見つからない家とフェルメール作品の間で アムステルダムの窓から 〜アートを通して一人ひとりの物語に出会う旅〜|佐藤麻衣子(マイティ) vol.07
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水戸芸術館現代美術センターの学芸員(教育普及担当)を経て、現在フリーランスのアートエデュケーターとして活動している、マイティこと佐藤麻衣子さん。2021年秋からオランダ・アムステルダムにわたり、美術館プログラムのリサーチなどを行っています。
この連載では、マイティさんが滞在中に感じた日常の出来事や、訪ねた場所のエピソードなどを綴っていきます。
第7回はアムステルダム国立美術館へフェルメール展を観に行った時のこと。家の契約終了が数ヶ月後に迫ったマイティさんの焦る心情と、アムステルダムの厳しい物件事情にも話は及びます。
(こここ編集部・岩中)
「アムステルダムの窓から」これまでの連載記事はこちらから
- Vol.1 美術の授業がきらいだったわたしが、アートの仕事をするようになるまで
- Vol.2 初めての海外生活で知った、美術館までの「距離」
- Vol. 3コロナ禍で失われた手触りを求めて。ロックダウンのオランダで、ワークショップを通してつながったもの
- Vol.4 アムステルダムでやっと手に入れた自分だけの自転車。運河をこえ、美術館やアトリエ目指して走らせる
- Vol.5 大きな収蔵庫と小さなギャラリー。ロッテルダムの2つのコレクション
- Vol.6 300台以上の緊急車両が、子どもや家族を乗せて動物園に向かう日。「キンダー・ベイスト・フェイスト」へ
世界から人が訪れるフェルメール展にて
手に入れようとしても、叶わぬものがある。
わたしは、アムステルダム国立美術館で開催されているフェルメール展にいる。ヨハネス・フェルメールは、ゴッホやレンブラントと並んで、オランダを代表する画家だ。《真珠の耳飾りの少女》や《牛乳を注ぐ女》は、教科書やポスターで目にしたことのある人も多いかもしれない。日本での人気は高く、2018-2019年にかけて東京と大阪で開催された展覧会は、両会場で120万人以上を動員。37点しか現存しないといわれる作品のうち、東京では8作品、大阪では6作品が展示された。そして、2023年。フェルメールの生まれた国に、ドイツ、フランス、アイルランド、日本、イギリス、アメリカから28点が集結した。
展示室は、セレブリティが泊まる高級ホテルのように贅沢なしつらえだ。見慣れた白い壁は、作品との調和を慎重に考え、確信を持った色ーービンテージワインの赤、奥深い森の緑、深く染まった藍色などーーに、部屋ごとに塗り分けられている。作品は、広々とした展示室に1点、もしくはほんの数点だけ飾られ、壁と同じ色の重厚なカーテンが、ところどころ天井から吊るされている。
室内は、多くの言語が飛び交い、まるで空港のロビーに迷い込んだような喧騒だ。「みなさんが生きている間には、この規模の展覧会は開催されないかもしれません。」内覧会(展覧会が正式にオープンする前に、報道関係者向けに特別に開かれる日)で、館長が自負したとおり、フェルメールを目当てに世界中から人々が訪れているのが分かる。
展示室のベンチに腰掛けたわたしは、スマホから別の世界をのぞき込んでいた。今、向き合わなければいけないのは、目の前の絵画だけではなかった。わき目もふらず、メールに集中する。スピードがすべてを制す。遠い火星にいても深い海の中でも、物件情報が入ってきたら、「内見したい」と、即座に意思表示と自己紹介をしなければならない。
返信が終わり、息つぎするかのように顔を上げた。作品の前には、山脈のように頭が連なっている。人だかりから、額縁と絵のわずかな部分は見えるけど、ベンチからは全貌がうかがえない。近くで待っていれば、作品の前を陣取れる機会はすぐに訪れそうだった。でも、わたしには、立ち上がって見に行く気力も体力も残っていない。返事を期待できない物件に、手紙を送り続けていると、ほとほと疲れてしまう。
日ごとに切実さを増す住宅探し
