頭のなかだけのダイバーシティから離れて。ダイアログ・ミュージアム「対話の森」体験レポート こここレポート vol.01
「多様性のある社会を」「ダイバーシティを推進しよう」という言葉はスローガンのように繰り返されている。でも実際に「多様性のある社会」ってなに? と聞かれたとき、答えに窮してしまう自分がいる。
「いろいろな属性の人たちが集まっている社会」とか、「障害のある人も暮らしやすい社会」とそれらしいことを言うことはできる。けれど、「いろいろな属性の人たち」がどんなバックグラウンドを持つ人たちで、「暮らしやすい社会」がどのような社会なのかを実際に思い描けるかと自分に問いかけてみると、具体的な言葉はすぐには出てこない。
それなのに、多様性という言葉を頭のなかで発しただけで安心し、立ち止まって、考えるのをやめてしまってほんとうにいいんだろうか。
その疑問について考えるヒントを与えてくれたのが、東京・竹芝に2020年に誕生したエンターテインメント施設、ダイアログ・ミュージアム「対話の森」だ。
対話の森は、その名のとおり対話によって分断をつなぎ、ダイバーシティをリアルに体感することをコンセプトとしている。現在は、視覚障害のあるアテンドとともに暗闇のなかを探検する「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(以下、ダーク)と、聴覚障害のあるアテンドとともに音声言語を使わない対話を楽しむ「ダイアログ・イン・サイレンス」(以下、サイレンス)という、ふたつのプログラムを開催している。
2021年3月、「ダーク」と「サイレンス」を実際に体験し、それぞれのプログラムのアテンドにお話を伺う機会をいただいた。今回はその体験、そしてアテンドを務めるスタッフやプログラムを一緒に楽しんだ参加者とのコミュニケーションを通して感じたことを、双方のプログラムの一部を紹介しつつレポートしたい。
まっくらやみを、音と手ざわりを頼りに進む「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」
ダイアログ・イン・ザ・ダークは、1988年にドイツの哲学者、アンドレアス・ハイネッケ氏によって発案され、これまで世界約50カ国で開催されてきたソーシャル・エンターテインメントだ。
日本でも1999年の初開催以来さまざまな場所・期間でおこなわれてきたが、2020年からは東京・竹芝に常設となり、いつでも、誰でも体験できるようになった。
私自身は10年ほど前、学生時代に、東京・外苑前の会場で開催されていた「ダーク」を何度か体験している。日本では季節や場所によってプログラムが変化すると聞いてはいたが、久しぶりに参加した「ダーク」は新型コロナウイルスの感染対策も踏まえられ、新しいプログラムに生まれ変わっていた。
同じ回の参加者3名とともに対話の森の会場に到着すると、数名の受付スタッフに迎えられる。荷物をロッカーに預け、しばらくエントランスを見て回っていると、文字の書かれたカラフルな紙が円状になって天井から吊り下げられているのに気づく。「あなたにとって対話とはなにか?」という問いに対し、これまでの体験者やサポーター、スタッフから寄せられた約300もの言葉が展示されているのだという。
「相手の大切さに気づく行為」「信頼のためのステップ」「相手を知り、己を知ること」……。さまざまな人にとっての“対話”に目を向けつつ、「ダーク」のプログラムが体験できる扉の前へ。
そこで視覚障害者の多くが使用している「白杖」を1本手に取り、「ダーク」への第一歩を踏み出した。
扉の向こうの部屋には薄明かりが灯っていた。そこにはスタッフらしき人が一人立っている。今回暗闇を案内してくれるアテンドのハチさんだ。
まずは参加者全員のニックネームを聞き、呼び合いかたを確認するとともに、白杖の使い方をハチさんから教えてもらう。参加者同士が近づきすぎないよう、白杖も使ってソーシャルディスタンスをとりながら空間を歩いていく、ということが共有された。
「声」と「気配」だけを頼りに歩いてみる
ハチさんに促されて次の部屋に進むと、徐々に灯りが落ち、辺りがまっくらやみになった。いっさいの光が届かない暗さのなかで、思わず全員、「なにも見えない……!」と声をあげる。
視界がまっくらになった途端、なぜか、硬く確かにある地面が、覚束ないものに感じられてくる。動いていいのだろうか、ほかの人にぶつからないだろうか……と周囲に意識を向けようとしても、なにを目安にして歩けばいいのかわからない。
