大きな収蔵庫と小さなギャラリー。ロッテルダムの2つのコレクション アムステルダムの窓から 〜アートを通して一人ひとりの物語に出会う旅〜|佐藤麻衣子(マイティ) vol.05
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水戸芸術館現代美術センターの学芸員(教育普及担当)を経て、現在フリーランスのアートエデュケーターとして活動している、マイティこと佐藤麻衣子さん。2021年秋からオランダ・アムステルダムにわたり、美術館プログラムのリサーチなどを行っています。
この連載では、マイティさんが滞在中に感じた日常の出来事や、訪ねた場所のエピソードなどを綴っていきます。
第5回はオランダ第二の都市、ロッテルダムを訪れた時のお話。マイティさんが出会った2つの異なる美術作品のコレクションを紹介しています。(こここ編集部・岩中)
「アムステルダムの窓から」これまでの連載記事はこちらから
- Vol.1 美術の授業がきらいだったわたしが、アートの仕事をするようになるまで
- Vol.2 初めての海外生活で知った、美術館までの「距離」
- Vol. 3コロナ禍で失われた手触りを求めて。ロックダウンのオランダで、ワークショップを通してつながったもの
- Vol.4 アムステルダムでやっと手に入れた自分だけの自転車。運河をこえ、美術館やアトリエ目指して走らせる
ロッテルダムからの返信
文末に「ティー」と記された返信が届いたのは、メッセージを送った次の日だった。連絡がきたらラッキーくらいだったのに、「アパートにいらしてください」とお誘いまであった。名前以外なにも知らないティーさんの住む街は、ロッテルダムだった。
オランダは、世界地図が示すとおり小さかった。生活に慣れてくると、国のスケール感が体に染み込んでくる。首都のアムステルダムでさえ、自転車を30分走らせれば、たいていの目的地にたどり着く。青と黄色の電車に、ぽんっと乗れば、第2の都市ロッテルダムまでは1時間、第3の都市デン・ハーグまでは50分。たいていは座れるから、座席予約をしたことがない(そもそも予約システムがあるのかも知らない)。
オランダ行きの飛行機の中で『地球の歩き方』をめくっているときは、アムステルダムから出るのは、おおごとだと信じて疑わなかった。だって、東京から北海道や大阪に行こうとしたら、飛行機や新幹線を予約して……と大変な感じがするでしょう?
収蔵庫を公開したデポ・ボイマンス・ファン・ベーニンヘン
鏡を貼りめぐらせた巨大などんぶりは、太陽の光を全身で浴びて輝いている。銀色のかたまりは、周りの景色を吸い込むように映り、鏡越しのわたしと目が合う。背後には湾曲した高層ビル、近くには記念撮影や犬の散歩をする人たち。ふりかえらなくても分かる。
ここは、ロッテルダムにある「デポ・ボイマンス・ファン・ベーニンヘン」。隣にあるボイマンス・ファン・ベーニンへン美術館のコレクション作品が、保管される収蔵庫(=デポ)だ。2021年にオープンした(文字どおり)ぴかぴかの建築物は、収蔵庫自体がひとつの建物になっていて、中に入ることができる。
一般的な美術館の収蔵庫は、同じ建物の中にある。外気や害虫から美術作品を守るため、厳格な温度管理がなされ、セキュリティの面からも外部の人は入れない。人知れない場所に、ひっそりと隠れているのだ。でも、デポは?見た目からして、目立ちたいのか隠したいのか分からない。
デポの内部は吹き抜けになっていて、階段がジグザグと不規則な線を描いている。最上階までたどり着きたいと早る気持ちに、四方八方にある透明のディスプレイボックスがブレーキをかける。オートクチュールを着たマネキン、規則正しく並ぶ陶器、ブラウン管テレビから映し出される映像……目も足も泳ぎながら、2階までやっと上がると、フロアを一周できることがわかった。
絵画、彫刻、家具、陶器と種類によって部屋が分かれ、大きな窓をとおして、どんな作品が中にあるのか、目次のように知ることができる。「ここは美術館ではなくて、収蔵庫だった!」と我に返るのは、作品の見せ方に違和感をおぼえたとき。キャンバスのふちが、こちらを向いて等間隔に整列している。上下左右、どんなにわたしが動いても、絵の中に描かれているものは現れてこない。
入口に戻ると、頭上の液晶ディスプレイには「15万1000点以上のコレクションを所蔵」「1200年から現在までのアート」とピンク色の文字で表示されていた。莫大な数の作品とともに、過去と現在を行ったり来たりしていたのかと想像してみたけど、にわかに信じがたかった。
ティーさんのプライベートコレクションを訪ねる
ティーさんのアパートは、ロッテルダムの中心地にあった。表札の名前を確認し、入口でボタンを押す。階段をのぼると、ティーさんはドアを開けて待っていてくれた。グレーのプリーツ素材のセットアップに、幾重にもなるパールネックレスを合わせ、グレーのボブヘアには赤い口紅が引かれている。スタイルと雰囲気が、磁石に吸い寄せられるように、ぴったり合っていた。「ようこそ。くつろいでね」ティーさんの声が踊り場に弾むと、わたしの緊張はすっと吹き飛んだ。
ティーさんを訪れたのは、夫の作品を見せるためだった。知人のアーティストが、「この人なら気にいるかもしれない」と、SNSのアカウントを教えてくれたのだ。アカウントには、自己紹介はおろか、名前も書いておらず、その人のことを知れそうな写真も投稿されていない。余白と謎がほとんどを占めていたけど、好奇心に軍配が上がり、自己紹介と夫の作品写真を添付してメッセージを送ったのだった。
