福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【イラスト】とある惑星に宇宙服を着た生き物が4人いる。4人はそれぞれ月のような地球のような謎の球体を眺めている【イラスト】とある惑星に宇宙服を着た生き物が4人いる。4人はそれぞれ月のような地球のような謎の球体を眺めている

共感ってなんだろう? 展覧会『あ、共感とかじゃなくて。』を起点にした座談会 こここレポート vol.05

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最近、どんなことに「共感」しただろうか。そして、どんなことに「共感できなかった」だろうか。

私たちが日頃使う「共感」という言葉には、シンパシー(sympathy)とエンパシー(empathy)の2単語のどちらかの意味が内包されていることが多い。ブレイディみかこさんの著書『他者の靴を履く~アナーキック・エンパシーのすすめ』では、このふたつの言葉は以下のような違いがあると説明されている。

シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える

『他者の靴を履く~アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋)P.15より

普段なんとなく「共感」という言葉を使うとき、上記以外にもそれぞれが託している意味はありそうだ。

今回は、東京都現代美術館で11月5日(日)まで行われている『あ、共感とかじゃなくて。』展をたずねたメンバー5名が、展覧会をきっかけにしながら、共感についてあれこれと思いをめぐらせる座談会の模様をお届けする。

【話者紹介】

奥山理子…みずのき美術館キュレーター。Social Work/Art Conferenceディレクター。ここ数年、福祉をはじめとする多様な分野と文化芸術をつなぐための相談事業に携わっていて、「共感」が仕事になっている節がある。だから「…とかじゃなくて」から始まるタイトルに興味を持った。

遠藤ジョバンニ…ライター。〈こここ〉でのニュース執筆をきっかけに本展へ足を運ぶ。一時期までずっと「わかる」が相槌の鉄板だった自分の姿を思い出しながら、記事を書いていた。

中田一会…〈こここ〉編集長 趣味で日記本を発行している。読んだ人から「わかる」「共感する」と感想をもらうことが度々あり、以前からこのテーマが気になっていた。本展は友人でもある奥山さんと一緒に巡った。

岩中可南子…〈こここ〉編集部 担当しているニュース&トピックスコーナーで本展を紹介し、感想を編集会議で共有した。内覧会では時間がなくてじっくり観られなかったので、2回目をみに行く予定。

垣花つや子…〈こここ〉編集部 「共感」という言葉の中身が検討されないまま、雑に使われることがしっくりきておらず、岩中さんから『あ、共感とかじゃなくて。』をおすすめされて今回の座談会企画を立案。

「共感」がはたらくときに、どんな気持ちが生まれるのか

垣花つや子(以下、垣花):今日は共感をテーマに、みなさんとお話をしていきたいと思います。まずその皮切りとして『あ、共感とかじゃなくて。』展の感想からうかがいたいのですが、みなさん足を運んでみてどうでしたか?

岩中可南子(以下、岩中):すごく印象に残るタイトルといいコンセプトだなと思いました。「人との関わり方が共感ベースじゃなくてもいい」というメッセージは、これまでの自分からすると新鮮でハッとするものでした。コミュニケーションをとるうえで私はずっと、「共感」はとても重要なものだと思っていたので。

中田一会(以下、中田):私も、入口に書かれたステートメントメッセージがとても印象に残っています。

「共感」というのは、誰かの気持ちや経験などを理解する力のことです。優しさや思いやりを生み出す、大切な力です。でも、簡単に共感されると、自分の気持ちを軽く見られたような気がすることもあります。「分かるでしょ?」と共感を押し付けられて、嫌な気持ちになることもあります。「共感」されたくない時、したくない時も、あるのです。

(中略)

この展覧会では、5人のアーティストの作品を見ていきます。彼らは作品を通して、知らない人や目の前にいない人について想像しています。相手の本当の気持ちは、分からないかもしれません。自分と相手とでは、見えているものが違うかもしれません。相手の気持ちや状況を、自分勝手に解釈しないようにする難しさを知っていて、それでも相手のことを考え続けています。

(展覧会ステートメントより一部抜粋)

岩中:自分と同意見の人がいると嬉しくなって「わかる!」ととっさに反応してしまうことも多いし、逆に「わかるよ!」と言われて安心することもある。一方で、「わかる」に重きが置かれたコミュニケーションのなかでは、本来あっていいはずの「わからない」ことへの違和感や近寄りがたさが際立ってしまうんだなとも、このメッセージを受けて考えていました。

奥山理子(以下、奥山):私は最初、展覧会のタイトルを見てちょっと突き放されているような感じがしました。「共感」はやはりとても大切なものだし、目指すべき態度や関係性のひとつだという気がしています。共感そのものは否定されるべきじゃないというか。