「円になって」とハチさんに言われ、とまどいながらも白杖で地面を叩いて、位置を確認する。
白杖で地面を鳴らしながら数歩よろよろと歩いてみると、音がする方向から、どのあたりにどの人がいるのかがなんとなくわかってくる。特にハチさんが発する声と白杖の音がとても明瞭で頼もしさを感じた。
暗闇のなかでは、自分のいる位置を自分から発言するのがカギになる。「座ります」「立ちます」という大きな動作はもちろん、白杖を鳴らしたり「正面にいます」「もうすこし右かも」と相手にとっての距離や方向を伝え合うことで、全員の存在がはじめて明確になってくる感覚があった。
電車に乗り、旅する
いくつかの空間を歩き、ときには遊んだ私たちは、汽笛をあげてやってきた「電車」に乗ることになった。
「電車に席があるから、みんなで座って」とハチさんに言われて乗降口を探すものの、なかなか見つからない。「どうしよう、すごい遠くにいるかも……!」とほかの参加者たちの声が散り散りに聞こえる。
入り口から遠ざかってしまった参加者の一人に「ちょっと待ってね」とハチさんが近づき、すっと乗降口まで導いてくれた。
ハチさんに続いて電車に乗ろうとしたときに、足元に粒状の凹凸があることに気づく。「点字ブロックだ」とつぶやくと、「そうです!」とハチさん。点字ブロックのある場所は、足元に伝わってくる感触がそれまでとまったく違うことに驚いた。
見えない状況で、点字ブロックが事故や危険を予防するためにどれほど大きな役割を担っているかを実感する。
全員が席に座ると、電車が出発する。途中で、私の席の近くに座っていた参加者が、「手を開いたり閉じたりすると、不思議と手が見える気がする……」とつぶやいた。その言葉を聞いて私も手を動かしてみると、確かにになぜか“見える”気がする。
自分の部屋の本棚を眺めているとき、背表紙の文字が読めなくても、どの本がどこにあるかがわかるような感覚を思い出した。手そのものは見えなくても、動きの輪郭がわかると、“見える”と感じてしまう。
逆にいえば、見える状態で生活をしているとき、私はそこまで厳密にものの細部を見ようとしていないのかもしれない、とも思った。意識していないだけで、視覚そのものだけでなく、既に知っている情報や皮膚感覚を使ってものや人を認識しているのだ。
一本橋を渡った先に
「4つ目の駅で降ります。そこにはある人のおうちがあるから、みんなを案内するね」とハチさんには告げられていた。次々に情景が移り変わり、いよいよ目的地に到着する。私たちはそこで下車し、ある家を訪れた。
しばしそのお家で過ごすと、次は「ひみつの場所へ案内する」と、ハチさん。ハチさんのあとを追いかけていくと、足元の感触がまた変化した。なだらかな傾斜があり、そのすこし先を白杖で叩くと、木のようなものが横たわっている。橋だ、と気づき、途端に不安になった。手すりはあるものの、橋はあまりにも細くて不安定だ。思わず、全員が「高い!」「怖い!」と声をあげる。
一人ずつゆっくり行こう、というハチさんの声に従って、まずは参加者の1名が橋に足を踏み出す。スムーズに渡り終え、すぐに「橋のはじまりのところ、足元すこし高くなっていた!」「そこが段差かも!」とサポートに回ってくれる。
私も2番目に渡り、うしろに続く人に同じように声をかけた。自分が声をかける側になると、どう言ってもらえれば安心して歩き出すことができるかが、だんだんとわかりはじめていることに気づく。
声をかけ合っていると、いつの間にか全員橋を渡り終えていた。そして橋の先にあったひみつの場所では、しばし5人でゆっくりと時間を過ごした。
その空間を出ると、いよいよ暗闇の世界から灯りのある部屋へと戻ることになる。
ハチさんの合図で灯りのある部屋への扉が開かれると、扇形の光がゆっくりと差し込んでくる。声がしていた位置から徐々に身体の輪郭が見え、まぶしそうにしている全員の顔が見えた。
「暗闇のなかで自分らしくいられた、と言われるのがいちばんうれしい」ハチさん
明るい部屋に戻ってきて最初に感じたのは、“怖さ”だ。暗闇のなかで過ごすことに心地よさを感じていて、それを手放すのが嫌だったのだ、と「ダーク」の空間を出てすぐに気づいた。
そんな私は「ダーク」の体験を経てハチさんともうすこしお話がしたくなり、すこしだけ時間を作ってもらった。
ずっと暗闇にいたから、なんだか明るいことに違和感がある、と伝えると、「暗闇のなかがすごく心地よかった、帰りたくないって、みなさんよく言いますよ」とハチさん。
ハチさんは2009年、「ダーク」が日本で初めて常設イベントになった時期の直後からアテンドを続けてきたという。
