時代が移り、昔よりも多様な生き方を選べるようになってきた一方で、一人ひとりの社会の見え方、関わり方の違いが、大きな分断として立ち現れるようにもなっています。“個”を尊重しつつも、私たちみんなが「ともに生きている」という感覚を持ちあって暮らすにはどうすればいいのでしょうか?
社会の中でときどき聞く、人々の幸せ(=福祉)に確実に影響を与えているだろうフレーズをみんなで考えていく連載『言葉のもやもや歩き』。第6回のテーマは「人それぞれだから」です。
今回は、子どもたちとともにウェルビーイングな社会をつくろうと活動する小澤いぶきさん、森の案内人として撮影や環境教育活動をしている小西貴士さん、障害福祉の現場で日々働く高木蕗子さんの3名にご寄稿をいただきました。
・小澤いぶきさん(児童精神科医)
・小西貴士さん(森の案内人/写真家)
・高木蕗子さん(認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ スタッフ)
私と私たちのあわいをつなぐ土壌 小澤いぶき
子どもたちに、こんな言葉をもらったことがある。「『みんな同じ気持ちだよね』って言われると、違うのになと思う。でも『人それぞれだから』って言われると、いや、もっと考えなよと思う」。
たくさんの子が集まる場で「みんなでやろう」「みんな一緒!」と言われたときの抵抗的揺らぎや、人それぞれだからという言葉が置かれたときの滞り。それらを教えてくれた子どもたちの隣で、私はそっと森の中の木々のことを思う。一本一本はたしかに別の場所に根を張り、「それぞれ」の樹形をしている。けれど、地下では根がつながっている。隣の木が弱ると菌根ネットワークを通じて糖が届き、枯れた大木の炭素は土に溶けて、次の命の栄養になる。
自ら根を張り、一本の木として枝を伸ばしていくことと、網の目でつながっていることは、矛盾しない。個として立っていられるのは、その土壌があるからだ。
そんな森を想像しながら、さらに思考を進める。もしかしたら、人を捉えようとするとき、地下にある複雑な影響のメッシュよりも、地上に見える固有性の方が先に目に飛び込んでくるのではないか。私が「人それぞれ」に宿る意味にやたらと想いを巡らせてしまうのも、その言葉が、何をまなざして発せられたかによって意味が変わってくるのを感じているからかもしれない。
集団が長い時間をかけて受けた傷は、世代を越えて身体に宿ることがある。だから、私は人について考えるときも、ついつい土壌のこと、見えない地下のことが気になる。「人それぞれの経験」と言うとき、その経験は本当にその人だけのものだろうか。歴史の中で育った痛みを個だけに返してしまうと、土壌そのものへの問いが消えてしまう。けれど同時に、その痛みを「私たちの痛みだ」とひとまとめに名付けることも、その経験を生きてきたその人への敬意なしには、暴力的でありうる。
文脈や関係性、置かれた環境によって、意味も受け取り方も変化しうる「人それぞれだから」の言葉。そこには、「あなたという固有の存在のかけがえなさ」という敬意が置かれることもあるかもしれない。けれど、文脈によっては、その固有性を形作ってきた痛みや、それに影響を及ぼしてきた関わりや環境、文化や文脈は背景化してしまうことがある。貧困も、差別も、暴力の連鎖も、基本的人権に立ち返り構造を問う必要のあることたちが「人それぞれの事情」として個に回収されるとき、システムの不備や力の不均衡は見えなくなってしまう。
あるいは、「人それぞれだから、その人に耳を澄ませないとわからない」という謙虚さが置かれることもあるかもしれない。わからないからこそ、知ろうとして言葉を紡ぎ合い、関わりあうことができる。けれど、使われる文脈によっては「あなたのことはあなたで頑張りなさい」という自己責任論の強化にも、「わからないから仕方ない」という諦念にも、もしくは起こっている出来事を自分から切り離して特定の人だけに痛みを背負わせるような、慢性的な暴力にも変わりうる。痛みを感じているその人の目の前で、その痛みを生み出す社会の複雑さや、その構造と切っても切り離せない個人の経験や歴史を「人それぞれだから(仕方ない)(どうしようもない)」に込めたとき、痛みはもっともっと深くなる。
「人それぞれだから」という言葉は、今の社会の構造の矛盾や歪みを映して、刃ともなりうるし、社会の可能性やその多様な豊かさを映す鏡ともなりうる。矛盾が同居する言葉だ。けれどそこに矛盾があるから、私たちはその言葉の持つ可能性を、「人それぞれが存在しているからこその可能性」とともに、模索していく必要があるのかもしれない。
個であることをやめずに、影響し合うことを大丈夫であると感じられる場所。「人それぞれだから仕方ない」でも「みんな一緒だから大丈夫」でもない、もっとたおやかで柔らかな深いあわいがあるのではないか、とも思う。
土壌は、私たちの足元でつながっているのだから。
もし、森の案内人が「人それぞれ」を語ったら…… 小西貴士
森を歩いていると、「それぞれ」に出会う。
わあ!こんな色!こんなかたち!こんな手触り!