岩中:そうですよね。私も最初はタイトルに「共感とかいらないんで」みたいなニュアンスを感じていました。でも作品をみたり考えたりするうちに、この展示は、簡単に自分の気持ちや可能性を固定されたくない気持ちを、代弁しているような気もして。今日はこの場を借りてその気持ちについても、よく考えてみたいです。

奥山:確かに、自分の中にある「共感」のイメージとも関係していそうですね。私の場合、共感を、どこか傷を癒してもらえるような関わり方だと、願いのようなものをこめてしまっているかもしれない。だからこそ「これって共感じゃなかったんだ!」と分かったときに寂しさやがっかりする気持ちを抱くのかもしれませんね。

私の「共感」の指針に「バイステックの7原則(※注1)」があります。ソーシャルワーカーやケアワーカーなどが最初に学ぶ、相談援助技術の基本とされるものです。

1. 個別化の原則
2. 意図的な感情表現の原則
3. 統制された情緒関与の原則
4. 受容の原則
5. 非審判的態度の原則
6. 自己決定の原則
7. 秘密保持の原則

※注1:「バイステックの7原則」アメリカのケースワーカーで社会福祉学者のフェリックス・バイステック氏が著書『ケースワークの原則』(1957年)で提唱した対人援助の行動規範。ケアワーカーが、福祉的ケアを必要とする人々の主体的な生活をサポートできるよう、関わるときにとるべき態度について、7つの視点からまとめられている。

奥山:ケアを受ける人の自由な感情表現を認めて受容することや、ケアワーカー自身がしっかりと理解を示しながらも、クライエントの感情に飲み込まれないように気持ちを統制して接していく重要性など、共感の技術とも言える考え方も多く登場します。

展覧会をみたあともずっと、本当の意味での「共感」は、どんなときにやってくるのかなと、考えています。私たちはつねに完全にわかりあうことは出来ないかもしれないけど、わかりあえた瞬間の嬉しさや同じものを共有できた経験は、やっぱり大きな原動力になりえますし、そこを諦めたくない気持ちもずっとあります。

自分とは異なる「誰か」のことを思い浮かべて

垣花:展示のなかで印象的な作品はありましたか?

奥山:山本麻紀子さんの作品ですね。私が京都で携わっている〈HAPS〉のプロジェクトで、直接担当したものではないですが、山本さんの制作風景を身近に感じてきました。

山本麻紀子作品 展示風景

奥山:「共感」や「誰かやなにかをわかろうとしながら、意味づけをしながら関わっていこう」を模範解答にしていたような自分と比べて、世代、習慣、価値観の異なるコミュニティの中で、焦らず、忍耐づよく、植物のリズムとともに制作を進めていた山本さんのあり方は、非常に新鮮でした。彼女自身が、植物のようだなと感じることもあります。今回、作品が生まれた現場ではなく、物理的にも離れた美術館の展覧会という空間で、この作品やプロジェクトがどのように映るのかを知りたくて来ました。

武田力《朽木古屋六斎念仏踊り継承プロジェクト》2023年より

中田:武田力さんの《朽木古屋六斎念仏踊り継承プロジェクト》の映像がとても好きでした。民俗芸能の継承先を探す古屋のおじいさんたちと、継承すべく訪れた武田さんたちの会話はちぐはぐなのに、踊る瞬間はきちんと呼吸が合わさって、よい場が生まれている。普段からみんなの思いは揃ってないし、私たちはバラバラに生きているのに、ある一瞬で揃うときがある。そういった視点からもこの作品が展示ラインナップに並んでいるのが面白く感じました。

岩中:渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)さんの作品はいままでもみてきましたが、今回の、カーテンの隙間から部屋を覗き込むような見せ方が印象的でした。会場に置かれたブックレットには、孤独を感じるさまざまな当事者のエピソードが、すごく小さい文字で記されていて。暗いなかで目を凝らさないと読めないから、安易に人の気持ちや感情には近づけないし触れられないような、そういう心の距離感が表現されているように感じました。

渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)作品 展示風景

垣花:渡辺さんの展示には座れるスペースもありましたよね。そこで誰かが撮影した月を眺めて過ごしていると、それぞれがいる場所や時間、理由、環境、感覚、身体的特徴、なにもかも違うけど、たしかに月を見ているという意味では行動をともにしている。その間接的な距離感で誰かと一緒に存在できている・いられる、みたいな感覚を持てたのが、わたしにとってうれしいことでした。