もともとは鍼灸師の仕事をしていたのですが、“まっくらやみのエンターテイメント”というコンセプトに惹かれ、人と関わること、対話をすることが好きな自分の性格がここなら活きるかもしれないと思ったんです。
ハチさんはもともと全盲だったわけではなく、物の輪郭や光などが見えていた時期が長かったという。だからこそ、晴眼者(視覚に障害のない人)が、自分をどのような目で見ているかというのを体感として知っている。
灯りのある場所だと、自分が一方的に見られていると感じることもあるんです。でも、暗闇のなかだと全員が同じ状況にいるから、その感覚からは解放される。「見られている感覚」って普段の皆さんにもあるはず。だからこそ、暗闇ではリラックスできるんじゃないかなって思います。暗闇だと、中身だけの自分でいられるというか。
ほかの参加者からは、「見える空間だと発言のタイミングを必要以上に窺ってしまうけど、暗闇のなかでは常に発言が肯定されるのが心地よかった」「暗闇だと歩くだけで時間がかかるのが当然だから、全員が待つこと・待たせることに寛容になれるのがうれしかった」という声もあがった。
私も、人から見られずに対話ができる空間、視線を気にせずに自由に体を動かすことのできる空間をこんなに欲していたとは思わなかった。そういうとハチさんは、「暗闇のなかでみなさんが自分らしくいられた、という言葉がいちばんうれしいんです。ずっと緊張していると疲れちゃうもんね」と笑ってくれた。
聞こえない世界で対話する 「ダイアログ・イン・サイレンス」
そして「ダーク」と別の日、「ダイアログ・イン・サイレンス」も体験した。「サイレンス」は、2017年に日本で初開催された、「ダーク」よりも新しいプログラムだ。
参加者は音を完全に遮断するヘッドセットを装着し、聴覚障害者のアテンドに案内してもらいながら、音のない世界での対話を体験する。
最初の部屋に入り、さっそくヘッドセットを装着すると、周囲の音がいっさい聞こえなくなる。音のない世界を案内してくれるアテンドは、にゃんこさん。声ではなく、名札を示しながら猫のポーズで自己紹介をしてくれる。
ここからは声がいっさい出せない空間だ。表情とボディーランゲージしか使えないという。
まわりの言葉が全然わからない!
「サイレンス」はテーマが掲げられた部屋を順番に回り、対話を体験していく。にゃんこさんに続いて次の部屋に入ると、中心に大きな丸いテーブルがあった。全員が輪になり、まずはそのテーブルを囲む。
よく見るとテーブルは白いスクリーンになっていて、参加者が手や顔を動かすと、影がスクリーンに映った。にゃんこさんに促され、しばらくその手や上半身の動きを全員で真似し、ポーズをとる。
このあたりから、私は内心ドキドキしはじめていた。ボディランゲージの理解が苦手なのか、その場で起きていることがわかるまでに、ほかの参加者たちからどうしても一歩遅れてしまうのだ。まわりの言葉が全然わからない、どうしよう……と焦れば焦るほど、緊張からまわりの人たちの所作がさらに見えなくなっていってしまう。
オロオロしていると、参加者の一人が、なにかを伝えようとする前に必ず挙手をしていることに気づいた。音声言語が使える世界では、誰かが話しはじめると声ですぐに気づくことができる。けれど、視覚だけの世界では、いま誰が発言しているかがわからないと、その人の動きを見逃してしまうことがあるのだ。
ハッとして、自分でもなにか言いたいときには手を上げることにした。けれど、挙手をしてまわりから注目される、というだけで恥ずかしく、なかなか言いたいことが言えない時間が続いた。
マスクの上半分だけで表情をつくる、「顔のギャラリー」
続く部屋では、美術館の絵にかけられているような額縁が、円になって並んでいた。ここは「顔のギャラリー」だという。全員が一人ひとつずつ額縁のなかに顔を入れると、中央のスクリーンに人や動物の写真が映されていった。
歌舞伎役者の写真が映ると、にゃんこさんがお手本のように、表情とポーズで歌舞伎役者になりきってくれる。全員それに続くように、スクリーンに映ったもののモノマネを見せていった。
はじめはすこし照れていたほかの参加者たちも、にゃんこさんの表情の豊かさにつられるようにして、眉を上げたり寄り目をしたりウインクをしたりと、顔の上半分を駆使してさまざまな表情をしはじめた。一方で私は、ウインクをしようとしてもどうしても両目をつぶってしまう。どうしようと慌てていると、にゃんこさんが親指を立て、「OK」と伝えてくれた。
