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福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

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今、私たちは「わかりあえなさ」にどう向き合うべきか。小林エリカ×ドミニク・チェン 対談 未来のしたく vol.01

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「個と個で一緒にできること」を合言葉に掲げるウェブマガジン「こここ」では、人と人との関係性、つながりかた、対話のありかたを更新していく意欲的な試みを「未来のしたく」と捉え、その現場を訪ねる連載をはじめます。

さまざまな現場を訪問するのは、作家・漫画家の小林エリカさん。綿密なリサーチをもとに、歴史的な人物や原子力といったモチーフから作品を生み出してきた小林さんの視点でこれからの社会を創造していくヒントを探っていきます。

第1回は、情報学研究者のドミニク・チェンさんを訪ね、〈21_21 DESIGN SIGHT〉に伺いました。ドミニクさんは『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために その思想、実践、技術』の著者であり、〈21_21 DESIGN SIGHT〉で2020年10月から2021年6月まで開催されていた展覧会「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」のディレクターでもあります。

さまざまな場所でデジタルトランスフォーメーションが進む現在。物事を高速化し、便利にするためのテクノロジーが次々と生まれていますが、大切なことを人間に気づかせてくれる仕組みもまた、現代の私たちには必要なのかもしれません。

日常生活で“やり過ごさない”感性を大切にすること、見過ごしがちな物事に視点を変えて向き合うこと。“トランスレーション(翻訳)”的な活動をされているお二人に対話していただきました。

【画像】てんらんかいじょうにいるこばやしえりかさんどみにくちぇんさん
(写真左から)小林エリカさん、ドミニク・チェンさん。「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」(2020年10月16日〜 2021年6月13日開催)を鑑賞した後、対談した。

翻訳の「あわい」を楽しむ

——小林さん、「トランスレーションズ展」はいかがでしたか。

小林エリカ(以下、小林) 展覧会には一度訪れていましたが、今回ドミニクさんにお話を伺いながら、もう一度体験させてただいて、よかったです。トランスレーション(翻訳)というものの根底に「わかりあえなさ」があり、そこを前提に展示が構成されているのが素晴らしいと感じました。

「翻訳」というと、全部は伝えられるはずがないとか、逆に完璧に伝わるはずとか、極端に捉えられることも多いですが、実はその「あわい」に豊かな世界が広がっている。それは言語の翻訳だけでなく、展示にもあったように、身体的な翻訳や、人間と植物や動物のあいだの翻訳もそうですよね。わかりあえないからこその「あわい」にある豊穣さを感じる展示でした。

ドミニク・チェン(以下、ドミニク) 一番うれしい感想ですね。

Google Creative Lab+Studio TheGreenEyl+ドミニク・チェン《ファウンド・イン・トランスレーション》

小林 最近はGoogle翻訳もあるから、言語を学ばなくても、すべてを自動化してしまえばいいと感じることもあるかもしれません。技術というのは素晴らしい。けれど、不完全な人間が学習の過程でその中間にあるものを掴むことにも楽しさがあるんだ、と思えました。

ドミニク 僕は、テクノロジーを使う場合も、「伝わること」と「学ぶこと」が同時に起きていると考えています。Google 翻訳のような技術を使うときでも、使い方によって全然違う結果になるということですね。

たとえば、翻訳結果をそのまま相手に見せることと、その翻訳結果を自分自身の声と身ぶりで発してみることには大きな差がありますよね。後者では、発音が良くなくて相手に伝わらなかったといった経験も、学習のフィードバックとして自分に返ってくる。そうすることで相手への興味関心というものが自分のなかで耕されていく。このような学習のためにテクノロジーを使うことがいいんじゃないかなと思ってるんです。逆に「技術にコミュニケーションを任せる」とか、「技術があるから触らなくていい」というテクノロジー観には僕は批判的です。

だから、技術とはただ「便利なことをもたらしてくれるもの」というラベリングをしてしまうのもテクノロジーの可能性を矮小化してしまうと思うんです。僕は、エンジニアとしてプログラミングをする行為を通してテクノロジーの面白さを体感しているので、その体験自体も翻訳して伝えていきたいと思っているんです。