展覧会のチケットは、会期が始まる前に売り切れた。その後、開館時間が延長され、追加販売をくりかえしても、すぐに売り切れてしまった。ウェブサイトのチケットシステムは、世界中からの希望を受け止められず、数日間ダウンしたままだった。しかし、しかしなのだ。わたしには、歴史の厚みと輝きよりも、2ヶ月後に迫った暗さと重みで頭がいっぱいだった。次の引っ越し先が見つからない。今のアパートの契約が切れる3ヶ月前から動いていたのに、ひとつきたっても進展がない。日本を発つ前から、過酷な家探しの洗礼は浴びていたので、みくびっていたわけじゃないのだけど。
「いくら住宅事情が悪いと言っても、1軒くらいはあるでしょう?誰にとっても住む場所は大事なものだし、なんとかなるんじゃない。」渡蘭する前は、そう思っていた。事態は何十倍も深刻だと気づき始めたのは、日本で会うオランダ人や、在住経験者の表情からだった。アパートの話題を出すと、例外なく顔が曇る。首を横に振る。何度も経験したからこその瞬発力だった。「助けたくても助けられない。」現実を知っているからこその、リアルな反応だった。
オランダでは、現在39万戸の家が不足していると言われている。昨年、複数の大学が「住む場所を見つけられるまでは、大学に来てはいけない」と、新入生にアナウンスしたくらいだ。オランダの賃貸住宅には、公営と民間の2種類があり、外国人はすぐに借りられる民間の賃貸住宅を選ぶ。オランダに移住する人は年々増加しており、ただでさえ少ない住まいを、多くの人と奪い合っている状況なのだ。
部屋探しは、不動産サイトを利用するのが一般的な方法だ。条件に合った物件を選び、内見希望の連絡を入れる。内見に招待され、気に入ったら、収入証明、銀行の取引記録、パスポートなどの本人確認書類を提出して申し込む。候補者の中から選ばれたら、契約手続きへ。ステップを並べてみると、一見簡単そうに思えるかもしれない。けれども、内見の返事を受け取っただけで「奇跡」といっても過言ではない。1ヶ月で50件の申し込みをしたけれど、実際に招待されたのは、片手で数えるほどだった。
内見は日時が指定されている。都合が合わなければ、次の機会はない。そのアパートとは縁がなかったと、諦めなければならない。奇跡には、無理やりでも予定を合わせるしかないのだ。当日は、同士でもあり、ライバルでもある人たちが、次々と押し寄せてくる。だから、やっと部屋の中を見られても、自分たちが選ばれる確率はほんのわずかしかない。
「空室情報を出したら、500件のメールが届いたよ。君たちは、見学できる5組に選ばれたんだ。」げんなりと祝福が混ざった表情で、不動産屋の男性が伝えた。引っ越し先を見つけるという目的を忘れ、「自分たちはラッキーなのかも」と、勘違いしてしまいそうになった。
家が見つからない問題は、時間がかかればかかるほど複雑に、そして深刻になってくる。内見の予定が急に決まるので、友達との約束は、不確実さをはらんでいる。行ってみたいイベントには気軽に行けない。生きるうえでの楽しみが、どんどん奪われてしまう。オランダに来て培われた好奇心が、日を追うごとに小さく、細くなっていく。
見つからない家と、描かれた手紙
朝、白い天井を見つめながら「次の行き先がない」と、考えると布団から出られない。昨年、研修期間が終わる直前に受けたアドバイスを、よく思い返すようになった。そのころは、慣れ親しんだ国に帰って働くか、残って仕事を探すかで悩んでいた。「オランダでは、アート関係の仕事は給料が安い。それに、あなたの英語力と年齢では正直働けないと思う。日本に帰って仕事を見つけた方がいいと思う。」近しいオランダ人は、こう言った。現実的かつ事実だし、その人なりに親身になってくれた発言だったと思う。
客観的に見れば、自分は異国で生活を続ける力量の足りない外国人かもしれない。ただ、「母国に帰った方がいい」と、目の前で言われたことに、わたしは面食らった。自分の意志で帰るのと、人から勧められるのとでは、同じ「帰国」でも意味が違う。セリフが頭から離れず、しばらく立ち直れなかった。
結局、さんざん迷ったすえ、残留を決めた。そのときは、夏のオランダの天気みたいに晴れ晴れしていた。語学力が低いなら、上達させるチャンスがある国にもう少しいた方がいい。気持ちを切り替えた。でも、数ヶ月たった今、うんともすんとも言ってこない物件にラブレターを書き続けていると、「日本に帰った方がいい」という声が、頭の中でこだまする。