ほかの参加者も笑顔で頷いてくれて、ようやくホッとする。ここではジェスチャーの巧みさを問われているのではなく、伝えたいという気持ちが周囲に伝わるかどうかが重要なのだと気づき、私も照れや恥ずかしさをすこしずつ手放していこう……と密かに思う。
完成形の見えないブロックを、ボディランゲージをヒントに組み立てる
「顔のギャラリー」、そして、「サインで遊ぶ」と名づけられた部屋を経たあとで、新しい部屋に入った。
ここでおこなったのは「形の伝言ゲーム」。2チームにわかれ、それぞれのチームしか知らない情報をジェスチャーで伝え合いながら、ひとつの形を完成させていく。
私たちのチームの手元には、さまざまな形のブロックとフィギュアがある。「まずはどれをどこに置けばいい?」と写真を見ているふたりに聞きたいけれど、どう伝えればいいのかわからない。「どこ」や「どれ」のような表現を、音声言語なしで尋ねる方法がまるで思いつかないのだ。相手チームのうちの一人が、両手を大きく広げるジェスチャーをしてくれた。
それがおそらく動物なのはわかるけれど、位置や向きがわからない……。首を傾げて「わからない」と伝えようとしてみたり、フィギュアの入っていたボードの上を使って位置関係を把握しようとしてみたりしながら、自分たちの思った位置にどうにかこうにかブロックを並べていく。
すべてのパーツを置き終えると、にゃんこさんが「ほんとに大丈夫?」という顔で聞いてくる。2チームを遮っていたボードをずらしてみると、いくつかのブロックの位置は合っていたけれど、まったく違う位置に置かれていたものもあった。全員で大笑いし、「ここだったか……!」「このブロックこっちか……!」と、ボディランゲージで謝り合った。ものの形や位置を音声言語なしで伝え合うことがこんなに難しいとは、体験してみないと確実にわからないことだったと思う。
「対話」の種を受けとり、持ち帰る
続く部屋では、手話のイラストとその意味が書かれたボードが壁に貼られていた。置かれた椅子のそばには、スケッチブックとペンがある。
にゃんこさんのほかにもう1名、「サイレンスインタープリター」と呼ばれる手話のできるスタッフが部屋に入ってきて、この部屋では手話や手元のスケッチブックも使って、あらゆる方法で対話をしていい、と説明してくれた。
いままで回ってきた部屋での感想をにゃんこさんに聞かれ、スケッチブックにペンを走らせはじめた途端、自分がこれまでの何倍も雄弁になっていることに気づいた。「にゃんこさんの表情の豊かさがすごい!」「ものの形や位置を伝えるのが難しすぎる」と感想を書いて伝えながら、文字を通じてコミュニケーションをとれることの楽さにも驚いた。
そこでもうひとつ気づいたのが、コミュニケーション方法は人によって少なからず得意・不得意があるということだった。私自身はおそらく、書き言葉や音声言語で自分の気持ちや必要な情報を伝えることは、不得意ではない。けれど一転して、ボディランゲージやジェスチャーでなにかを伝えようとすると、混乱し、感じていることのほんの一部しか表現できなくなってしまう。
私がそう感じるということは、同じように、書き言葉や音声言語よりもボディランゲージやジェスチャーを使ったほうが自分のことを伝えられる、という人もいるということだ。そう考えると、相手と自分それぞれのコミュニケーション方法を持ち寄り合い、その差をすこしでも埋めようとすることこそが対話なのでは、と思えてくる。
だからこそ、せめてこれだけは、と、「ありがとう」「好き」という手話を覚え、何度もまわりに伝えた。自分がいちばん得意なコミュニケーション方法の形でばかり気持ちを伝えようとすることは、なんだか対話をサボっているみたいで嫌だったのだ。
手話の部屋を出たあとに訪れたのは、なにも置かれていない小さな部屋だった。すると、にゃんこさんは、ポケットからさらになにかをとり出して、地面に蒔くような動作をした。水をやり、その芽が育っていく様子を見ながら、そうかこれは種だったんだ、と遅れて気づく。
その芽が育ち、実が成り、新たな種を落としたあとで、にゃんこさんはそれを拾い、私たち一人ひとりに渡してくれた。笑顔でその種を受け取る参加者たちを見て、思わず涙ぐんでしまう。誰も声を発していないのに、「この種をほかの場所にも蒔いていく」という決意表明のようなものが場に満ちているのを感じながら、最後の部屋を出た。
「サイレンスを体験すると、みなさんの顔が必ずガラッと変わる」にゃんこさん