「AIが人間を支配する」とか、「コンピューターを捨てよう」とか、逆に「人間を救うのはテクノロジーしかない」という人もいる。そんな二つの極に分化してしまうと、小林さんが言われた、その間の豊かなグラデーションを見逃してしまうことになりかねないですよね。でも、真ん中の面白さを伝えるのは、実は難しいですね。

和田夏実+筧 康明《...のイメージ》
和田夏実+筧 康明《...のイメージ》

小林 たしかに。でもその真ん中の面白さを知ると、「誤訳」したときに生まれる発見とか、豊かさを見つけることにつながっていく。自分のことで言うと、最近作品を英語に翻訳していただく機会が多いんですが、自分自身の日本語にもフィードバックがあって面白いんです。私としては当たり前に使う日常の言語だけど、単語の持つ深い意味とか、漢字の表象的なことなど、翻訳されて初めて気がつくことが多い。だから、翻訳って一方通行のものじゃなくて、双方向なんだなと、すごくエキサイティングな気持ちになったんです。

ドミニク 面白いですね。英訳されたものが、日本語にフィードバックされるとは。

小林 翻訳を機に、作品のタイトルを変えたこともあります。最初、『父たちの冒険』というタイトルをつけていた短編小説があって、シャーロック・ホームズ物語のタイトルをもじってそうしたんですが、英語で「The Adventures of Fathers」だとちょっと変。翻訳家の方と相談したら、父の死を扱っているので、別のホームズ物語のタイトルでもある「His Last Bow」(最後の挨拶)はどうかと。 良いタイトルだと思い、その後、新しい日本語の作品の邦題にもさせてもらいました。日本語だけの感覚では私には出てこなかった発想でした。

ドミニク あるものが違う世界の感覚に置き換えられ、もう一回戻ってくる。さきほど展示を見ながら、小林さんから、インドからカレーという食文化が日本に来て、「ココイチ(CoCo壱番屋)」のカレーとして再びインドに帰って行くというお話を聞きましたが、構造的に似ていますね。

小林 CoCo壱番屋のインド出店には感銘を受けました。私の中では勝手に「ココイチの法則」と呼んでます(笑)。

その意味で翻訳とは、一方通行ではなく双方向的なものなんですよね。展示作品《見えないスポーツ図鑑》では、目が見えない人に向け、柔道の試合をタオルを引っ張り合う行為に置き換えることで翻訳していましたが、あれも伝えることが目的だけど、やっている側はその行為自体がすごく楽しそうでもある。そうした双方向性が、翻訳を考えるときのひとつのキーワードだと思いました。

《見えないスポーツ図鑑》(伊藤亜紗(東京工業大学)+林阿希子(NTTサービスエボリューション研究所)+渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所))

自分を“非当事者”化する視点

——「見えないスポーツ図鑑」では、「見る観戦」から「感じる感戦」へ、とも謳われていましたが、「トランスレーションズ展」では、言葉と言葉だけではなく、言葉と言葉以外のものとのつなぎ合わせも行われていました。そこにはどのような狙いがありましたか?

ドミニク SF作家のケン・リュウさんは、『紙の動物園』という本のまえがきで「あらゆるコミュニケーション行為は翻訳の奇跡だ」と書いています。僕らは、普段から言葉になる以前の感情とか心の渦を何とか言葉に置き換えて会話している。だから、同じ母国語を話す者同士の会話も、一種の翻訳の結果であり、逆に言うと完璧な翻訳・伝達などないのだ、と思わせてくれる。僕は、この言葉に救われました。

僕には吃音があって。言いたいことが喉元まで来ているのに、それが言えず、べつの言葉に置き換えるということを子どもの頃からしてきました。さきほどの《見えないスポーツ図鑑》の作者でもある、美学者の伊藤亜紗さんに「隠れ吃音」と名付けてもらいましたが、伊藤さんも含めて実はこの特性のある人は多いんですよね。それが子どもの頃からコンプレックスで、人前で話すことがずっと苦手だったんです。でも一度、吃音の当事者たちと集まって会話をしたら、すごく気が楽になった。そこでわかったのは、吃音の現れ方自体が、実は多様なんだということ。言いたいけど言えないことへの対処方法もそれぞれ違って、体でリズムを取る人とか、僕みたいに違う言葉に置き換える人とか、それぞれが自身の翻訳の仕方をしているということを知ったときにとても開放感を感じたんですね。