こんな香り!こんな味!こんな鳴き声!こんな動き!
それぞれに出会えることが面白くて、また森を歩きたくなる。
森を歩くことを重ねていると、それぞれのよさがわかってくる。
へえ、この木、あんな花を咲かせた後にこんな美味しい果実を実らせるんだ。
ほう、この虫、こんなふうに卵や幼虫を守り育てるんだ。
それぞれのよさが愛らしくて、また森を歩きたくなる。
森を歩くことを続けていると、それぞれの役割やつながりがわかってくる。
なるほど、この葉っぱ、ヒトには毒だけれど、このチョウの幼虫はこの葉っぱばかり食べるんだ。
うーん、この川の流れの中で死んだシカのからだの要素が、どんどん下流へ流されて田んぼに入り、米を育て、僕のからだに入ってくるんだな。
自分を含めたそれぞれがバラバラでなくつながっていると気づけたことが、世界をぐんと深く見せてくれて、また森を歩きたくなる。
森を歩くことが当たり前になってくると、それぞれを包むようにある「全体のようなもの」に想いを馳せる日がふと訪れる。
この1匹と自分をどこまでも細かくしてゆくと同じということなのだな。
生きとし生けるものは、いやいやこの惑星のすべては、宇宙のかけらなんじゃないか。
それは、どこまでも穏やかな感じでもあるし、
何だかとても寂しかったり、怖いような気にもなったりする。
そんなわけで、
また、目の前のそれぞれに出会うことの喜びがはっきりしてくるのかもしれない。
それぞれは、それぞれによさがあり、愛らしい。
でも、それぞれがつながっていない世界はない。
また、つながりだけではおかしなことになる。
それぞれが集まったものを見て、全体と呼ぶのは傲慢だからだ。
私たちはすべてを知り、わかっているわけではないのだから、
まだ知らないこと、わかっていないことを含めて全体なんだ。
人それぞれによさがあり、愛らしい。
でも、そこでおしまいにしてしまうことは、とても寂しいこと。
それぞれがつながり、絡まり合うような全体がある。
そんな全体に思いを馳せて、圧倒されて、また目の前のそれぞれに出会うとき、
それぞれがまことに、愛おしくなる。
「それぞれ」の先に、わたしは何を選ぶのか 高木蕗子
「人それぞれ」わたしは今この言葉に絶賛悩まされている。
わたしの働くクリエイティブサポートレッツというところは、まさに「人それぞれ」を体現したような場所だ。重度の知的障害のある人たちを軸に、その人のやりたいこと、在り方そのものを尊重することを大切にしながら日々色々な活動をしている。
一日のスケジュールややることは決まっていない。皆で一緒に何かをやるぞ!ということもあまりしない。利用者はそれぞれ好きなことをする。街中を延々と散歩する人、床で寝転んでいる人、音楽をかき鳴らす人、ところ構わず水を浴びる人。皆のびのび過ごしている。そしてそれは、働くスタッフや関わる人も同じだ。働き始めた当初は何をやっていいか分からず冷や汗をかいていたわたしも、だんだん身体が慣れてきて、急に踊りだしたり、新聞でカニを作ったりしている。日々触れ合う人たちから学んだことだ。
レッツにやって来るほとんどの人は、最初同じような戸惑いを感じる。でも、周りが各々好き勝手過ごしている環境に身を置くうちに、絵を描いたり、ぼーっとしたりして過ごすようになってくる。わたしはそういう「それぞれ居たいように居る」感じが社会全体に広がっていくといいなと思っている。
もちろん、それぞれのやりたいことがぶつかることもある。そんな時レッツでは、「この人にはこういう障害があるからこう対応せよ」というのが統一されていない。ぶつかったら誰かが我慢せよ、ということでもなく、色々な立場の人を交えて議論と試行錯誤が行われる。当たり前に使っていた言葉の定義やルール自体もゼロから作ったり更新したりして、人の数だけ人との関係性が築かれていく。目の前にいるこの人はどんな人で、共にどんなことをしたいかを「人それぞれ」に形作る作業はおもしろい。
そう、おもしろいのだが、福祉や障害を一旦脇に置きながら、これを繰り返すのはなかなかにハードでもある。そもそもわたしは、人の行動や意見がとても気になってしまうタイプだ。重度知的障害のある人に対してだと、「支援」の名のもと、なおさら自分の「こうすべき」を相手にも適用したくなってしまう。障害によって苦手なものがあったり、そもそも選択肢や経験がなかったり、社会から断絶されてきたりした背景もあることを、日々めまぐるしく働く中で忘れずに、かつ自分はどう関わりたいかを考えるのはすごく疲れる。
例えば「健康」について。毎日決まったお菓子やジュースを買い物する人がいて、わたしはヘルパーとして一対一でその人の支援をするのだが、持病がある状態でこんなに食べたら将来悪化して苦しむんじゃないか、もっと色んな体験をしてほしいからこういう提案をしてみよう、と毎回すったもんだしている。しかし、支援を画一化したり、管理を徹底したりしたいわけでもない。そもそも「健康」な状態ってなに? その人の幸せはどこにある? 本人が選択したものを奪う権利なんてないのでは?