遠藤ジョバンニ(以下、遠藤):私は、理解したつもりになられたときやわかりあえなかったとき、「ああまた、自分の言葉や態度は、届かなかったんだな」という悲しみの感情が強く出るタイプだと思います。

中島伽耶子さんの壁を模した大型インスタレーション《we are talking through the yellow wall》の影の部分は、すごく静かで、時折向こう側からチカチカと光だけが伝わってくる。そういうところにコミュニケーションの非対称性を感じて、自分の悲しみのイメージに似ているなと思いました。

中島伽耶子《we are talking through the yellow wall》2023年

遠藤:ここでの悲しみは、他者と完全にわかりあうことはできないという「わかりあえなさ」を確かめるために必要な感情でもあるように感じています。わかりあえる瞬間が嬉しいのは、そうでないときがあるからで、私の場合、対話のスタートラインに立つうえで、この悲しみは自分だけのとても大切なもののような気がしています。

共感を受け取るとき、受け取られるとき

中田:ここから「共感」について少し発展して話してもいいですか。私、SNSで自分の意見に「共感!」という言葉が誰かからつくとき、「同意します」と言ってくれたらいいのになぁ、と感じることがあって。

細かいかもしれないけど……最終的な「意見」や「結論」に至るまでの過程や傷つきを、他者と完全に同期できるわけではないじゃないですか。それでも最後の最後に「だからこのことは大事だと思う」という一点が、なぜかみんなで揃うことがある。それって嬉しいし美しいなって思うんです。でもそういう道筋の違いを飛ばして、「この人の考えていること感じていることと私の意見は全部一緒なんです!」と言い放たれてしまうような軽さを、その「共感」に感じてしまって、ちょっとずるいなって。考えすぎですかね……。

垣花:話を聞いていて、中田さんが「軽い」と感じているのは、共感に対する価値判断というよりは、「共感」という言葉を使っている人の受け取り方に対するもどかしさなんだなと思いました。わかったつもりになられることで巻き起こるモヤモヤは、そういう部分が関係していそうですね。

中田:人の受け取り方なんてコントロールできないのに、でも「感じてもらえるのは嬉しいけど、もうちょっと丁寧にお願いします!」って期待しちゃうんですよね、きっと。他者に対して。

奥山:私のなかの「わかったつもりになられる」に関する所感は、そのもっと手前で。そもそも他者が抱く「奥山理子」のイメージと、「私自身」にとても大きな乖離があるように感じられて、相手がもつイメージを壊さないように話したり、「共感してもらいやすく」振舞ってしまうことがあるなあって。

【イラスト】宇宙服を着た人物が一人、月にも地球にも見える球体を眺めている

垣花:わたしも、一定のタイミングで自分のイメージが固まってしまうことの怖さはつねに感じているかもしれません。あるときの自分はその姿だったとしても、別の場面の自分はもっとヘロヘロだったりするのに。

岩中:つねに自分のすべてを無条件にさらけ出せるわけじゃないですよね。SNSの書き込みひとつとっても「書いてあることがその人の全てだ」と思われる怖さや悔しさが、私にもあります。そこには実は、自分で出したい部分と、出したくない部分と、「この人だから」で出せる部分とがあるんじゃないかな。

一方で、中田さんの話のように「わかってほしい」気持ちが先立ったり、「どう伝えたら相手が意図する通りに受け止めてくれるだろうか」と細かく気になっちゃったりもする。つねにその行き来がありますし、わかりあうことの難しさや諦めたくない気持ち、いろんな要素が複雑に絡み合っていますよね。そのうえで「この人との関係だったらこういうふうな差し出し方、共有の仕方ができるな」と、さまざまな人との関係性の中で考えているんだと思います。

経験をともにして見えてくること

垣花:めちゃめちゃ面白いですね。「共感」という言葉と「わかる」という言葉は密接に繋がっているものなんだな。

中田:反対に「わからない」に主眼を置いた作品もありましたよね。

有川滋男作品 展示風景

中田:有川滋男さんの企業ブースを模した会場で上映されている作品を、とにかく真剣に見てしまいました。作品の意図を必ずしも網羅的に理解する必要はないでしょうし、おそらくこの作品群は「わからないままでいくもの」なんだろうけどつい。真剣に発信しようとしている人がいて、どうやらそこに価値ばったものがあるらしい。そうしてこちらへ矢印を向けられているとき、「わからない」と放りだせない自分がいることに気づきました。

岩中:私が行ったときは有川さんと話せる機会があって、「わからなさ」の中身がなんなのか分解したくて、制作方法などをあれこれと聞きました。

垣花:作品をみて「わからない」なりのなにかを受け取っているわけじゃないですか。でも「わからないと正確にメッセージを受け取ったことにならないのかも」という意識がはたらいてしまうことがあるよな、なんでだろう? と中田さん岩中さんの話を聞いて考えたくなりました。

