役割を得るためにはコミュニケーションの機会や手段が必要なので、それを補う福祉機器をつくることが私のミッションだと思っています。これから先、いつか体が動かなくなっていったときに、どうすれば孤独じゃなくいられるかということを一人ひとりが考えながら、生きていけたらいいですよね。
吉藤さんのnote「2010年7月7日に"OriHime"というロボットが生まれて10年。10分で振り返る10年の軌跡」より(提供写真)
奥田:そういった福祉機器、ぜひ開発していただきたいです。吉藤さんがつくられた分身ロボットのようなテクノロジーは、これから先も絶対必要ですよね。そして、それを利用することによって、また社会に新しい変化が生まれていくのだと思います。
これから先、生活保護も含めた社会制度を整えて、ひとりでも生きていけるような社会をつくっていくことはとても大事です。でもその一方で、なんの目的もないけれど誰かと一緒にいたい、一緒にいるのが楽しい、ということも絶対に必要で。
誰かと一緒にいるということは、逆説的な言い方ですが、「いつでもひとりになれる」という担保でもあるんだと思います。社会的孤立や孤独に関する議論は、つい「共生社会」というところにばかり向いていきがちなんですが、主体性を持って自分が自分のことを決められる、個人として尊重されるというところは軽視されるべきではありません。
吉藤:コミュニティも自己肯定感も、どちらも必要であるということでしょうか?
奥田:ええ、まったくそうですね。周りの人が100人反対したとしても、「私は私だ」と言えるというのはとても大事なことですから。そこをきちんと押さえた上で、どう人とつながっていくか、という議論を常に両義的にしていくべきだと思います。
Profile
Profile
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吉藤オリィ
株式会社オリィ研究所代表取締役 CEO
奈良県葛城市出身。1987年生まれ。株式会社オリィ研究所代表取締役 CEO。小学5年~中学3年まで不登校。高校時代に電動車椅子の新機構の発明を行い世界最大の科学コンテストIntel International Science and Engineering FairにてGrand Award 3rd を受賞、その際に寄せられた相談と自身の療養経験から「孤独の解消」を研究テーマとする。分身ロボット「OriHime」、ALS等の重度難病者向けの意思伝達装置「OriHime eye+ switch」、10万ダウンロードの車椅子アプリ「WheeLog!」、寝たきりでも働けるカフェ「分身ロボットカフェ」等を開発。デジタルハリウッド大学院特任教授。2021年、最も優れたグッドデザイン賞に贈られるグッドデザイン大賞2021を受賞。書籍に「孤独は消せる」「サイボーグ時代」「ミライの武器」
- ライター:生湯葉シホ
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1992年生まれ、東京在住。フリーランスのライター/エッセイストとして、おもにWebで文章を書いています。Twitter:@chiffon_06
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