私ではない身体が生み出したダンスを、私の身体はどのように解釈するのか 森田かずよのクリエイションノート vol.02
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異なる言語や身体をもつ人たちが集まる創作の場。
たとえば演劇やダンス公演の稽古場や劇場、美術家の作業場であるアトリエ、音楽家が訪れるレコーディングスタジオ。
そこにはどんな問いや葛藤、対話があるのか。それぞれどのような工夫を重ねているのだろうか。
私は障害のある身体、というか、ちょっと人と違う形や性質の身体を持ちながら、ダンスや演劇をしております。その私の目線から見える世界や、私の身体で感じること、時には気になる人とお話ししたりしながら、私の頭の中にあることなどを、文字にしていきたいと思います。
こう語るのは義足の俳優(ときどき車椅子俳優)&ダンサーとして活動する森田かずよさん。
この連載では「創作の場にある問いや葛藤、対話、それらを置き去りにしない環境づくり」というテーマを掲げ、森田さんと共に考えます。
今回は、森田さんが携わったダンス公演『未見美-Mi-Mi-Bi』の創作プロセスで考えたことを綴っていただきました。
他者の振付で自分が踊るということ
『イサドラの子どもたち』という映画をご存じだろうか。ダミアン・マニヴェル監督作品で、日本では2020年に公開となった。モダンダンスの母と呼ばれたイサドラ・ダンカン。
彼女の人生は波瀾万丈で、そして自由奔放であった。多くの男性を愛し、それまでのバレエとは違う、内側から表現する大切さを伝えた。
多くの逸話がある彼女。スカートが首に巻き付くという、あまりにもセンセーショナルな死因であったことも、彼女の波瀾万丈な人生を表しているようだった。そしてイサドラ・ダンカンは、最愛のふたりの子どもを事故で亡くしている。哀しみに暮れて、彼女が振付し、踊ったとされる作品が『母』である。
映画『イサドラの子どもたち』では、年齢もキャリアも違う4人のダンサーがこの『母』を踊るまでの軌跡が描かれている。私はこの映画の公式サイトにコメントを書かせていただいたこともあり、ひとりのダンサーとして、この『母』をいつか踊ってみたいと考えていた。
未だ見たことのない、美しいもの『未見美-Mi-Mi-Bi』
少し時機を逸した話題になってしまったが、2022年2月5日、6日、神戸の長田にある、ArtTheatre dBにて公演『未見美-Mi-Mi-Bi』という公演に参加していた。未見美は「未だ見たことのない、美しいもの」という言葉を短くしたもので、この公演には車椅子、ろう者、盲など身体的特徴を持つ8名のダンサーが出演した。
この公演では各自3分のソロ作品の制作に挑戦することが課せられた。今まで、ダンスを踊ったことがあるダンサーでも、自分のソロ作品を創ろうと思った人はそんなに多くないかもしれない。ましてや、障害のあるダンサーだと、そんな機会になかなか出会えない。出会えない、のではなく、勇気がない、のかもしれない。しかし、ソロ作品を創るとなると、おのずと自分の障害や身体、そしてそれまで培ったダンスと向き合うこととなる。
今回、この『未見美-Mi-Mi-Bi』では、私は最終的にはソロ作品を2本踊った。その一本は『母』を踊ることにした。私は自作のソロ作品を創った経験があるので、今回は「人が振付をしたもの」を自身の身体で踊りたいと考えた。
振り返ると、私、意外と人の振付を舞台で踊った経験がほとんどない。
私ではない身体(私と違う形状の身体という意味)が生み出したダンスを、私の身体はどのように解釈するのか。模倣出来ない部分に対して、自分の身体は何を取捨選択していくのか、踊りながら考えてみたいと思った。そうだイサドラ・ダンカンの『母』を踊ろう。
しかし、問題があった。イサドラ・ダンカンが生きて踊っている映像は残っていない。写真を含めカメラに撮られることを嫌っていて、踊る姿は、隠し撮りでほんの10秒ほどの映像が残るだけである。
つまり振付が残っていないのだ。調べてみると「Isadora’s Legacy」というサイトがあり、そのYouTubeで何人かのダンサーがこの『母』を踊った映像があったので、それを頼りに振りを起こしていくことにした。
余談だが、映画『イサドラの子どもたち』では、ひとりのダンサーが『母』の舞踊譜(※注1)を元に振りを起こしていた。だがその舞踊譜はラバノーテーション(※注2)で書かれいる。、ラバノーテーション自体が、イサドラ・ダンカンの没後に普及したもので、この舞踊譜に書かれていた振付も、彼女の没後書かれたものであると推測できる。そのため、結局本当にどんな振付だったのかは、今となっては不明である。
※注1:舞踊譜:ダンスの動きを記号化して記したもの。楽譜の振付版