さらに吃音だけではなく、たとえばあがり症の人もいるのだから、完璧に自分の言いたいことを言えている人なんているのだろうか、と。ケン・リュウさんの言葉は、そうした悩みを解決しなくてもいいんだというパラダイムシフトを与えてくれたんです。

小林 みんな、言いたいことと、言えることの狭間で悩み続けている。

ドミニク 吃音って悪いことばかりじゃないと思って暮らしていると、日常にフィードバックがあったりもします。ある方が「話がノっているときほど吃る。逆にスラスラ話せるときは、自分の発言に退屈しているときだ」と話されていました。僕も以前は吃ると焦ったけど、最近は楽しめるようになってきた。自分の身体の問題を、ある種「他人ごと化」して見られるようになったんです。当事者でありながら、どこかで非当事者の目線で自分を見るというか。能の世界でも「離見の見」といって、良いパフォーマンスの条件だと言われています。

小林 近すぎると、逆に見えないこともありますよね。

ドミニク 一度、自分の外に出てみる。その視点を持って、また内に帰る。そうした往復運動から見えてくることは、先ほどの「あわい」の豊かさにつながるものがある気がします。

小林 異言語ということだけでなく、身体的に外に出るためのきっかけって、もっとたくさんあるのかもしれないですよね。

ドミニク いま、吃音をきっかけに、オンラインコミュニケーションについての共同研究をしています。吃音の当事者は、会話のリズムやパターンを手がかりに話に「乗る」のですが、オンラインだと相槌が見えにくい。そこで「相槌ボタン」を作り、カメラをオフにしていても聴き手の反応が共有できるようにすると、話がしやすくなるんです。

頷きや視線のような言葉以外の応答は、英語で「バックチャネリング」と言いますが、実はそうした非言語的な要素が僕らの会話を底で支えている。これも会話を外から見てわかることで、そこで得られる知見は吃音当事者以外にも有益なものになるんじゃないかと考えています。

小林 頷きのような些細な行為は、その重要性を見過ごしてしまいがち。だけど、ボタンを作ることで、それを視覚化、触覚化すると再発見できることがある、と。「違った感覚に置き換える」ということに面白さがあるなと、伺っていて感じました。当たり前の行為って流れてしまうので、それをあえて強調する別の手立てを用意すると見え方が変わるんだなと。

ドミニク 誰もが相手と相互依存的に支え合いながら発言をしている。それがわかるだけでもだいぶ楽になりますよね。ただ、文化圏でも捉え方が違って、アメリカでは吃音は克服すべき症状として、スピーチセラピーで徹底的に矯正されるという考え方が主流だそうです。立派に発言できる強い個であれ、というわけですね。治そうとするプロセスによって自信をつける人もいると思うので、一概に否定はできませんが、僕は吃音と共に生きるというアプローチも認められた方が生きやすいと思うんです。そもそも吃音は原因も解明されていないので、医師によってアプローチが違うんですね。僕には、いろんなあり方があることが救いになっている。わからないことだらけで、断言ができない状態というか。

小林 その話は病やコロナにも重なりますね。私は「病気に負けるな」とか「コロナに打ち勝て」といういい方が苦手で。そういう話になった途端、病気やコロナにかかった人は負けで、自分の努力が足りなかったのではないかと感じてしまうんじゃないかと私は思うんです。でも、本当は「打ち勝つ」とか「克服すべき」とかではなく、異なるベクトルからそれを考えたり、付き合ったりするような、向き合い方があるといいなと思っています。

ケアにはキュリアス(好奇心)が大切

——展覧会では、人間と目に見えない存在との関わり方をめぐる展示もありましたね。

ドミニク 僕は微生物と話がしたいと思っています。そう言うと、ちょっと変な人みたいですが(笑)、いまも地球上に生息している約97%の微生物は発見されていない。また、人間の腸内フローラのなかには人間の細胞の数より多い微生物が住んでいて、僕らはそれに感情や嗜好を左右されている、と言われます。

《NukaBot》はそんな微生物との付き合いをテーマにしたぬか床ロボットですが、ぬかを手で混ぜることにこだわりました。どうしてかと言うと、身体に付いた微生物が野菜の乳酸菌と混ざり、その野菜をまた体内に入れ、という循環を繰り返すと、ぬか床と腸内フローラが同期してくるんではないかという仮説を持っていて。微生物との触れ合いを通して、僕たちは自分の身体よりもはるかに広く多様な空間とつながっているんです。