岩中:結局話を聞いても、あの作品群が見た人になにを伝えたいのか、なんの様子を記録していたものなのか、わかったのかと言えば、やっぱりわからなかったです。でも、作り方の態度や、どういうふうに出演者と協働してこの話を作ったのか……みたいな過程を共有したことで、なんとなく同期できるところが増えた感じがしました。

奥山:私は普段展覧会も作ったりしているから、きっとこの作品も読み解けるはずだと思って、必死に映像同士を見比べたり、聴き比べたりしたんだけど……やっぱり全然わかんなかった! もうお手上げって感じだったけど、不思議と後味は悪くなかった。

遠藤:今こうして個々人が抱えていた「わからない」を持ち寄って突き合わせていくことでも、新たな発見が生じていきますよね。やっぱり誰かとともに獲得していく経験や時間、その過程で得た知識によって「なんだかわかんないけど、わかんないってことを、ひとまず飲み込んでみる」ための、その解像度が裏付けられていくのかもしれないな。

共感だけが関係性のすべてではない

奥山:「あ、共感とかじゃなくて。」展と関連して、ひとつ気になっていることがあって、みなさんと話してみたかったんです。5名のアーティストによる作品は、さまざまな人との協働のなかで生まれているものも多いですよね。それぞれの作品に携わっている人々が「あ、共感とかじゃなくて。」と言われて展示されている事実を知ったときに、どんな気持ちになったり、どう受け止めているんでしょう。

遠藤:確かに、冒頭で奥山さんが話していたように「共感じゃなかったんだ」とか「寂しいな」という気持ちを抱くんでしょうか。

奥山:そうだとしたら、私たちはその協働相手に「共感じゃなくてもいいんですよ」ということをどう説明したらいいんだろう。

垣花:関係がすべて「共感」だけで構成されているとは限りませんよね。「共感がない」=「繋がりがなくなる」というわけでもないし、むしろ「共感以外にもさまざまな回路があってほしい」という願いが「あ、共感とかじゃなくて。」という言葉にこめられていてほしいと思います。

遠藤:垣花さんの話で思い出したエピソードなのですが、以前、友人に「わかる、わかる」と相槌をうっていたら「そんな簡単にわかるって言わないでほしい」とムッとさせてしまったことがあって。申し訳ない反面、「ああ、友達でもわかりあえないことがあってもいいんだな」と、心が軽くなるのを感じました。この展覧会が、作品にかかわった人はもちろん、誰かにとってのそうした契機になればいいですね。

岩中:この展覧会は10代の若い人たちにも向けられているそうですが、10代の頃の私は「好き・嫌い」「わかる・わからない」「良い・悪い」みたいなものさしで、簡単にものごとを判断していた気がする。そこから変わるきっかけになったのが、美術で。自分とはまったく違う他者の感情や経験を知ることで、「好きじゃない」「わからない」ものでも少し近づけたり、違う角度から見られるようになったと思います。

中田:今回の展示企画からは、美術という分野が持つある種の「優しみ」みたいなものを感じました。それは「共感しなくてもいい」という自由すら表現に含まれることへの共感なんじゃないかと思います。ややこしい言い方ですが。

作品や作者に共感せず鑑賞したっていいし、「わからない」と言ってもいい。世間や社会の前提やルールに対して立ち止まって疑問を投げかけてみる。自分が理解できないものでも、必要だと信じている人がいれば、それは必要なのかもしれないと思ってみる。そして、たまに「あれ、この作品って、もしかしたら私のことわかってくれるのかも」と思えるものに出会えることもある。

それは、これまで座談会で話してきたコミュニケーションにまつわるヒントになるし、美術館という居場所や、美術作品を鑑賞するときに「私が心地よいと思う理由」だと感じました。

 

展覧会の感想や受けた印象をきっかけに、共感について思索をめぐらせた今回の座談会。さまざまな場面ではたらく「共感」を紐解きながら、その言葉の奥深さを体感する時間でもあった。

あるときは、願いを込めて他者との関わり方として使われる「希望としての」共感、またあるときは思いやりや同情などの「なにかをともに感じる」意味での共感、そして同じ出来事には立ち会っているけど「それぞれ違うことを感じる」意味での共感。

願いをこめられる言葉でもありながら、SNSなどのシーンで便利につかわれてしまう言葉でもある「共感」。自分はなにを共感と呼びたいんだろう。そして、共感になにを託したいんだろう。


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連載:こここレポート