※注2:ラバノーテーション:舞踊の記譜法のひとつ。モダンダンスの中心的存在だったラバンによって考案されたもの。
ということで、私は動画で見つけた数人のダンサーが踊ったものを頼りにしてみた。振付は大まかには同じだが、踊る人によって少しずつ違いがある。足の運び、目線、顔を上げるタイミング。これは、ダンサーがこの踊りをどう解釈しているかによる違いである。特にイサドラ・ダンカンの振付は情緒的であり、感情表現が求められるともいわれる。
できない動きを頭のなかで変換する
加えて、自分の身体で踊るにあたり、映像で見た振付をそのままで踊ることができない部分があることもわかり、その部分をどのように変更するか考えた。たとえば、右脚を屈伸した状態で左足の膝を床につく姿勢。これは私の身体では、右脚が義足であり、尚且つ膝が曲がらないため、右脚をつっかえ棒のように斜めにしながら支えにした状態で、左足の膝をつく姿勢に変更してみる。
よく考えると私は出来ない動きは自分の頭の中で変換することを普段からも何気なくやっている。無意識に。たとえばバレエのレッスンにおいて、プリエ(両足を曲げる動作)をやる場合、右脚が曲がらない私は、自然と左足のみを曲げ、右脚は少し宙に浮かせた状態でプリエをする。できるやり方に変換する、ということを自然にやってしまっている。
その中でも「手法は違うができる方法を選ぶ」のか「そのように見えることを選ぶ」ことなのか、「次の振付(動き)にスムーズに移行するためにその動き選ぶ」のか、その時々によってチャンネルを切り替えているのかもしれないし、いくつか、もしくは全ての選択を複合していることもある。
今回は、元にある踊りが見せたい動きを出来る限り踏襲したいと考える。つまり振付上表したい「哀しみ」や「子を亡くした母の慟哭」を、そう見えなければならないという形を私自身は選択した上で、自分の身体でも出来る動き、特に今回は舞台上で踊るので、自分の身体がよりブレない(よりコントロールしやすい方法)ことを選んでいたと言える。
他者が振付した踊りは、他者の身体が生み出した動きである。これは当たり前のことではあるが、いわゆる健常者と違った身体を持つ私にとっては、骨格、身体的形状が違っている身体は、どこか摩訶不思議なのである。自分の身体を知ることも難しいと思うが、他者の身体はより一層である。だからこそ、身体は面白い。踊りながらそう感じる日々である。
Information
今回『Mother』の振付を起こすにあたり参考にした動画
※Roberta Hoffman:2000年のIsadora’s LegacyでMotherのバリエーションを演じるロバータ・ホフマン。Motherは、1921年にイサドラ・ダンカンが振付けた作品である。 ダンカン自身の亡くなった子どもたちに対する、あるいは彼女自身の倦怠感に対する悲歌のようなものであると考えられている。 Nadia Chilkovsky, Isadora Duncan: The Dances』(1994年)参照。
・『Mother (Isadora Duncan c. 1923)』
Loretta Thomas performs Mother
(choreography Isadora Duncan c. 1923)
music: Alexander Scriabin
pianist: George Shevtsov
Dances by Isadora
Danspace Project (Dance Access Series) June 23, 2016
video: Nadia Lesy
・『MOTHER chor. Isadora Duncan』(c.1923) music: A. Scriabin
Choreographer Isadora Duncan c. 1923
reconstruction by Julia Levien
dancer: Adrienne Ramm
video 1992 from performance at Dance at Holy Trinity, NYC
・『Catherine Gallant performs Mother by Isadora Duncan』(c.1921)
music: Alexander Scriabin Etude Op. 8 No. 12
video: Dancing Camera
Profile
この記事の連載Series
連載:森田かずよのクリエイションノート
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- vol. 062023.06.02踊ること、自分の身体のこと、それを誰かに見せること、その逡巡。キム・ウォニョンさん×森田かずよさん
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