Ferment Media Research《NukaBot v3.0》

小林 微生物とはちょっと違うんですけど、私は目に見えない微生物のことを考えると、ついついやっぱり目に見えない放射能のことを思い出してしまいます。以前、私は物理学者のマリ・キュリーのノートを見せてもらったことがあって、いまでも調べると彼女の指が触れた部分だけ線量が高いんです。放射能の名づけ親でもある彼女が素手でラジウムを扱っていたからですが、ラジウムは半減期が1601年と言われるので、彼女がそれをはじめて手に持ちノートに触れたその年から西暦3603年、30年を1世代とすると、53世代先まで指紋が残ることになる。そのことを思い出しました。それは、恐怖でもあるけれど、ロマンでもある。

ドミニク 見えないものへのロマンは同じですね。20世紀の科学は、一言で言えば傲慢だったと思うんです。 環境破壊も、破壊兵器もその傲慢さに起因している。20世紀はテクノロジーが飛躍的に進化したにも関わらず、人類が最も「野蛮」であった時代でした。その反省から、21世紀に入ってからは基本的にとても謙虚な姿勢を持つ科学者が増えています。微生物の場合をとっても、そのほとんどがわかっていなわけですから。「わからない」ということは、実その「傲慢さ」を回避するのに役立っていると思うんです。そういう謙虚さを前提にして科学者コミュニティが研究を進めることに希望を感じています。

「こここ」が取り扱う「福祉」というテーマもそうだと思うのですが、目に見えないものへの想像力がより一層、大切になっていると感じています。

僕は最近、このすっかり手垢のついた「想像力」という言葉にふたたび惹かれていて、それを「ケア」という概念と絡めて考えています。面白いのが、哲学者のミシェル・フーコーが、「ケアという言葉にはキュリアス(【curious】好奇心の強い、ものを知りたがる)が入っている」と言うんですね。僕の場合、微生物に対してキュリアスだからケアしている。これが「対人間」だと福祉の問題になるわけですが、たしかに好奇心なきケアはないな、と思います。吃音ももともと封印したかったものを、カミングアウトすることで同志やパターンが見つかって、吃音に対して、そしてコミュニケーションを苦手と感じる人たちに対しても、どんどんキュリアスになっていくし。

小林 好奇心がケアにつながるというのは、すごく納得がいきます。

ドミニク ケアと好奇心は相互補完的な関係なのではないでしょうか。ケアフルではない好奇心は暴力的になるし、好奇心なきケアは作業的になってしまう。両方のバランスを両立させることが重要ですよね。

小林 子どもに対しても、私は大人として子どものために何かをしてあげるという発想ではなく、むしろ自分が興味があるからその子たちと一緒に何かをやるという方がしっくりくる感じがします。ダウン症や自閉症のある子どもたちのお絵かき教室「アトリエAにときどき参加させていただくことがあるのですが、そこでは、ただただ私も一緒に楽しむだけ。大人が子どもに教えるとかそういうことがなく、みんなでそこに集まって一緒にやる。その心地よさにはいつも感動するし、私は密かにいつも子どもたちから教えられることの方が多いくらい。

——今日のお話では、既成概念や常識を相対化してみるということの大切さが語られていると思います。科学の進歩が文明を生み出し、しかし文明よりもむしろ文化ではないかという見直しが起こっている時代、 いままでの見方を変えてみようという流れのなかにお二人の仕事はある。見え方の相対化をしていく時代なのかなと思います。

ドミニク コミュニケーションを捉えようとすると、合理的と非合理的の両方の側面がありますよね。若いときは、コミュニケーションは合理的に行うべきだという考え方に捕らわれていましたが、歳を重ねるごとに、非合理的な側面の方が大事なんじゃないかと思えてきました。さきほどの相槌もそうですし、たとえば海外旅行先で言葉が通じないときの方が、コミュニケーションの意志があるぶん、関係性が深まることもありますよね。「わかりあえなさ」というものも、ポジティブに捉えられる。