わたし以外に関わるヘルパーは複数いるし、わたしとその人とフィーリングを擦り合わせて決めればいい、と思って臨んでいる。でもわたしの中に人がいっぱいいて、自分の発言や行動に対して「本当にその選択で良かったの?」と言ってくるのだ。
最近は、仕事以外にSNSでも有象無象の意見をずーっと眺めてしまって、それが頭の中をモリモリ埋め尽くしてうなされている。それはきっと、「人それぞれ」に耐えうる、「その上でわたしはどう考え何を選ぶか」の軸がブレているからしんどいのだろう。
「人それぞれ」は、ただ違って終わりというわけではない。その先があるのだ。人は人、でも自分はこうだと思う軸が要る。
もちろんその軸は1人で作っているものじゃないし、固定されるものでもない。日々更新されるもんだよな、くらいに思って、曖昧なものもモヤモヤと抱えたまま、もう少し気楽に暮らしたいところだ。
Profile
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小澤いぶき
児童精神科医
トラウマ臨床・虐待臨床・発達障害臨床に携わりながら、子どもの権利・尊厳・ウェルビーイングを基軸に、医療・福祉・教育・地域・国際支援の領域を横断して活動する。シリアやイラクなどの紛争地域を含む日本・中東での集合的トラウマやメンタルヘルスのケアのプロジェクトにも従事。一般社団法人Everybeingを設立し、共同代表を務める。「すべての存在の尊厳の相互存在」のプロセスを、子どもたちとともに耕し育み、尊厳を基盤とした社会を醸成することを活動の基盤とする。こども家庭庁アドバイザー、京都大学大学院医学研究科所属。認定NPO法人PIECESファウンダー。2017年、ザルツブルグ・グローバル・カンファレンスに招聘され、子どものウェルビーイングのためのザルツブルグステイトメント策定に参画。Fish Family Foundation JWLIフェロー。著書に「子どもの声を聴く:子どもの権利を尊重するウェルビーイングな社会に向けて」。
Profile
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小西貴士
森の案内人/写真家
エコカレッジ「ぐうたら村」共同代表。聖心女子大学 現代教養学部 教育学科 非常勤講師。2000年より⼋ヶ岳南麓にある(公財)キープ協会にて15年間インタープリターとして環境教育やESD(持続可能な開発のための教育)に取り組む(キープ森のようちえんプロジェクトを⽴ち上げ、清⾥聖ヨハネ保育園の園⻑補佐等を務める)。2015年フリーランスに。教育学者の汐⾒稔幸⽒らと共に「ぐうたら村」という、持続可能な社会と教育・保育を結ぶエコカレッジを⽴ち上げ運営する。“からだ”と“こころ”を揺さぶりながら、⽣態学や⼈類学・教育学・アートなど様々な視点から世界を考える独特の森歩き・森案内が得意。森で展開する大学の授業も複数担当。写真家としては、子どもを含む「いのちを巡るうまく言葉にならないこと」をテーマに撮り続ける。写真やことばを雑誌などで発表するかたわら、各地でスライドショウや写真展を開催している。主な著作に『また おこられてん』(童心社)、『みてみて!』(福音館書店)、『子どもと森へ出かけてみれば』『子どもは子どもを生きています』『子どもがひとり笑ったら…』『小さな太陽〜倉橋惣三を旅する〜』(フレーベル館)、『チキュウニウマレテキタ』(風鳴舎)。主な共著に『おいでよ森へ』(ダイヤモンド社)『心をとめて森を歩く』『SDGs時代の保育実践アイデア帳』(フレーベル館)『子ども・子育て支援シリーズ 第3巻 子ども・子育て支援と社会づくり』(ぎょうせい)『森と自然を活用した保育・幼児教育ガイドブック』(風鳴舎)『新しい保育講座⑨ 保育内容「環境」』(ミネルヴァ書房)など。