「なんでこんなにオランダにしがみついているんだろう?自分の国では、こんな思いしなくて済むのにな。」日本にいる時には気づかなかった。住む場所を失う危機に瀕していると、日々の行動や気持ちにまで、じわじわと作用する。できないことばかりが目につき、すぐに落ち込んでしまう。先の希望もやる気もわいてこない。「知らない土地でも、自分の居場所はつくれるんだ。」街で友達に偶然出会ったり、ダメもとで申し込んだ取材が叶ったりと、土台を少しずつ築くことで得られた喜びと自信には、もう出会えないのかもしれない。
フェルメールの作品には、たびたび手紙が登場する。フェルメールが生きていた17世紀は、教育を受けた証しとして、上流階級の市民は手紙を書いて読んだ。一人で行動することが難しかった女性は、文通で外の世界とつながった。当時、すでにラブレターの書き方の指南書は存在していた。マニュアル本を頼りに、何通もの愛が書きつづられ、届けられた。誘いを受ける返事、断る返事、返事を先延ばしにする恋文が往来した。
《窓辺で手紙を読む女》というフェルメール作品がある。開け放された窓の前で、女性が立って手紙を読んでいる。便せんに視線を向け、うつむいているので、横顔からでは表情がうかがえない。どんな言葉が書かれているかも、鑑賞者は読みとることはできない。ただ、彼女の心情と便りの内容を想像するヒントはある。部屋の奥に掛けられた、1枚のあわい絵。地面に立つキューピッドが描かれている。右手に弓を持ち、左手を高らかに上げている。キューピッドが存在することで、求婚者からのラブレターだと推測できるらしい。他のフェルメールの作品ーー手紙を書く女性、受け取った女性、読む女性ーーの背後には、絵や地図が掛けられている。絵の中の絵には、航海中の船や、林の脇を散歩する人が描かれている。キューピッドの絵が求愛を連想するものだとしたら、船や散歩する人にはどんな意味が含まれているのだろう……?
携帯電話が鈍く震えた。絵に目を向けたまま、ポケットに手を伸ばす。画面は明るく光っている。わたしは視線を落とし、たった今届いたメールを開いた。
Information
展覧会「Vermeer」
会期:〜2023年6月4日
会場:アムステルダム国立美術館
住所:Museumstraat 1, 1071 XX Amsterdam
開館時間:9:00-23:00(一部の日を除く)
休館日:会期中無休
料金:大人30ユーロ、18歳以下無料
公式サイト:https://www.rijksmuseum.nl/ja/visit
Profile
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佐藤麻衣子(マイティ)
アートエデュケーター
水戸芸術館現代美術センターで教育普及担当の学芸員(アートエデュケーター)を経て、2021年よりフリーランスで活動。普段あまり美術館に来ない人、なかなか来られない人たちに向けたプログラムを企画。さまざまな人たちとの作品鑑賞の場づくり、学校見学の受け入れやワークショップなどを行ってきた。2021年11月からオランダで、障害のある人に向けたアートプログラムの調査を行っている。あだ名はマイティ。好きなものは星野源とビール。
写真:スズキアサコ
この記事の連載Series
連載:アムステルダムの窓から 〜アートを通して一人ひとりの物語に出会う旅〜|佐藤麻衣子(マイティ)
- vol. 082024.01.22「だれとも競争しなくていい場所」としての教室と美術館。オランダの大学院で感じたこと
- vol. 062023.05.02300台以上の緊急車両が、子どもや家族を乗せて動物園に向かう日。「キンダー・ベイスト・フェイスト」へ
- vol. 052023.02.06大きな収蔵庫と小さなギャラリー。ロッテルダムの2つのコレクション
- vol. 042022.10.31アムステルダムでやっと手に入れた自分だけの自転車。運河をこえ、美術館やアトリエ目指して走らせる
- vol. 032022.08.05コロナ禍で失われた手触りを求めて。ロックダウンのオランダで、ワークショップを通してつながったもの
- vol. 022022.06.01初めての海外生活で知った、美術館までの「距離」
- vol. 012022.04.08美術の授業がきらいだったわたしが、アートの仕事をするようになるまで