小林 そうですね。でも、その一方で、「わからないことをわかったような気になってしまう」場面もあることに最近よく気づくんです。私自身も、たとえば放射能のような目に見えないものについて何年も考え続けてきて、目に見えないとわかっているはずなのに、ついやっぱり見えるものに勝手にあてはめて捉えようとしてしまうことがある。わからないということ自体をわからないというか。わからないままにしておくのが難しいというか。

ドミニク なるほど。正座をして足が痺れるのは身体が教えてくれるからですが、僕らは意識の痺れには鈍感なところがありますよね。筋肉は使ってないと衰える。そんな感覚で自分の意識も「違和感」や「痛み」に気づけるように鍛える必要があるのかもしれません。そのために、知らない場所に行ったり、普段はやらないことをするとか。予防医学研究者の石川善樹さんと話してたら、「To Do リスト」ではなくて「To Feelリスト」を作るといいのではないかと言っていて、僕もそれに啓発されて、「年に一度は恥ずかしいことをやる」とか、「やったことないことを引き受ける」などを実践しています。たとえば以前、イラン人の劇作家の方の演劇作品に主演で誘われて、すごく迷った挙げ句に出てみたんです。すると案の定、すごく恥ずかしかったです(笑)。でもそうやって演劇空間に立ってみてはじめてわかること、感じることがあるんですよね。そういう風に、いろいろな場所に出たり入ったり、自分のフィールドに戻ってきたりと、蜂のダンスみたいに8の字を描きながら生きることもまた、「わからなさ」だったり、「違和感」に繊細になるためには重要なのかもしれません。

小林 以前、暗闇を体験する施設「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を訪れた際に、自分の記憶があまりにも視覚に頼っているんだということに初めて気づきました。暗闇で体験した出来事を思い出そうとしたときに記憶を取り出す場所が違うんですね。それまでは視覚によって脳に格納していたのに、そこには視覚情報がないから、体験の思い出し方が違うんです。自分が日頃いかに視覚に頼って物事を認識したり記憶しているかを実感しました。「To Feelリスト」もいいのですね。こういった装置のようなかたちというか、外部から強制的に認識の変更が迫られる機会が、もっと身近にたくさんあるといいのかもしれません。

――小林さんの著書『空爆の日に会いましょう』は、世界で空爆が行われる日に、他人の家に泊りに行くという物語ですよね。それもいまの外からの強制的な認識の変更ということにつながることもあるのではないでしょうか。

小林 そうですね。遠いところで起こったこと。たとえばカブールの空爆で5人が死んだとニュースで知ることがあっても、私はそれをすぐ忘れてしまう。そのとき、私が他人の家に泊まりに行って、「私が来た日はカブールで5人が死んだ日です」と言ったら、その人の中に残る記憶となるかもしれないし、その5人のうちのひとりはこの人とおなじひとりの人間なのだ、と想像を巡らせることができるかもしれない。そういう外的な「装置」のようなものがたくさんあったらいいなと思うんですね。「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」のように体感できるものがあったらいいなと。

ドミニク 宗教儀礼というのはそういう意味でひとつの集合的な記憶の装置ですよね。大災害があったり、あるいは豊作だったり、そういう悲しいとか嬉しいという感情を記憶に留めるためにも、長い手順を踏んで神様に祈る。コミュニティで記憶を定着させる「技術」なんだと思います。

小林 たしかに、宗教儀礼はそうですよね。

2021年4月12日、〈21_21 DESIGN SIGHT〉にて収録

たくさんの「乗り物」を持つ

ドミニク それは「トランスレーションズ展」にも共通することで、「非日常」の場をつくり、体験し、感じるということですよね。でも、それは展示空間でなくても、日常生活のなかにも立ち現れます。たとえば、僕は匂いに敏感で、町中で歩いていて吹いてくる風の匂いに、ふと昔訪れた場所や季節の変化を感じ、立ち止まることがあります。そのとき記憶のフラッシュバックを味わっている。だけどそう考えると、実は自分の経験や記憶のなかにもたくさんの外部性がある。それを頼りに「いまここ」ではない場所とつながれるなら、必ずしも新しい体験は必要ないのかもしれない。そうしたささいなことから、日常のなかに非日常を作ることもできるのではないでしょうか。