音声言語の世界ではどちらかと言えばおしゃべりだと思っていた自分が、声を使ってはいけない「サイレンス」のなかでは一転してシャイになったことに驚いた。けれどそんな自分でさえ、90分の体験を終えると、にゃんこさんやほかの参加者たちに影響されて表情がほぐれ、身振り手振りがひと回り大きくなっている。
「サイレンスを体験すると、みなさんの顔が必ずガラッと変わるんですよ」とにゃんこさん。最初の部屋ではほとんど全員が緊張し、恥ずかしそうにしているけれど、「サイレンス」でのさまざまな体験を通して徐々に笑顔が増え、表情がほぐれてくるのだという。
にゃんこさんは、2017年に初めて日本で「サイレンス」が開催されたときからアテンドを続けている。「聴覚障害者に対して『おとなしい』とか『暗い』というイメージを持っている人はまだまだ多いと思うのだけれど、私はそのイメージを壊したいんです」という言葉どおり、にゃんこさんの茶目っ気のあるキャラクターが対話を通じて伝わってきた。
「にゃんこさんにもらった種を絶対に大切にする、これを持って帰って私も植えるって決めました」と参加者の一人がいうと、にゃんこさんはほんとうにうれしそうに頷いてくれた。
みなさんが、「家に帰ったら子どもと目を合わせて話そうと思った」とか「ボディランゲージで話すことに自信が持てたから海外の人とも話せそう」と言ってくれるのがなによりうれしい。私から渡した種を、みなさんがそれぞれの形で持って帰ってくれているんだなと思います。
この言葉に、私もこの種を絶対に落とさずに帰るぞ、と思わず自分の手を握った。
「ダーク」「サイレンス」のふたつの世界を体験して
見えない世界と聞こえない世界をそれぞれ体験し、自分の抱いた感想は、それぞれまったく違う。「ダーク」はすごくリラックスできたし、ふだん以上に素の自分でいられるような気がしたけれど、「サイレンス」では伝えることやまわりの意図を汲みとることの難しさに、ずっと反省ばかりしていた。
ふたつの世界を体験することで、自分が得意だと感じているコミュニケーション方法となかなか意識できない苦手な方法、双方に気づけた。
けれど、部屋を出たあとに感じた「もっといたかった」という気持ちはどちらも同じだった。それはアテンドのふたりのおかげだ。暗闇に不安や怖さを感じている参加者をさりげなくサポートしながらも、昔からの友人のように気さくに私たちに接してくれたハチさん。そして、くるくると変わる表情、舞台俳優のような美しい所作とユーモアで音のない世界を案内してくれたにゃんこさん。ふたりともとにかく素敵だった。
対話の森を体験してから何度も、「聴覚障害者へのイメージを変えたい」というにゃんこさんの言葉を思い出している。自分の頭のなかのイメージだけで「障害者とはこういう人たちだ」と人をラベリングする。それは、実際にいる個人を見ずに、一方的にイメージを押し付けることになってしまう。対話の森はそれらを脱して、見えない人・聞こえない人という大きなくくりではなく、ハチさん、にゃんこさんという個人に出会う環境だった。
もちろん私が出会ったのはハチさんやにゃんこさんのすべてではなく、「プログラム中に出会ったおふたり」だ。「アテンドが違ったり参加者が一人違うだけでも、全然違う体験になるんですよ」とハチさんが言っていたけれど、そのとおりだと思う。その環境、一緒にいる人によって、出会える側面は違うし、自分自身のそのときの状態、体調や気分によっても変わってくるだろう。
対話の森を通して、生まれたハチさんやにゃんこさん、参加者と、もっと話したい、もっと知りたいという気持ち。それが個人個人が置き去りにされない社会の一歩なのかもしれない。
私は、アテンドのふたりに、あるいはまだ出会ったことのない人たちに会いに、これからも対話の森を何度も訪れたい。
Information
・「ダイアログ・イン・サイレンス」2024年1月13日〜2月25日まで期間限定で開催。
・歳を重ねることについて考えながら、 生き方について対話する体験型エンターテイメント、「ダイアログ・ウィズ・タイム」2024年春開催予定。第一弾チケットは3月15日販売開始。
それぞれの詳細はこちらのリンクより
Profile
- ライター:生湯葉シホ
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1992年生まれ、東京在住。フリーランスのライター/エッセイストとして、おもにWebで文章を書いています。Twitter:@chiffon_06
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