リビングルームは、ティーさんを十分知っていると勘違いしそうなくらい、ティーさんの世界だった。奥の壁は本棚で占められ、かたちの良い帽子が棚の上に並んでいる。手前の壁には、サイズの異なる作品が、隙を見せることなく飾られている。かき集めた空き箱を組み合わせて、引き出しを整理するときのように。
ブラックコーヒーとパステルカラーのマカロンが並ぶテーブルに、木箱に入れてきた夫の作品をそろそろと出した。ティーさんは、間違いなく部品が動くか確認するように、手のひらに乗せて作品をながめる。ときどき高く上げ、光を当てたりして。そんな動作をくり返すうちに、「これだわ。メッセージを見たときから気になってたの」と、ひとつを自分の胸に引き寄せた。「わたし、作品を買うために毎月予算を決めているの。今月は、1つしか買えないんだけど」ティーさんは、席を立った。
もしかして、今、絵が売れようとしている……?夫と目を見合わせた。「領収書?請求書?なにも用意していないけど、どうしよう?」「あの作品、次の展覧会に出す予定なんだけど、そのあとに送ればいいかな?」「いや、欲しいって言っているんだから、今日置いていくべきだよ」打ち合わせらしきことをするが、答えが見つからない。
アパートの中のギャラリーと収蔵庫
「わたしね、小さい作品ばかりを集めてるの。でも、アーティストって小ぶりなサイズの作品ってほとんど作らないでしょ?今までは、アーティストにお願いして、わざわざつくってもらってたの。なのに、あなたはすでに、つくっていたのよ」1トーン高い声で、たった今手に入れたキューブに描かれた白猫に視線を移した。
「作品はどこに飾っているの?」わたしたちが尋ねると、ティーさんは本棚を指さした。赤と黄と紺色の板を組み合わせた、デザイナーチェアのような棚には、ファッションや小説、画集がぎゅうぎゅう並ぶ。でも、一段だけ、様子がちがう。
のぞきこむと、木の床にはソファと観葉植物が置かれ、天井にはライト、壁には絵が数枚、展示台の上には彫刻がのっている。そこには、たしかにギャラリーがあった。奥にある換気扇も、キャンバスに描かれた絵だった。ティーさんが壁から外し、手に乗せたとき、ギャラリーはどこか物足りなくなった。「気に入った作品を購入して飾っていくうちに、壁が足りなくなってしまったの。でも作品は欲しかった。そんなとき、作品の大きさを変えればいいって、ひらめいたの」
ティーさんの収蔵庫は、キャビネットの一角にあった。作品たちは静かにじっと待機していた。ギャラリーに飾られるときよりは呼吸が苦しそうだけど、それが当たり前だと受け入れるかのように。キャビネットの引き扉の縁には、金色の額がはめ込まれている。ガラスごしに小さな作品たちをながめていると、ティーさんの収蔵庫は、一枚の絵画のように見えてくる。
そういえば、デポ・ボイマンス・ファン・ベーニンへンで、わたしは途方に暮れていたんだっけ。改修中の美術館が再びオープンしても、展示できる作品は全体の8%という事実を知ったから。すべてを見るのは、一生涯かけても不可能だなんて。わたしがここにいなくても、作品は守られ、変わらずあるようだ。宇宙のような果てしない時間にめまいがした。
玄関の脇には、もうひとつドアがあった。うながされるまま部屋を見せてもらうと、こぢんまりとした作業部屋があった。窓からは、再開発の進む街が見える。湾岸には黄色いクレーン、歩道には土の山と、立ち入り禁止を示す赤と白の柵。ロッテルダムの空とみぎわには、ぬけがある。運河に囲まれた家々と道が、ぎゅっと詰まったアムステルダムとは、まるで対照的だ。
ほの暗い空間には、手仕事のための道具がかけられ、レイアウトには矛盾や迷いがない。木材や細い金属の断片が、ギャラリーや什器になるための出番を待っている。
作品を依頼されたアーティストたちは、「小さな作品はつくったことはないけれど」と前置きしながらも、ティーさんの手元にいつかは届ける。時間がかかることはあっても。その間、ティーさんは急かさずに待つ。うつりゆく港町を横目に、ギャラリーにむかえる準備をしながら。
Profile
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佐藤麻衣子(マイティ)
アートエデュケーター
水戸芸術館現代美術センターで教育普及担当の学芸員(アートエデュケーター)を経て、2021年よりフリーランスで活動。普段あまり美術館に来ない人、なかなか来られない人たちに向けたプログラムを企画。さまざまな人たちとの作品鑑賞の場づくり、学校見学の受け入れやワークショップなどを行ってきた。2021年11月からオランダで、障害のある人に向けたアートプログラムの調査を行っている。あだ名はマイティ。好きなものは星野源とビール。
写真:スズキアサコ
この記事の連載Series
連載:アムステルダムの窓から 〜アートを通して一人ひとりの物語に出会う旅〜|佐藤麻衣子(マイティ)
- vol. 082024.01.22「だれとも競争しなくていい場所」としての教室と美術館。オランダの大学院で感じたこと
- vol. 072023.05.26見つからない家とフェルメール作品の間で
- vol. 062023.05.02300台以上の緊急車両が、子どもや家族を乗せて動物園に向かう日。「キンダー・ベイスト・フェイスト」へ
- vol. 042022.10.31アムステルダムでやっと手に入れた自分だけの自転車。運河をこえ、美術館やアトリエ目指して走らせる
- vol. 032022.08.05コロナ禍で失われた手触りを求めて。ロックダウンのオランダで、ワークショップを通してつながったもの
- vol. 022022.06.01初めての海外生活で知った、美術館までの「距離」
- vol. 012022.04.08美術の授業がきらいだったわたしが、アートの仕事をするようになるまで