小林 そうした機会があればあるほど、 さまざまなものとトランスレーションできる気がします。この展覧会のサブタイトルにある「わかりあえなさをわかりあう」という感覚は、実は私がいま切実に欲しているものだと思いました。

——いま、これだけ「多様性」ということが言われている世の中ですが、その一方で異なるものに触れることが避けられている雰囲気も感じます。だからこそ、違いを楽しむことの価値が上がっているのでは。風の匂いに何かを察知するような感覚は、現代人よりもかつての人々の方が優れていたものかもしれません。

ドミニク 周囲の環境から豊かな情報を引き出すのは、一種のスキルですよね。小説家の堀田善衞が藤原定家の『明月記』を読む『定家明月記私抄』という本があるのですが、定家はそのときどきの月に、じつに多様なものを感じている。それを読むと、昔の人にとって月はテレビのようなもので、思考を投影するある種の虚ろなメディア装置だったのだと感じます。

虚ろといえば、僕は竜安寺の石庭が好きで、「この角度いいな」とか、眺めながら頭の中でいくらでも遊べます。それは実は、僕がゲーマーであることにも関係していて、石庭をある種のゲームのステージに見立てて、そこに視点を投影しながら散歩をしている感覚なんですね。だから、プレステやスイッチなどでゲームを遊ぶのも好きなんです。ただ、自分の周りを見ると、どっちかはいいけど、どっちかはダメという人が多い。竜安寺は好きだけどゲームは嫌いか、ゲームは好きだけど竜安寺は嫌いか。両方を好きな人が増えてほしいな、と(笑)。二項対立にならずにつながっていけることが大切だと思っています。

小林 よくわかります。私も最新のテクノロジーは好きで、石庭も好きですよ。あと最近は鉱石が大好きなんです。以前は「宮沢賢治はなぜあんなに石に熱中できるのか」と感じていたくらいなのですが、「これか」と鉱石の面白さがわかった瞬間があり、自分の中の宇宙が開けるような感覚を覚えました。わかると最高に面白いのですが、ただ、そこまでにはすごく長いプロセスがあって、面白いと思えるまでに四十年かかった(笑)。何かしらのテクノロジーでそれをショートカットできないものかと感じます。アートや小説やメディアはそうしたショートカットできる入り口や通路を作り出すことができるはず。その装置を作ることが作家やアーティスト、キュレーターの役割なのかなと私は信じていたりもします。

ドミニク デビッド・オライリーというアイルランドのアーティストによる《Everything》というメディアアート作品があります。これはプレイヤーが人間以外の万物に憑依できるゲーム型作品で、たとえば花になると花粉が見え、微生物になるともっと小さなレベルの世界が見えるようになる。僕にとっては、この作品の体験が、自然風景との遊び方を変えるひとつの入り口になりました。

小林 そういう装置がもっとほしいですよね。ゲームだったり、アニメだったり、そういうものが増えていくと楽しくなりそう。

ドミニク 一方で、先端的な技術を使わなくても、たとえば自転車に乗るだけで、街の風景が電車や自動車に乗っているときとは異なって見えることがありますよね。

小林 私とドミニクさんは、今日たまたま二人とも自転車で取材場所まで来ましたが、速度が変わるだけで通る道や、その見え方がぜんぜん変わってきますよね。

ドミニク 自転車、自動車、徒歩などで、それぞれ発見できるものが違う。そして、それぞれを行き来してるとき、日常の外部への入り口が開けてるのかもしれないな、と。

小林 その「乗り物」はたくさんあった方が、単純に楽しいと思うんです。自転車と電車のどちらが良い、悪いということがないように、「トランスレーションズ展」を見ると、自分がこれまで乗ったことがない乗り物がたくさんあることに気づきます。

ドミニク 自分の身体は、僕らが生まれたときに最初に与えられた乗り物、ハードウェアですよね。それは機械のように簡単に修理したり、変えたりはできないものだけど、使い込んでいるうちに味が出たり、違う使い方が見えてきたりする。たとえば僕の吃音というものも、ディスアドバンテージはあるんだけど、その分いいこともあるんだぜ、といった、そうやって自分の身体を相対化する視点を持つと、世界との関わりはより自由になるのではないかと思います。

小林 そんな場所をこれからも訪ねて行きたいです。よかったらご一緒に。